ホークスを最強軍団に変える。根本陸夫が果たした最後の仕事

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2024年01月29日 10:21  webスポルティーバ

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 優勝へのマジックナンバー点灯は先を越されたものの、ソフトバンクが3年連続日本一を目指すことに変わりはない。過去、日本シリーズで3連覇以上を達成したのは巨人、西鉄(現・西武)、阪急(現・オリックス)、西武の4球団しかない。5球団目になれるか否かは"神のみぞ知る"だが、それだけの強さは近年のプロ野球では稀である。

 ソフトバンクが3連覇を達成すれば1992年の西武以来となるが、強さの源流をたどると、じつは黄金期の西武に行き着く。まさに92年オフ、ひとりの男がライオンズからホークスへと"移籍"したことが原点だった。

 男の名は、根本陸夫。西武では監督を3年間務めてフロント入りすると、実質的なGMとしてチーム強化を推し進めた。監督に広岡達朗、森祇晶を招聘し、トレードで戦力を整える一方、有望な新人獲得のために裏技も駆使したことから、"球界の寝業師"とも呼ばれた。黄金期は根本なくして築かれなかったといわれる。

 その実績に注目したのが、ソフトバンクホークスが前身のダイエーホークスだった時代のオーナー・中内功で、根本を監督兼球団取締役として迎え入れた。監督ではあるが、周囲からは、いずれダイエーでもフロント入りするはずと見られていた。当時、中内から根本のサポート役に任命され、のちに球団副本部長と球団代表を務めた瀬戸山隆三(現・オリックス球団本部長)が、監督1年目の93年を振り返る。

「2月のキャンプ初日のことです。根本さんはみんなの前でこうおっしゃいました。『オレは勝つ気がない。でも、お前らひとりひとりは成長しろ。何年後かには強いチームを作る』と。ただ、その半面、古くからいる選手たちにはかなり辛辣でした。シーズンが終わると『今のチームは同好会だ。それじゃあダメだ』と言って、『チームを変えるために血の入れ替えをする』なんて言葉を平気で使っておられたし、フロントとしてFAの選手の調査などもしていました」

 その年のダイエーは45勝80敗5分けで最下位。記念すべき福岡ドーム元年を好成績で飾れなかったが、新監督は勝利にこだわるより先を見据え、チームに手を加えるところを把握していた。

 そして、同年9月から、根本は代表取締役専務と球団本部長を兼務。チームの監督兼任でもあるから、GMの職域も超える立場である。その立場で成した大仕事が、ダイエーから外野手・佐々木誠、投手・村田勝喜、投手・橋本武広を放出する代わりに、西武から外野手・秋山幸二、投手・渡辺智男、投手・内山智之を獲得した超大型トレードであった。もっとも、瀬戸山によれば、そのときの根本はさらなる大仕事に向けて動いていたという。

「根本さんはダイエーに入られたときから、『オレは基礎を作る。それでワンちゃんを呼ぶ』とおっしゃっていました。王貞治さんを連れてきて監督にするというわけです。ちょうどJリーグが発足したときで、『このままでいくと野球はサッカーに負ける。巻き返すためにはON対決しかないんだ』と。つまり長嶋茂雄さんが監督の巨人と、王さん率いるダイエーとの日本シリーズが野球界全体を盛り上げる、という考えをお持ちだったんですね」

 巨人のスーパースターだった王を、パ・リーグの球団に連れてくる── 。西武で招聘した広岡、森も巨人出身ではあったが、知名度も存在感も桁違いだけに、実現は不可能と思われた。それでも根本は、球界の行事などで会うたびに王に誘いをかけ、94年の1月には、瀬戸山を伴った3人での会食の席で正式に要請。

 その後は瀬戸山が月に一度、王と会食しながらの交渉を続けていくと、ついに6月には受諾し、7月に次期監督内定となった。巨人退団後、日本ハム、横浜(現・DeNA)から監督就任を要請されても断っていた王が、当時の心境を語る。

「最初は冗談だと思ってたのが、本気で声をかけてくれているとわかって、根本さんがあきらめずに声をかけてくれたとき、僕はこう考えた。"生涯巨人"の思いを断ち切って心機一転を図るなら、当時、東京ドームが本拠地だった日本ハムや在京球団ではやりづらいだろうなって。だったら逆に、東京から遠く離れたパ・リーグの球団ならいいんじゃないか。そうして、ここでユニフォーム着るのもいいんじゃないかと思い始めた。機が熟すというか、タイミング的なものもよかったんじゃないかな」

 94年10月、根本の監督辞任と王の次期監督就任が発表され、契約期間は5年と明かされた。根本は「どんなことがあっても5年は任せる」と腹をくくり、実質GMとしての仕事に専念。そのオフには西武からFAの工藤公康、石毛宏典を獲り、ドラフトでは駒澤大進学が内定していた強肩強打の大型捕手、城島健司を1位で強行指名して獲得。進学志望の選手をプロが"横取り"したと問題になったが、根本は城島が100%進学希望ではない、という情報をつかんだ上で指名したのだった。

 補強と戦力整備は順調だったが、王ダイエー1年目の95年は54勝72敗4分けで5位。周りの期待に反して前年の4位より下降し、96年は最下位。97年は同率4位、98年は同率3位と上がるも、周りではそれ以前から、監督交代を求める声が出ていた。

 西武同様の成果をすぐに出せると見られた根本に対しては、批判、反発もあった。瀬戸山によれば、オーナーの中内の気持ちが揺れ動いた時期もあったというが、根本は「5年も契約しているんだから、5年はやらさないとダメだろう」の一点張りだった。そして王自身、こう言っている。

「たぶん、ダイエーの本社筋ではね、僕を『代えろ』っていう話がものすごくあったようだけど、根本さんが頑張ってくれたんだと思う。時間はかかっちゃったけど、よく我慢してもらったと思うよ」

 根本は身を挺して、王の5年契約をまっとうさせようとしていた。5年目となる99年1月には、前年12月のスパイ疑惑事件を契機として、球団社長に就任する。あらためて、球界内で注目の的になった。

 ところが、社長となったわずか3カ月後の4月30日、根本は心筋梗塞のため72歳で急逝。皮肉にもその年、王ダイエーはリーグ優勝を果たし、日本シリーズも制することになる。主力メンバーは93年以降に入団した選手が中心で、勝てないなかでもチーム作りは着実に進んでいた。

 ホークスはその後、パ・リーグの強豪となり、球団がソフトバンクに変わったあとも4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成。王が監督を退任して球団会長になると、秋山、さらには工藤があとを継いだ。いずれも根本が西武から獲得した人材だが、現監督の工藤はこう語る。

「僕自身、ホークスに帰ってきたわけですが、そのときに、根本さんはここに人材を遺されたと感じました。僕がどうとかではなくて、前監督の秋山さんもそうですし、なにより王会長がそうです。人であり、考え方であり、生き方を遺されたと思います」

 もうひとつ、根本が遺したものがある。「12球団一」といわれるホークスの宮崎キャンプである。

 高知から宮崎にキャンプ地が移されたのは2003年秋だが、根本は95年から同地に通い始め、宮崎市長と交渉を重ねたという。一軍と二軍が同時に練習できる環境は当時の日本プロ野球では先進的で、その環境がホークスの選手層を厚くしてきたことは間違いない。

 さらに、米球団のファーム組織を何度も視察していた根本は、「ファームが少なくともあとひとつはできないと」と構想していた。それは現在の3軍制度に受け継がれたといえないだろうか。

"根本遺産"というべきものが、3連覇を目指すホークスの強さを支えている。人材、組織、設備の充実ぶりを踏まえれば、今や「球界の盟主」と言っていい。

 最後に、王の言葉を掲げておきたい。

「おそらく、根本さんがいなかったら、まず、ダイエーホークスで終わっていたかもしらんね。ソフトバンクホークスになるまでつながっていないと思う。もちろんホークスだけじゃない。野球界全体に影響を与えた、という意味では忘れ得ぬ人だし、惜しい人を失ったと、今でも思う」

(=敬称略)

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