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連載第20回 イップスの深層〜恐怖のイップスに抗い続けた男たち
証言者・森大輔(4)
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「必ず獲るから。心配するな」
2003年、横浜ベイスターズの高浦美佐緒(みさお)スカウトは、森大輔にそう断言した。
森が三菱ふそう川崎に入社して3年目。指名解禁となったドラフト会議が迫るなか、森はあろうことかイップスを発症していた。
腕を振るたびに恐怖感が湧き上がり、左ヒジが痛む。この恐怖と痛みは必ずセットで襲ってきた。高浦から心強い言葉を掛けられても、森の心は曇ったままだった。
「このままプロに入っていいのか?」
当時、「自由獲得枠」というドラフト指名制度があった。大学生、社会人の有望選手が入団したい球団を逆指名できる制度のことだ。多くの球団が逸材を何とか囲い込もうと躍起になり、その結果、密約や裏金が飛び交う原因になった。
後に横浜を含めた複数の球団がドラフト候補に金銭を不正に供与していたことが明るみに出て、逆指名制度はなくなった。森はまさに逆指名時代の渦中に放り込まれた選手だったのだ。
松坂大輔のポスターを自室に貼り、孤独な特訓にも耐え、半ば無理やり社会人に進まされ、ようやく夢にまで見たプロへの扉が目の前にある。「入らない」という選択肢を選ぶことはできなかった。
「プロに入って変わればいいんだ。変われるんだ」
そう自分に言い聞かせる。森は自由獲得枠で横浜に入団することを決めた。
12月15日に開かれた新入団選手発表記者会見。背番号15のユニフォームに袖を通した森は、フォトセッションで「BE A HERO」と書かれたボードを掲げ、笑顔でフラッシュを浴びていた。「ヒーローになれ――」それは多くのベイスターズファンの願いだったに違いない。用意された色紙には「2ケタ勝利」と景気のいい目標をしたためた。
「色紙を書きながら、自分のことながら『何やってんだよ』と呆れていました。お前はまず、それ以前の問題だろう......って」
プロ入りに向けて、年内は気持ちの整理と体のメンテナンスにあてた。そして年が明けて2004年1月、森は新人合同自主トレに臨んだ。
空白期間を設けたことが吉と出たのか、それともヒジの炎症が治まったからなのか。キャッチボールから森は快調だった。「いけるじゃん!」。今まで引っかけてばかりいたボールが、多少抜けるようにはなったものの普通に近い感覚で投げられた。
ブルペンに入り、捕手を立たせた状態でピッチングをしてみる。首脳陣や新聞・テレビなどのメディアが見つめるなか、森のボールは捕手のミットを強く叩いた。山下大輔監督はその場で森の開幕一軍を明言。森はすぐさま、実家の父親に報告の電話を入れた。
沖縄でのキャンプも順調に進んだ。第2クールまでは個人のメニューが中心だったため、自分自身の調整に専念できた。
本来の自分に戻れたのかもしれない――。
そんな淡い手応えを抱きかけた第3クール初日。その日は投内連係のメニューが組まれていた。
ふと周囲を見渡す。キャッチャーに相川亮二、ファーストに佐伯貴弘、セカンドに種田仁、サードに村田修一、ショートに石井琢朗......。
「あのテレビの箱の中にいる人たちが目の前にいたんです。投げるところ全部が怖くて、『投げられない』と思ってしまいました」
かつては投内連係に苦しむチームメイトに「捕って投げるだけじゃないですか」と言い放った自分が、皮肉にもプロの世界では投内連係で地獄を味わう。
そして、森は再び壊れてしまった。
「もうめちゃくちゃでした。投げ方はカチャカチャとぎこちなくなるし、ブルペンに入ればキャッチャーの構えたところにほとんどいかない。もう3クール目ですぐ二軍落ちでした」
そして、森は淡々とした口調でこう続けた。
「それから、もう二度と一軍に上がることはありませんでした」
当時、横浜の二軍は独立採算制を敷いており、「湘南シーレックス」というチーム名で一軍とはユニフォームも違った。つまり、森が横浜ベイスターズのユニフォームを着たのは、キャンプ序盤のごくわずかな時間だったのだ。
もちろん、その時点ですべてが終わったわけではない。二軍に合流した直後は、ブルペンである程度の投球ができた。スピードは145キロを計測。チーム関係者は「なんでこれで二軍に落ちるんだよ!」と驚いたが、それは森自身が聞きたいことだった。
だが、間もなく実戦形式のシート打撃練習に入ると、マウンドに立った森はまたもや制御不能に陥った。チームの誰もが、森が重度のイップスに陥っていることを悟った。
「自分が自分じゃなくなっていました。つらかった......。本当につらかった」
当時を振り返る36歳の森のまぶたには、涙が浮かんでいた。
「僕は高校時代から『自分がやってきたことは正しかった』という経験を繰り返しながら、成長してきました。そんな人間が過去の自分を否定されるように投げられなくなって......。本当につらかったですね」
いろんなことを試してみた。1メートルの距離からネットスローを始め、投球フォームを作り直す。社会人時代には、外野のフェンスに背を向け、振り向きざまにフェンスに向かって壁当てをしたこともあった。不思議なことに、こうして自主練習に励んでいる間はヒジの痛みは影を潜めた。
「5メートルの距離も投げられるし、遠投もできるんです。でも、18.44メートルが投げられない。マウンドからキャッチャーまでの距離が怖いし、ヒジは痛くなるし......。社会人の2年目はマウンドで『こんなに近くでいいんですか?』と思うくらいだった距離が、プロではキャッチャーが100メートル先に見えるんです......」
ファンから自分のプロ野球カードにサインを求められた際、恐るべきことに気がついた。そのカードは森のプレーシーンの写真だったのだが、野球選手としてありえないストレートの握りをしていたのだ。
「普通、ボールを握ったら、親指は人差し指と中指の下にきますよね。でも、僕の親指はボールの側面にあったんです。本当に無意識のうちに、ボールの握り方を忘れているんです」
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フォームを動画で撮影し、イップスになる前のフォームと見比べてみる。そこにはまるで別人の投手がふたり写っていた。「自分が自分じゃなくなる」とは、そういう意味だった。
サイコセラピストに個人的に師事し、胸の内をすべてさらけ出したこともある。さまざまなアドバイスを受け、自分なりに取り組んでみたが、効果は感じられなかった。森は言う。
「チームには僕の他にもイップスに悩んでいる選手がいましたが、なかには乗り越えた選手もいました。僕は心のどこかで『自分は乗り越えられない部類』という思いがあったのかもしれません」
二軍の公式戦であるイースタンリーグには、プロ2年目に1試合、わすか1イニングに登板しただけ。そして秋に行なわれる若手主体のリーグ戦・フェニックスリーグではこんな出来事があった。
相変わらずボールの抑えが効かず、ヒジは痛い。いつもと同じようにマウンド上で喘いでいると、スタンドからファンのこんな野次が聞こえてきた。
「本当は右投げなんじゃねぇの!」
その言葉を聞いた瞬間、森のなかで何かが崩れる音がした。
自分の人生とは、いったい何だったのだろうか。ごく普通の高校で、雨の日も雪の日も脇目も振らずに努力してきた日々。「北陸三羽ガラス」と評され、自由獲得枠でドラフト指名されるほどの自分をつくり上げてきたはずだった。しかし、そんな積み重ねも「本当は右投げなんじゃねぇの」という皮肉交じりの一言ですまされてしまう。
もちろん、反論などできない。現実の自分はストライクがまったく入らないのだから。それでも、森は無念でならなかった。
「高校から社会人の2年目までは『オレのボールを見ろ!』と思いながら投げていたのに、イップスになってからは『見ないでくれ』と思うようになっていました」
そして迎えた森のプロ3年目。自由獲得枠で入団した選手とは思えない「屈辱」と、あまりに早い「宣告」が待っていた。
(つづく)
※「イップス」とは
野球における「イップス」とは、主に投げる動作について使われる言葉。症状は個人差があるが、もともとボールをコントロールできていたプレーヤーが、自分の思うように投げられなくなってしまうことを指す。症状が悪化すると、投球動作そのものが変質してしまうケースもある。もともとはゴルフ競技で使われていた言葉だったが、今やイップスの存在は野球や他スポーツでも市民権を得た感がある。