あの時、Appleは何をしていたのか 数々のデジタル革命をApple視点で振り返る(後編)

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2024年01月31日 12:32  ITmedia PC USER

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ITmedia PC USER

今でいうとことのオーサリングツールでもあるHyper Cardの画面。HyperCardによって育まれたアニメーション文化は、後のCD-ROMブームを支えたアニメーション制作ソフト「Macromedia Director」(当初はMacroMind Director)に継承され、最終的にはAdobeに買収された

 現存する最古のPCブランドとして、「Mac」は1月24日に40周年を迎えた。


【その他の画像】


・前編はこちら→実は最古のPCブランド「Mac」進化の旅路と、80年代を象徴する“ニューメディア”を振り返る


●Macの代名詞となったDTPとジョブズ氏のこだわり


 今では当たり前のことだが、1984年のデビュー時、製品に付属していたワープロのMacWriteから、画面上で文章をレイアウトして印刷すると画面で見た通り、そのままの状態で印刷が行えた(Mac登場とほぼ同時に発売されたプリンタの「ImageWriter」は1インチあたりに72ドットという解像度で、Macの画面のちょうど2倍となる解像度、144dpiだったので再現性が高かった)。


 別途機械を使ったり、コマンドなどで字体指定などを行ったりしないと凝った印刷ができなかった当時としては画期的なことだった。これができること、それ自体に“ウィジウィグ”(WYSIWYG=What You See Is What You Get)という名前が付いていたほどだ。


 WYSIWYG自体は米Xerox パロアルト研究所のコンピュータ「Alto」などで既に示されていたビジョンだが、Appleはこれをもっと高度なレベルでできるようにすべく、創業して間もない米Adobeが開発していた「PostScript」という紙の上に狙った通りのイメージや文字を再現する技術に目をつけて、ジョブズが個人投資をした。


 これにより、ジョブズが他の役員に反対されながらも開発を進めていた、Mac本体よりも高価なレーザープリンタ「LaserWriter」(Mac本体の2495ドルに対して6995ドルだった)と、米Aldus(現在はAdobe)が作っていた「PageMaker」というソフトを組み合わせることで、雑誌の誌面などの凝ったレイアウトをMacの画面上で再現し、それをレーザープリンタで版下(印刷に使う製版の元となるもの)として出力することを可能とした。


 これによって、前編で紹介した原稿と素材を渡してレイアウトを組んでもらうプロセスが、一気通貫で行えるようになった。


 例えば、編集部内にデザイナーを置いて、編集部内のPC上で編集者がレイアウトを確認して微調整を行ったり、文章を直したりといったことが可能になった。


 これは本や雑誌の作り方を根本から変えてしまう革命的ともいえる出来事だった。もっとも、それから30年以上経過した今では、どこの出版社でも当たり前になり過ぎていて、そろそろDTP以前を知らない人々が中心世代になってはいる。


 このDTPのコンテクストで、忘れられがちなのがコンピュータのネットワーク接続だ。レーザープリンタは高価だったため、オフィスにある1台のプリンタを複数のMacで共有して使うのが当たり前だった。


 このように、会社内などでPC同士を接続して連携を取れるようにしたネットワークをLAN(Local Area Network)と呼ぶが、MacではこのLAN上での連携も驚くほど簡単だった。ネットワークに自分のMacを接続して「セレクター」という設定パネルでプリンタアイコンを選択すると、同じネットワーク上のプリンタの名前の一覧が出てきて、どのプリンタで印刷するか選択ができたのだ。


 今では当たり前のことだが、これがMac以外のPCでは驚くほど大変だった。Mac同士をLANで接続すると、当然、機器同士でファイル共有もしたくなるが、これも同様に簡単だった。


 このように強力なDTPプラットフォームの座を築いたおかげで、MacではAdobeのイラストを作成する「Illustrator」や、フォトレタッチの「Photoshop」といった画期的なソフトウェアも登場した。


 出版物の作られ方だけでなく、絵図や写真の取り扱い方にまで大きな変革をもたらした。


 しかし、Macの商業メディアへの貢献はこれだけにとどまらない。DTP革命の旗手となったMacは、1987年に「Macintosh II」を発表してディスプレイのカラー化を果たした際にも、ただならぬこだわりを見せた(この時にはスティーブ・ジョブズ氏は既にAppleを追い出されていたが)。


 それは、画面上の色と印刷したときの色の再現性(カラーマッチング)にこだわり抜いた結果、ディスプレイとしてソニーのトリニトロンディスプレイを採用することを決め、他のPCとは比較にならないカラーマッチングを実現したことだ。


 このカラーマッチングは、iPhoneの時代になってもApple製品の大きなアドバンテージになっており、著名ファッションブランドなどが「iPhone用アプリは出すが、他のスマートフォンアプリは出さない」といった状況の大きな要因の1つになっている。


 こうして紙の印刷物の作られ方にも大きな革命をもたらしたMacだったが、やがてデジタルならではの情報表現でも中心的な役割を果たす。


●DTPの次はマルチメディア革命


 Appleの中心的な役割──1990年代中頃の「マルチメディア革命」と呼ばれた動きだ。この分野でのAppleの貢献で特に大きいのが、1991年に登場した「QuickTime」という技術と、1992年に当時のジョン・スカリーCEOが呼びかけて開催された“箱根フォーラム”だろう。


 QuickTimeは、時間軸で変化をする情報を扱うためのフレームワーク技術だ。動画フォーマットとして認識している人が多いが、実は楽器の演奏情報(MIDI情報)、テキスト情報(字幕など)なども扱えた。


 また、当時の処理能力が低いPCで動画を遅延なく再生するためにコーデック(圧縮技術)なども採用したり、米TV/映画業界の標準規格に対応したりするなど、最初からかなりプロ品質での動画の実現も視野に入れた画期的な技術だった。


 このQuickTimeの登場を受けて、Adobeの動画編集ソフト「Premiere Pro」などもMacでリリースされた(最初は「Premiere」という名前だった)。


 紙の出版物の作り方を変えたように、映像制作の世界にも変化をもたらした。ただし、映像制作に関しては、Appleが会社として傾いていた時期に弱体化してしまい、日本も含め世界中の映像制作会社が、用途に合わせてシステムを組みやすいWindowsに移行した。


 最近、高性能なApple Silicon搭載Macや高精細な映像が撮影できるiPhoneの人気などで取り戻しつつもある。


 箱根フォーラムとは何かというと、AppleのCEOの呼びかけで日本のPCメーカーらの代表が箱根に集結したものだ。PC本体にCD-ROMドライブを内蔵しようという呼びかけが行われ、CD-ROMの業界標準などについても話し合いをしたという。


 既に富士通の「FM TOWNS」は1989年からCD-ROMドライブを内蔵していたが、Appleも1992年には「Macintosh IIvx」でCD-ROMドライブ内蔵を果たしている。


 CD-ROMは、それまでとは比較にならないほどの記憶容量を背景に、高精細なグラフィックや高音質な音を盛り込んだコンテンツの作成を実現した。インタラクティブな百科事典から写真集、映像集、さらにはゲームコンテンツなども次々と登場して大きな盛り上がりを作った。


 ここでQuickTimeと並んで重要な役割を果たしたのが、高度なインタラクティブコンテンツを簡単に作れるオーサリングソフト「Director」を開発した米Macromedia(現在はAdobe)だ。


 一方で、Apple自らが開発した「HyperCard」というオーサリングソフトも、Directorのような高画質コンテンツの制作にこそ向かなかったものの、極めて簡単にコンテンツを作れるのが魅力だった。ちょうど今日のWebと非常によく似ているが、HyperCardと呼ばれるだけあってページではなく、カードという概念を基本としていた。


 カード上に文字や絵、動画、ボタンなどが配置されており、クリックすると動画を再生したり、リンク先のカードにジャンプしたりできた。


 ただし、Webと違うのはメニューから「編集」を選択することで、新たにカードを加えて、そこに文字やボタンを配置したり、他のカードにリンクしたりといったことがマウスとキーボードの操作で簡単に行えたことだ。


 このため、世界中で大勢のプログラミングすらできない教育者らがこのHyperCardを使って自前の教材を作ったり、グラフィックデザイナーがインタラクティクブ絵本を作ったりするなど、新たな文化を生み出していた。


・Internet Archive:HyperCard Stacks


 しばらくするとインターネット時代が訪れ、HyperCardは役割を失い、Directorも同じくMacromediaの「Flash」に取って代わられた。Flashは、Webブラウザ上でのインタラクティブコンテンツにより特化した仕様になっていた。その後、一時は膨大な数があったCD-ROMのコンテンツも、どんどんWebに移行していった。


●Macのアドバンテージを奪ったインターネット革命


 DTPやマルチメディアと続いたPC革命では、Macは数多くの先行事例を生み出し先導的な立場を築いていたが、その後、訪れたインターネット革命では少しその立場は弱まった。


 インターネットの多くの技術は、PCのモデルの違いを吸収して、どのPCでも同様に扱えることを理想としていたからだ。Webブラウザ登場以前、1991年に米Qualcommが買収し定番となっていた電子メールソフト「Eudora」にしても、最初機のWebブラウザである「NCSA Mosaic」や、その後に登場した「Netscape Navigator」もMac/Windowsの隔てなく動作した。


 一番大きな違いは、インターネットの接続に必要なTCP/IPという技術にどう対応させるかだ。Appleはいち早く「MacTCP」をOSに実装してサポートを始めた。


 1993年にはOS標準でインターネットに接続できるようになった。これに対してWindowsは少し状況が複雑で、本当に誰もが問題なく簡単にインターネットに接続できるようになったのは、1995年のWindows 95以降(より正確にはMicrosoft Plus! for Windows 95の追加、またはOEM Service Release 2以降)のことだ。


 そう考えるとMacは、インターネット接続で若干のアドバンテージがあり、もともとグラフィック制作関係のツールが多かったり、QuickTimeのおかげで動画コンテンツが扱いやすかったりすることもあり、Webコンテンツの制作に使われることが多かった。


 しかし、Windows 95の登場後は、こうしたアドバンテージもどんどん小さくなっていった。


 この1995年頃からMacのイノベーションは急速に失速をする。技術的にはすごいことをいろいろとやっていた。「International Language Kit」という技術が登場して、世界中どこの国で買ったMacでも追加インストールをすれば日本語も中国語もアラビア語も使えるようになった。


 また、Apple/IBM/Motorolaの3社連合で開発した高速プロセッサ「PowerPC」というプロセッサに、ほとんどそれまでの違いを感じさせずにユーザーを移行させた。


 その後、そこからIntelに、そして最近ではApple Siliconへと、Macは合計3度に渡ってプロセッサ移行を果たしている。プロセッサの移行とは本来、そんなに簡単なものではない。


 ただし、以前はモデル数を増やすという戦略で製品の在庫があふれて財政難に陥っていたところ、次世代OSの開発につまずいていた1995〜1997年頃は大きな停滞を強いられた。人気を支えていたMacでしか利用できなかったソフトの多くがWindows 95に対応したこともあり、Windows 95に人気を奪われ大失速をしていたところ、スティーブ・ジョブズ氏が率いるNeXTを買収した。


 これにより、Appleは新しいOSだけでなく、スティーブ・ジョブズ氏も手に入れた。最初はAppleの経営には興味がないと言っていたジョブズ氏だが、デザイン部門のジョナサン・アイブ氏との出会いで気が変わり、“社内クーデター”でAppleのトップに踊り出た。


 そして自ら経営に乗り出し、アイブ氏らのチームと「3ステップでインターネットにつながる」「フロッピーディスクドライブなどのレガシーデバイスを廃止して拡張性をUSBだけに絞る」「デザインを優先して、独自の半円形のロジックボードを採用」「半透明のポリカーボネート素材にした」──という斬新な「iMac」を1998年に発表し、劇的な復活を果たした。


●デジタルハブへと進化したMac


 iMacの発表は、PC業界の雰囲気を一変させ、市場には半透明のUSB周辺機器などがあふれた。Appleは止まることなくiMacに新たな魅力を加えようとビデオ編集ソフト「iMovie」を発表するなど付属ソフトを開発したり、ビデオ編集をしやすくするように「FireWire」(規格名はIEEE 1394、ソニーはiLinkと呼称)と呼ばれるソニーらと開発した周辺機器の接続技術をMacに標準搭載したりしていた。


 AppleはiMac発売後の1998〜2000年頃、PC業界の潮目が変わったのを感じ始めていたのだろう。ちょうど高画素化や小型化でデジタルカメラの実用性が急速に高まっていた時期で、フィルムカメラと市場シェアが逆転しそうな時代だった。


 この頃には携帯電話も一般に普及し始め、高機能化した携帯電話には高性能なカメラなどの機能が搭載され始めていた。また、Napsterに代表されるP2Pファイル交換ソフトが話題となり、MP3の音楽ファイルが一気に増え、それをPCだけでなく外出先でも聞くためのデジタル音楽プレイヤーも次々と登場していた。


 しばしばガジェットと総括される、これらの小型機器は、Windows 95の大ヒットで力をつけていた世界中の量販店や電気店の新たな収益源としても大きな注目を集めていた。


 2000年頃には、これらの機器の話題があまりにも大きくなってきたため、米国でもウォール・ストリートジャーナルの名物記者、ウォルト・モスバーグ氏が「24年間、時代の先頭を走り続けてきたPCは、今ではつまらない存在になってしまった」と書き、Windows PCメーカーのCompaq Computerや旧Gatewayの代表もPCではなくガジェットの開発に力を入れると宣言をしていた。


 2001年1月、Macworld Expoというイベントの基調講演でスティーブ・ジョブズ氏はこれらの動きを受けて「PCの時代が終わったのではなく、PCの役割が変わった」と述べた。


 では、そのPCの新しい役割とは何かというと、さまざまな新しいデジタル機器と接続することで、それらの機器単体では難しい設定を簡単に行ったり、収集したデータの分析や編集を行ったりする装置になるということだった。


 そしてMacは、まさにそんなデジタルライフスタイル時代の中枢になると宣言した。デジタル音楽プレイヤーと連携するiTunesやビデオカメラと連携するiMovieの新バージョンなどを発表し、後にデジタルカメラ連携を果たすiPhotoなども発表した。


 実はiTunesの最初のバージョンを出した時点は、Appleはまだ音楽プレイヤーのiPod(2001年)を出す前だったので、最初のiTunesは他社製の音楽プレイヤーと連携して時計を合わせたり、プレイリストを転送したりする機能を備えていた。


 しかし、それから10カ月後には、Appleはわずか半年で開発をしたという初代iPodを発表。このiPodが大変評判がよく、後にWindows版を出すと大ブレークした。


 それまで市場シェアが約3%だったMacユーザーだけを相手にビジネスをしていたAppleのビジネス規模が急拡大し、Appleが成長するきっかけとなった。その後、Appleはその成功を礎に、Apple直営店でiPod売り場にiPodと連携しやすいお勧めPCとしてMacを売るなど工夫を始めたが、さらにAppleを大きく変えたのは2007年のiPhone発表、そして2010年のiPadのリリースだった。


 これら2製品は、Macとは出荷数でもビジネス規模でも桁が違う成功を収めることになった。


 iPadの発表が行われた2010年末、Appleは最新OS「Mac OS X Lion」の発表時に「これからはiPhoneやiPadといった新世代のデバイスで搭載した成功要因をMacに還元していく」とする「Back to the Mac」宣言を行った。


 これは当初、App Storeの採用や(トラックパッドを使った)マルチタッチのジェスチャー、自動保存機能などを指していたが、その後、この考え方がハードウェアにも浸透してきて、AppleはiPhone/iPad同様、2020年からMacのプロセッサも自社開発に切り替え始めた。このプロセッサが省電力でありながら、驚くべき性能を発揮するとして大きな話題を呼んでいる。


 また、今日のMacはiCloudを介した連携でiPhoneやiPadで行っていた作業の続きをするといった連携もやりやすくなり、幅広い人々が幅広い用途で活用する万能PCとして、40年の歴史の中でも製品の人気も最高潮に達している。


 そんな中、AppleはMac成長の今後の注目エリアとして空間コンピューティング用コンテンツの製作、大規模言語モデルなどを含む生成系AI利用のためのプラットフォーム、そして最高のゲームマシンとなることの3つを掲げている。


 10年後の50周年に向けて、現存する最古のPCブランドであるMacが、さらにどんな成長をするのかは気になるところだ。


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