【根本陸夫伝】王貞治を「ラーメン屋のせがれ」と言い放った男

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2024年01月29日 10:31  webスポルティーバ

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根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第41回

証言者・森脇浩司(2)

 1993年、新たに根本陸夫が監督に就任したダイエー(現・ソフトバンク)だったが、チーム成績は前年4位から下がって最下位。福岡ドーム元年を好成績で飾ることはできなかった。それでも実質的にGM兼任の根本は、指揮を執りながらチームを観察して課題を把握。オフには、戦力補強と選手の入れ替えに自ら動いた。とりわけ、チームリーダー役として、西武から秋山幸二を獲れたのは大きかった。
 投手陣には課題が残っていた半面、打線強化が奏功し、94年は69勝60敗1分、勝率.534で4位に浮上。そして10月8日、シーズン最終戦の後、根本は自らの監督辞任と王貞治の新監督就任を発表した。その経緯を一選手として見ていた森脇浩司は、前年に比べてスタメン出場が激減。「現役選手としてはもうこのあたりまでだろう」と考えていた。森脇が当時を振り返る。

引退会見の後、根本からパソコン購入を命じられる

「根本さんの場合、監督としては明らかに、次の人にバトンを渡すためにチームをどのようにしておくか、ということに徹してらしたと思います。そうして、ある程度、形ができたら、『オレじゃなくて勝てる監督を呼んでくる』と。そして王さんを招聘されて、ご自身は現場をサポートする立場に移られた。それからの僕は同じように根本さんから学び、王さんから学び、という日々でしたね」

 浮上が期待された95年は、逆に5位と下降。西武から加入した工藤公康が12勝を挙げたが、それ以外に2ケタ勝利投手は現れなかった。攻撃面は外国人補強の失敗があり、王が独自に編成したコーチ陣にも問題があった。さらに、その翌年は最下位。ファンの失望は怒りに変わり、グラウンドに発煙筒を投げ込んだり、王はじめ選手が乗るバスに生卵をぶつける者まで出てきた。

「すべてを見てはいませんが、王監督にとっては大変な、タフな時間が流れたことは事実です。それに対して根本さんは、王監督を呼んだ以上は、いかなる状況になっても優勝するまで任せるべく、いろいろな面でバックアップしておられた。批判、反発する者に対してはすべて受けて立つ、背負い切る。当然ながら、それだけの度量を持っておられた。チームにとっても、ファンにとっても、非常に心強い人だったのは言うまでもありません」

 そんな中、出番がなくなっていた森脇は96年限りで現役を引退した。

「引退会見の後、『10分ほど話があるから、ちょっと来い』と呼ばれて根本さんの部屋に行くと、実際には3時間も話が続きました。その中で非常に印象に残ったのが、このひと言です。『今日、この話が終わったら、パソコンを買って帰れ』と。まったく予測していない言葉で驚きましたね」

 現在のように、パソコンもインターネットも普及していない頃。ダイエーの二軍育成担当コーチ就任が決まっていた森脇は、自分がパソコンを持つ意味を考えてみた。

 今後は、やる側からやらせる側、サポートする側になる。そのためには今まで以上に見聞を広げ、様々な角度から自分を見つめることが大事になる。ならば、パソコンを使って仕事をはかどらせて、より人に役立つ人間にならなきゃいけない。

「きっと根本さんはそう伝えたかったんだろうな、と受け取りました。ただ、もうひとつ『これからはパソコンでモノが買える時代になるからな』と言われたんです。この言葉は僕には受け取りようがなかった。今では当たり前のことですけど、当時は想像もできませんでした。イマジネーション能力が人と違うのか、そうした将来的な情報を手に入れられるほどのネットワークを持っておられたのか。そこは定かではありませんが、とにかく『モノが違う』という方でした」

 森脇がコーチになった後も、根本はしばしばグラウンドにやって来た。指導者全員を集めて話をする時もあれば、現役時代と同様、個人的に森脇が呼ばれる時もあった。必然的に、選手の時とは違う話が出る中で、特にこの言葉が印象に残っているという。

「組織っていうのは、常々、窮屈なものなんだ。窮屈な中で、どれだけ仕事ができるか、能力を発揮できるかを問われているんだ。そこでしっかり仕事する者こそ、本当のプロの仕事人であって、窮屈さのあまり仕事ができないとなったら、それはアマチュアなんだよ」

 また、森脇が育成担当コーチから二軍内野守備コーチになった時には、こんな教えを受けた。

「人と会う時は、いろんな角度からその人を見なさい。一側面だけを見ていたら、本来の良さを見つけられないかもしれない。だから多面的に人を見なさい。それができないなら、何もするな」

 そうして森脇が二軍で指導者経験を積む間、97年、チームは前年の最下位から4位に浮上。そして翌年はオリックスと同率ながら3位に入った。しかし、この年の12月に"スパイ疑惑事件"が発覚。翌99年1月に事態収拾を図るために村上弘球団社長が辞任すると、新球団社長に根本の就任が発表された。

 球団が危機的状況に陥(おちい)ったなかでまさに「心強い人」だったわけだが、森脇によると、根本は就任早々、王はじめ首脳陣が顔を揃えたコーチ会議でこう言ったという。

「コーチ連中に言っとくけど、お前ら、監督に遠慮しすぎなんだよ。『世界の王』だと思って接しているからそうなるんだ。この王くんは、ラーメン屋のせがれなんだよ」

 いかにも、王の両親は東京で中華料理店を経営していたが、思い切った言い方に森脇は衝撃を受けた。なにより「王くん」と呼んだことに度肝を抜かれた。しかし、この会議をきっかけに監督とコーチの溝が消え、それが選手間に好影響をもたらし、チームに一体感が生まれたという。

「根本さんから王さんには、事前に『オレが会議でこういう風に言うから』と話をされていたかもしれません。後から考えてみて、それが根本さんのやり方じゃないかと思ったんです。いずれにしても、僕自身まだ30代の時に、そういうふたりの方にご縁をいただきました。これは自分の人生にとって本当に大きなことでしたし、大きな財産になりました」

やり直しのきかない人生なんてないんだ

 99年2月、森脇がコーチになって3年目のキャンプ。その時に根本にかけられた言葉が、ずっと胸に残っている。

「オレの目の黒いうちに、一人前になるんだぞ」

 まさか、その2カ月後に根本が亡くなるなど、思いもよらなかった。悲しみの中でも戦いは続き、その年、チームはダイエーとなって初のリーグ優勝、日本一を成し遂げた。

「他界された時は寂しかったですし、信じられなかったです。本当に突然でしたから......。いまだに『もうこの世にいない』ということがあまりピンと来ないんです。いま天国で、どのようにプロ野球を見ておられるのかなと思いますし、根本さんにもう一回、アドバイスをいただきたいなって思うような時もたくさんあります。苦しい時だけじゃないですけど、苦しい時には特に。恩師に違いありませんけども、なにか、恩師よりももっと大きく表現する言葉があれば......と思いますね」

 今も心の中に恩師は存在している。心の中だけでなく、見つめることによって、生前に共有した時間が鮮明に蘇(よみがえ)るものがある。根本の筆で<終わりなき旅>と書かれた一枚の色紙。手渡された時にこう言われていた。

「この先、うまくいかないこともあるだろう。頑張れば頑張るほど、うまくいかない時は落胆するだろう。でも、そこであきらめるのか、それともまた前に進んでいくのか。前に進めば、やりようによってはなんとでもできるんだ。それで最終的に人の評価を得られるかどうかはわからないけども、投げ出してしまったら終わりなんだ。いつもリセットして、挑戦していくんだ。そう考えるのであれば、やり直しのきかない人生はないし、人生に終わりはない。生きている以上は」

 オリックスの監督としては、日本一という目標を達成できなかった。だが、「根本さんのような思考を持てる人間になりたい」と語る森脇の野球人生はすでにリセットされ、新たな挑戦が始まっているはずである。

 やり直しのきかない人生はないのだから。

(=敬称略)

【人物紹介】
根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実GMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年 4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

森脇浩司...1960年8月6日、兵庫県生まれ。社高から78年のドラフトで近鉄から2位指名を受け入団。84年にトレードで広島に移籍。その後、87年シーズン途中に金銭トレードで南海に移籍。内野のユーティリティプレイヤーとして活躍した。96年に現役を引退し、翌年からホークスのコーチに就任。その後も二軍監督、一軍コーチなどを歴任した。11年に巨人の二軍内野守備・走塁コーチとなり、翌年からオリックスの内野守備・走塁コーチに就任。13年シーズンからオリックスの指揮を執り、14年はソフトバンクと最後まで優勝を争った。だが今シーズン、開幕から低迷し、6月2日の試合前に成績不振を理由に休養を発表した。

秋山幸二...1962年4月6日、熊本県生まれ。八代高から80年にドラフト外で西武に入団。2年目の82年にイースタンリーグの本塁打王を獲得。翌年から野球留学でアメリカに渡るなど英才教育を受ける。85年にレギュラーを獲得し、この年40本塁打をマーク。その後も西武の主軸として黄金期を支えた。94 年にトレードでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。2000年に通算2000本安打を達成した。02年に現役を引退。その後、ソフトバンクのコーチ、二軍監督を務め、09年から一軍監督に就任。11年、14年と2度の日本一に輝いた。通算成績は2157安打、437本 塁打、1312打点。

王貞治...1940年5月20日、東京都生まれ。59年に早稲田実高から巨人に入団。62年に荒川博コーチの指導で一本足打法に取り組み、64年に日本記録(当時)となるシーズン55本塁打を達成。73、74年には2年連続三冠王を達成し、77年には世界記録となる通算756本塁打を放つ。80年に現役を引退。通算成績は2786安打、868本塁打(世界一)、2170打点。引退後は巨人、ソフトバンクで監督と務め、2006年には第1回WBCの日本代表の 監督として世界一に輝いた。現在はソフトバンクホークス会長。

工藤公康...1963年5月5日、愛知県生まれ。名古屋電気高(現・愛工大名電)時代の3年夏に甲子園に出場し、2回戦の長崎西高戦で史上18人目のノーヒット・ノーランを達成。81年ドラフトで西武が6位で指名し入団。1年目から登板し、85年には最優秀防御率のタイトルを獲得。西武のエースとして一時代を築き、94年オフにFAでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。その後も巨人、横浜(現・横浜DeNA)でプレイし、2010年に西武に復帰。しかし、1年で戦力外通告を受け退団。その後、解説者を経て、今シーズンよりソフトバンクの監督に就任した。通算635試合に登板し、224勝 142敗3S。

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