播戸竜二は言う。20年前の日本代表には「トルシエ監督が合っていた」

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2024年01月29日 11:21  webスポルティーバ

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世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第7回:播戸竜二(2)

 1999年ワールドユース(現U−20W杯)・ナイジェリア大会で、日本はついにベスト8の壁を突破し、快進撃を続けた。

 播戸竜二は、そんなチームの躍進の理由として、小野伸二の存在の大きさを挙げた。一方で、その小野はチームが勝ち進むにあたって「大きな存在だった」と絶賛したのが、播戸を中心とした"控え組"の存在だった。

 播戸は、"控え組"の中でも大きな役割を果たしていた。だが、選手であれば、普通は試合に出て活躍したいと思うはずだ。"控え"という立場に甘んじることは、苦しくなかったのだろうか。

 少し緊張感を滲ませた表情で、播戸はこう語った。

「サブであることに『苦しい』とかはないよ。当時、プロ2年目だったけど、(他のメンバーは)みんな、1年目から試合に出ていた。(それに比べて)俺なんて、13試合出場で2点しか取っていない。

 アジアユース(ワールドユース予選)で試合に出ていた時も、(このチームで)『俺がレギュラーや』と思ったことはなかった。そんな選手がレギュラーっていうのは、おこがましいと思っていたからね」

 播戸をはじめ、控え組はチームを懸命にサポートした。関西人らしく"笑い"のセンスにあふれた播戸は、絶妙なタイミングで"笑い"を入れて、常にチームを和ませていた。また、播戸らはそれだけにとどまらず、チームにとって非常に重要な"控え組"としての役割もまっとうしていた。

「レギュラーの選手たちはいい感じで戦っていたけど、それでも『自分らはレギュラーなんや。安泰やな』って思わせないように、(控え組の)俺らも日々の練習をしっかりこなして(自らの存在を)アピールし、(フィリップ・)トルシエ監督に『こいつを使ってみようかな』と思わせるようなプレーをしていかなあかんと思っていた。

 普段はワイワイやっていても、そういう緊張感って大事やからね。それに、レギュラー選手がずっと試合に出て、いいプレーを続けていくことは決して簡単なことじゃない。いつかチャンスが来ると思っていたし、トルシエ監督は使ってくれると思っていたので、その時のために準備を怠らず、そこでいかに自分の仕事ができるか、ということを常に考えていた」

 レギュラー組に対して、何かあっても「俺たちが常に控えているからな」という安心感を与えつつ、同時に「気を抜くなよ」というプレッシャーもかける――播戸たち"控え組"は、絶妙なバランスの空気感をチームに漂わせていたのだ。

 さらに、チームがいい緊張感を保って戦うことができたのは、「トルシエ監督の存在が大きかった」と播戸は言う。

 もちろん、当初は戸惑うことが多かった。

「最初こそ、(トルシエ監督は)19歳、20歳の若いヤツらになめられたらあかんと思ってか、自分の感情をガッと表に出して、俺らの鼻をポキッと折るぐらいの激しさで(選手たちに)対応してきた。練習でも急に怒鳴り散らしたりしたからね」

 ブルキナファソ遠征の際には、トルシエ監督は「おまえら、プロとして戦うんだったら、アフリカでもどこでも、現地のモノを食って戦うんだ」と厳命して、現地の硬い鶏肉などを選手に食べさせたり、選手が持参してきたサプリメントを「こんなもん食べているから、日本はダメなんだ」と叫んで、バラまいたりした。

「(そういうトルシエ監督の言動や行動に対して)何やねんって思ったこともあったよ。でもみんな、そういう行動パターンも徐々にわかってきたからね。普段は冗談とかも言うんで、悪い人じゃないっていうのは感じていた。

 俺は、トルシエ監督はあの時代に合った『ええ監督やった』と思う。トルシエ監督はよく『歴史を作らなければいけない』『おまえらには才能がある。だから、2000年シドニー五輪、2002年W杯を目指してがんばれ。そうしたら(代表メンバーとして)連れていくから』と言っていた。そういう可能性を監督から言われると、選手はその気になるやん。

 それに、練習で決められたことをするのは当然やけど、それを飛び越えるぐらいのことをやらないと、『プロとして成功しないぞ』っていう雰囲気を(トルシエ監督は)作っていた。俺らが若かった、というのもあるけど、トルシエ監督にうまいこと育てられたな、って感じがする」

 トルシエ監督の猛烈な指導や理不尽なモノの言い方に反発する選手もいた。石川竜也はそのひとりだったが、グループリーグ第3戦のイングランド戦でFKを決めると、ベンチにいるトルシエ監督のところへ一目散に走っていって、抱き合って喜んだ。

 その光景を、播戸は「結局、トルシエのところに行くんかい」と笑って見ていたという。厳しい指導も、すべて選手のためである――それを、各選手が感じ取っていたことがわかる象徴的なシーンだった。

 はたして、快進撃を続けたU−20日本代表はついに決勝戦に駒を進めた。

 相手はスペインだった。早い時間に失点し、リードを広げられ、播戸は後半11分から出場した。スペインの強さは、ベンチから見ていても驚くほどの衝撃を受けたが、実際にピッチに入ってプレーしてみると、その凄さに一段と驚愕した。

「『ちょっとレベルが違うな』と思ったね。だって、イナ(稲本潤一)がボールを取りにいっても取られへんことなんて、Jリーグでは見たことがなかったからね。ボールを取りにいくとクルクルと回されて、"赤子の手をひねる"というのは、こういうことやなって思った。

 まあ、自分たちのチームは(累積警告で)伸二が出られへんかったんで、ちょっとみんなナーバスになっていた。けど、シャビとの差はすごく感じたし、(スペインは)伸二がいても『勝つのは難しいやろうな』というぐらいの相手やった」

 選手たちがほぼ戦意を喪失し、なかば結果を受け止めているなか、播戸は最後まで懸命に走り回った。スペインに自由にボールを回され、とても奪える状況ではなかったが、それでも「何とかしよう」と食らいついていた。

「もう勝負はついていたけど、最後まで『(自分が)できることをやろう』とボールを追いかけた。そうしたら、帰国後、(自分の)ホームページにメッセージが届いていたんよ。それは、ファンの方からで『友人のスペイン人が"0−4という状況なのに、あそこまでボールを追いかけるなんて、あいつはすごいな"と言っていた』と書いてあった。

 それを見て、FWはゴールを決めることが仕事やけど、守備をがんばること、チームのためにプレーすることで(見ている人の)心を打つこともあるんやな、と。これからも、そういう人の心に響くようなプレーをしていかなあかんなって思ったね」

「優勝する」を合言葉にがんばってきたゆえ、2位に終わったことで多くの選手が肩を落としていた。播戸も、プロとして生きていくための"心得"のようなものは得られたが、途中出場5試合、得点はゼロに終わって、満足することはなかった。

 また、一緒に戦ってきた仲間である小野らのプレーを見て、逆にプロとして危機感を抱いていた。

「俺は、2位に終わって、先のことを考えていた。プロとして、どうやって生きていくべきか。こいつらと、また一緒にやるためにはどうしたらいいのか。代表チームでは、サブでも仕方がないけど、自分の(所属)チームに戻ったら、最初から試合に出られるような選手にならないと、代表には入られへんし、自分の成長にはならへんって思った」

 ナイジェリアから帰国して半年後、播戸は重要な決断を下すことになる。

(つづく)

播戸竜二
ばんど・りゅうじ/1979年8月2日生まれ。兵庫県出身。現在はフリー。琴丘高→ガンバ大阪→コンサドーレ札幌→ヴィッセル神戸→ガンバ大阪→セレッソ大阪→サガン鳥栖→大宮アルディージャ→FC琉球

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