黄金世代、「播戸竜二に救われた」男がチームに溶け込めた瞬間

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2024年01月29日 11:21  webスポルティーバ

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世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第6回:高田保則(前編)

「僕、(大会2カ月前の)ブルキナファソ合宿には行っていないんですよ」

 高田保則は、苦笑してそう言った。

 1999年1月、4月に開催されるワールドユース(現U−20W杯)・ナイジェリア大会に向けて、U−20日本代表は福島県のJヴィレッジで合宿を行なった。同チームの指揮官を、A代表との兼任でフィリップ・トルシエ監督が務めることとなり、アジア予選を勝ち抜いたメンバーに限らず、代表候補となりうる面々が数多く招集され、高田もこの合宿で初めてU−20代表に選出された。

 しかし、本番に向けて重要な合宿となる2月のブルキナファソ遠征において、高田は同メンバーから漏れてしまったのだ。その時点で、ワールドユース出場の目はほぼなくなった。高田は、落選した悔しさをたぎらせていた。

「1月の最初の合宿では(これまで招集されていなかったため)、正直『なんで、自分はここにいるんだろう』という感じでした。そういう気持ちが、練習の時からトルシエ監督や他の選手たちに伝わっていたと思うし、個人的には全然アピールできなかった。

 でも、(小野)伸二とかと一緒にプレーして『すげぇな』って思ったし、(練習をこなすうちに)『この集団の中でプレーしたい』と思ったんですよ。だから、ブルキナファソのメンバーからは落ちたけど、チーム(当時所属のベルマーレ平塚)で結果を出して『(代表に)戻りたい』と思っていました」

 3月6日にJリーグが開幕。高田は、ファーストステージ第1節の横浜F・マリノス戦、ワールドユース代表メンバー発表前の最後の試合となる第2節の清水エスパルス戦と、先発出場した。いずれも結果を出すことはできなかったが、18名のメンバーに滑り込んだ。

「(メンバー発表前には)『もうダメかな』と思っていました。でも、予防注射を打っていない選手が(ナイジェリアに)行けないということがあって、(自分がメンバーに選ばれたのは)そういう運もあった。

 またその前年に、トルシエ監督がたまたま見に来ていた国立での横浜フリューゲルス戦で、積極的に仕掛けてサンパイオからPKを獲ったんです。最後はその印象もあって、メンバーに滑り込めたのかもしれません。とにかく、チャンスをもらったので、大会では自分ができることをすべて出していこうと思いました」

 代表メンバー入りは果たしものの、高田は世代別の代表経験がなく、ブルキナファソ遠征にも参加していなかった。チームに合流すると、他の選手とはどこか空気の違いを感じるところがあった。

 そんな高田の気持ちを穏やかにし、チームにうまく溶け込ませてくれたのが、宿舎で同室となった播戸竜二だった。

「バン(播戸)にはいろんな意味で救われましたね。僕は、常に試合に出たいタイプだったんですよ。僕は中学生時代、日産FCジュニアユース(現横浜F・マリノスの下部組織)に所属していたんですけど、3年間公式戦にはまったく出られなかったので、試合に出ることに飢えていたし、試合に出ることで自分の価値を見出していた。

 だから、ベンチにいるのが本当に嫌だったんです。試合に出られないなかで、(自らが)やれることを考えるとか、そんなこともしたことがなかった。でも、バンが試合に出られないなかでもやれることを示してくれた。試合のときも、バンがウジ(氏家英行)らと一緒に盛り上げてくれて、(ベンチにいても)すごく助けられたな、と思います」

 練習や試合の時はもちろん、宿舎の部屋にいた時も、播戸はネガティブなことを一切話さなかったという。また、播戸はスタメンで出場していながら、結果を出せてない同じFWの永井雄一郎のことを気遣って、高田とふたりで「思い切りいこうよ」と励まし続けたそうだ。

「普通なら、同じFWなので、結果が出ていない選手がいれば『自分を出せ』と思うんでしょうけど、あの大会ではバンとふたりで、雄一郎に声をかけていました。だから、準決勝のウルグアイ戦で(永井が)得意の切り替えしから巻いてゴールを決めた時は、本当にうれしくて、バンと抱き合って喜びました」

 そう当時を振り返って、高田は笑顔を見せた。

 大会が進むに連れて、同部屋の播戸とは親交を深めていたが、自らがまだチームに溶け込めていない感覚が高田にはあった。試合に出場するチャンスに恵まれなかったので、「チームに貢献できていない」と思っていたのだ。そんなモヤモヤした気持ちを抱えていると、グループリーグ第3戦のイングランド戦でようやく出場のチャンスが巡ってきた。

「後半30分が経過して2−0という状況だったので、時間稼ぎ要員みたいな感じで本山(雅志)に代わって出場しました。とても暑くて、他の選手たちは体力的にも厳しい状況でしたから、一番動ける自分がそのなかで『やるべきことをやろう』と走り回ったり、相手からファールをもらったり、もう必死でした。

 その時に、個人的には少しはチームの勝利に貢献できたかな、と手応えを感じられました。また、その試合後にドーピング検査の対象になったんですけど、検査が終わってバスに戻ると、みんながイジってくれたんです。そこで、(本当の意味で)みんなの仲間に入れたな、と思いましたね」

 以降、高田は試合をこなすごとにチームに馴染んでいったが、アフリカの生活にはなかなか慣れなかった。ブルキナファソ遠征を経験していないため、アフリカの環境に接するのは、ナイジェリア大会本番が初めてだったからだ。他の選手は免疫があったので、停電になっても平気な顔をしていたが、高田にとっては驚くことばかりで、かなり戸惑ったという。

「みんな、ホテルのエレベーターが止まっても気にしないし、食事の際に延びたパスタみたいなものが出てきても、『なんだこれ』って言って、笑いながら食べていた。本当にいろんな意味で『タフだな』と思いましたね。

 僕はそういうのを、結構気にしてしまうんですよ......。電話も当時は携帯とか現地で使えなくて、ホテルから電話をするには小銭が必要なんです。それで、日本の1万円札しか手元になくて、ホテルの地下に行って両替すると、もう半端ない量の札束を渡されて......。いやもう、いろいろなことが衝撃的でしたね」

 ナイジェリアは治安の問題もあって、外出は禁止されていた。ホテルに缶詰め状態だったが、チームメイトと一緒にいるのは楽しかった。みんなと一緒に、リラックスルームで日本のお笑い番組やドラマなどを鑑賞したり、ゲームをしたりして過ごした。

 そんななか、控え組の選手はピッチでも宿舎でも明るく、練習でも大きな声を出して、チームを盛り上げていた。決勝トーナメントに入ると、「景気づけや」と加地亮らが頭を丸めた。高田も「次はおまえや」と言われたという。

「シャワーの出が悪いし、日本から持ってきたシャンプーもなくなって、髪の毛がごわごわになってきたんですよ。それで、みんな『もう面倒くさい』って言って、1日ごとに誰かが頭を丸刈りにしていった。そして、『次は、ヤスやな』って言われたけど、僕は『ちょっと待て』と言って、逃げていました(笑)」

 丸刈り軍団が結成されていくなか、チームはさらに勝ち進んでいく。

 高田が一番印象に残っている試合は、決勝のスペイン戦だという。

 試合前、なぜかトルシエ監督が「おめでとう」と言った。これまでのピリピリしていた試合前とは異なり、どこかご褒美的な空気が流れていたことを、高田は感じていた。

「今考えると、このまま自分たちが優勝すると調子に乗るから、(トルシエ監督は)優勝させないような雰囲気を作りたかったのかもしれないですね。でも、そんな必要もなく、スペインは他の国とはレベルが違いすぎた。

 一番驚いたのは、パススピードの速さ。日本だと、小さい頃から『パスは優しく、丁寧に転がせ』と言われるじゃないですか。でも、スペインはまったく違った。シュートみたいな速さのパスを出して、それをポンポンつなげていくから、(日本は)全然ボールを奪えないんですよ。

 最初、ベンチで見ていて、どうやってボールを奪うか考えていたけど、実際にピッチに入ったら、どうにもならなかった。気かついたら、自分の動きが止まっていました」

 高田がピッチ内で経験したものは、まさに世界レベル。決勝戦まで勝ち上がって、世界と互角に戦えると感じていたが、そうした手応えも消え失せてしまった。

「日本は、世界でもトップクラスの力があると思っていたけど、何もできなかった。スペインは、日本のさらに上にいた。上には、まだすごいレベルがあるんだな、と思い知らされましたね」

 スペインに敗れて、日本は準優勝に終わった。

 高田は3試合で途中出場。やり切った感はなかったが、"控え組"としての心得を学ぶなど、得たものは大きかった。

「僕は、一番最後にこのチームに入って、このチームで少しでも長くやりたいと思ってやってきた。その結果、準優勝できたし、サブになってチームのためにやれることを考えるとか、いろいろな経験ができた。ほんと、ラッキーでした。ただ当時は、準優勝がどのくらいすごいことなのか、全然わからなかったんですけどね(笑)」

 帰国すると、空港では大勢のメディアとファンが待っていた。高田は、その数の多さに圧倒され、驚いた。

 その後、選手全員での記者会見に臨んだあと、高田はそのまま市原に向かった。Jリーグファーストステージ第9節、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)との試合があったからだ。

 対戦相手には、昨日までチームメイトだった酒井友之の姿があった。酒井も、高田も途中から試合に出場し、ピッチ上で競い合った。

「すぐに、現実に引き戻された。準優勝して騒がれたけど、調子に乗る暇はなかったです」

 その現実は、高田にとって非常に厳しいものになっていく――。

(つづく)

高田保則
たかだ・やすのり/1979年2月22日生まれ。神奈川県出身。(財)日本サッカー協会 JFAこころのプロジェクト推進部所属。現役時は、動き出しの速さと優れたゴール感覚を武器に持つFWとして活躍した。ベルマーレ平塚ユース→ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレ)→横浜FC→ザスパ草津

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