【イップスの深層】1日1000球の秘密特訓で、ガンちゃん奇跡の復活

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2024年02月07日 16:11  webスポルティーバ

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連載第3回 イップスの深層〜恐怖のイップスに抗い続けた男たち
証言者・岩本勉(3)

連載第1回目から読む>>>

(前回の記事はこちら)

 暗闇に包まれた室内練習場の片隅で、蛍光灯のスイッチを入れる。薄明かりに照らされた人工芝を踏みしめ、岩本勉は"秘密特訓"のセッティングを始めた。

 防球ネットにシューズケースをぶら下げて「的(まと)」を作り、そこから2メートル離した位置に300球ほど硬球の入ったボールケースを置く。まるで初めてボールを握った子どもが壁当てをするような距離で、岩本はシューズケースに向かってスナップスローを始めた。

 なんとなく感覚がつかめたと思えば、距離を3メートルに伸ばす。3メートルが大丈夫だと思えば4メートルへ。しかし、距離が離れていくうちに恐怖がこみ上げてきて、再び3メートルに戻す。延々、その繰り返しだった。

「ほんま、水前寺清子ですよ。これは冗談じゃなくて、1日1000球は投げていましたよ。プロ3年目にイップスになって、このままならクビになって、大阪に帰らなければいけない。そんな恥ずかしい野球人生は送りたくないと思ったんですわ。僕にも見栄があったのでね。それなら、潰れるまで投げてやろうと。潰れてもイップスではなく、『投げ過ぎ』という大義名分ができますから」

 すでにイップスであることはチーム内で周知の事実だったとはいえ、人に投げる姿を見られることに抵抗があった。だから誰もいない室内練習場で、最低限の光量しかない薄明かりの下、ひたすら投げ込みを続けたのだった。

 徐々に投げられる距離が伸びていくと、電源を入れる蛍光灯の数を増やした。その環境にも慣れると、他の選手が参加している夜間練習に顔を出し、わざと人前で練習するようになった。

 そうした段階を経て、岩本は1学年下の内野手である荒井昭吾にある依頼をする。

「俺がボールを投げるから、トスバッティングで打ってくれへんか。悪いけど、多少のボール球なら打ってもらいたいんや。俺にピッチャーらしい姿で野球をやらせてくれ」

 いくらチームメイトと言っても、プロ野球選手は個人事業主。荒井にとって岩本の練習に付き合うことは、本当は不毛なことだったのかもしれない。しかし、荒井は嫌な顔ひとつせず「エンドランの練習になりますから、こちらこそありがたいですよ」と言って付き合ってくれた。

 荒井とのトスバッティングに慣れてくると、岩本が「恐怖のL字ネット」と呼ぶ、打撃投手用のL字型ネットを置いて投球し、荒井に打ってもらうようになった。

「『カーン!』というサウンドで、ピッチャーらしさが自分に帰ってくるんです。そうやって、徐々にピッチャーの自分を取り戻していく。人の目を増やしていく。距離を伸ばしていく......。また怖くなって前に行く。今度は室内練習場の人工芝からグラウンドの土に戻ったときに、また恐怖がやってくる。また前に出る......。その繰り返しですよ」

 気の遠くなるような作業。岩本の口から語られるエピソードに戦慄していると、ふと岩本が何かに気づいたように、筆者に語りかけてきた。

「いま僕の顔を見ながらメモを取っていたでしょう? それって幼い頃から学校で文字を教わって、漢字ドリルを何度も繰り返し練習して身につけた『技術』なんですよ。目をつぶっても、よそを見ていても文字が書ける技術。僕もね、投げることに関して同じような技術をつけようと思ったんです。目をつぶっていても、ある程度狙ったところに投げられる技術をね」

 人間はペンで文字を書く、箸で食事をする、歯ブラシで歯を磨く......といった日常動作を無意識のうちに行なっている。自分が文字を書いている際に、「指はこう動いて、手首はこの角度で......」などと意識する人間はいないはずだ。岩本は、投球動作をその領域まで持っていこうと考え、1日1000球にも及ぶ投球練習を自分に課したのだ。

「何かあっても、自分は目をつぶって投げることができる。それを自分のアイデンティティにしたくて、投げまくりましたよ。でも、意外と体は壊れなかった。これは強い体に産んでくれた両親に感謝ですね」

 来る日も来る日も投げ続けた岩本は、打撃投手を務められるまでに回復する。イップスであることを知っている関係者がその姿を見て、「おぉ〜、ガンちゃん普通に投げられるやん!」と驚いたという。

 しかし、実戦で登板するにはまだ長い道のりのように思えた。夏場を迎えても、二軍のイースタン・リーグで岩本に任される仕事はスコアブックを記入する裏方仕事ばかり。いよいよ岩本の脳裏に「クビ」の二文字がちらつき始めていた。

 そんななか1993年のシーズン終盤、ロッテ浦和球場で行なわれたロッテ戦のことだった。すでに順位も確定している消化試合。日本ハムは投手陣にケガ人が続出しており、岩本は二軍首脳陣からブルペンに入るよう命じられる。

 ブルペンのベンチに座って自軍の投手陣が打ち込まれる戦況を見つめながら、岩本は捕手たちとのんきに「西日がまぶしくて嫌やなぁ」と談笑していた。ところが、8回裏に入ったところでブルペン捕手が血相を変えて岩本に叫んだ。

「おいガンちゃん、呼ばれてるで!」

 意味がわからなかった。クエスチョンマークが頭に渦巻いていると、岩本の耳に「ピッチャー、岩本」のアナウンスが飛び込んできた。

 すぐさまベンチに視線を送ると、コーチがマウンドに向かって指を差している。岩本は思わず「マジかぁ!」と叫んでいた。敗戦処理とはいえ、実戦で登板する心の準備など、とてもできていなかった。

 マウンドまで走って行くと、種茂雅之(たねも・まさゆき)二軍監督が立っていた。

「お前にこのイニングをやるから。日没してもいいから投げてこい。もうベンチの奴らには言ってあるから」

 その言葉の意味を、岩本は試合後にチームメイトから聞くことになる。種茂監督はベンチで選手たちにこう語りかけていたという。

「あいつがイップスを克服するために、この1年間、室内練習場でどれだけボールを投げたと思う? あいつにチャンスをあげたい。みんな、盛り上げてやってくれ!」

 岩本がひっそりと特訓していたことを、種茂監督は知っていたのだ。

 しかし、突然マウンドに上げられた岩本は、体の芯から湧き上がってくる震えをこらえることができなかった。

「ガンちゃん、大丈夫! 絶対に大丈夫やって!」

 懸命に声を振り絞って鼓舞してくれたのは、ショートのポジションについていた荒井だった。しかし、岩本はまるで砲丸投げでもするかのような、ぎこちないフォームで投球練習に入った。

「お前、そんなんで大丈夫なんか〜!」

 スタンドからファンのヤジが聞こえてくる。ロッテベンチからは「日が暮れるぞ〜!」という声が飛んできた。岩本は「それがイヤやねん......」とひとりごちた。これまで自分が積み重ねてきたことのすべてを、きれいさっぱり忘れてしまっていた。

「ガンちゃん、大丈夫やって! 真ん中に投げたらいいんですよ!」

 絶えず声を掛け続けてくれていた荒井の声が耳に入ってきたその頃には、いつの間にか投球練習の5球を投げ終えていた。

 打席に打者を迎えてセットポジションに入っても、足はガタガタと震えている。もしかしたら、これが野球人生で最後のマウンドになるかもしれない、運命の一球。ゆったりとモーションを起こしながら、岩本は瞬間的にあることを思い出す。

「ハッと我に返って、目をつぶって投げたんです。どうせイップスなんやから、どこに行ったっていい。それで僕、本当に目をつぶって投げたんです」

 次の瞬間、「カーン!」という打球音が聞こえた。即座につぶっていた目を開ける。上空を見上げ、ボールの位置を探す。ようやく見つけたその白球は、ショートの荒井がガッチリとつかんでいた。

「ドラマチックですよね。目をつぶって投げたボールをバッターが打ち上げてくれて、それをよりによって荒井が捕ってくれるなんて......。ベンチも『うわぁ〜、アウト取ったぞ〜!』と大盛り上がりで。事情を知らん人は、何の大騒ぎかわからないですよ。『なんやハム、お前らどうにかなったんかぁ〜!』って(笑)」

 運よく先頭打者は打ち取ったものの、次打者に対してはボール球が2球続いた。やはり、復活にはほど遠い状態だった。そこで岩本は、今度は目をつぶるのではなく、薄目を開けて投げ込んでみた。すると、そのボールをまたもや打者が打ち損じ、2アウトになった。

 日没が迫っている関係もあり、アウトになっても内野陣がボール回しをすることもなく、ボールはすぐに岩本の手元に戻される。その頃には、荒井だけでなくバックやベンチの「ガンちゃん大丈夫や〜!」という激励も聞こえるようになっていた。

 3人目の打者に対しては2ストライクと追い込んだ。捕手のサインをのぞき込むと、「フォークボール」のサイン。イップスになって以来、フォークなど投げたことすらない。岩本はキャッチボール中に遊び感覚でフォークを投げたことを思い出しながら、ボールを深く握り込んだ。

 その瞬間、ロッテベンチから「あれ、フォークちゃうか!」という声が飛んだ。グラブで隠しているとはいえ、あまりにも不自然な右腕の動きでバレバレだった。

「『まあええわ』と開き直ってボールを投げたら、『フォー』......とそのまま落ちないで、真っすぐミットに入ったんです。『フォーク』にならなかった(笑)。バッターは面食らって空振りですよ」

 あぁ、空振りした! 次は何を投げようか......と考えていると、背後からグラブで尻をパン! と叩かれた。振り向くとショートの荒井がおり、「ナイスピッチング!」と称えてくれた。そして、まるで勝利を決めたかのように盛り上がっているベンチも見えた。岩本は、そこで初めて自分が1イニングを投げ切ったことに気がついたのだった。

「もう種茂監督は覚えてないんちゃうかな」

 24年前の出来事を振り返って、岩本は感慨深そうにつぶやいた。この奇跡の復活登板が岩本の首の皮をつなぎ、以降は二軍での登板機会を飛躍的に伸ばしていく。しかし、岩本がイップスを完全に克服するまでには、もう少し時間が必要だった。

(つづく)

※「イップス」とは
野球における「イップス」とは、主に投げる動作について使われる言葉。症状は個人差があるが、もともとボールをコントロールできていたプレーヤーが、自分の思うように投げられなくなってしまうことを指す。症状が悪化すると、投球動作そのものが変質してしまうケースもある。もともとはゴルフ競技で使われていた言葉だったが、今やイップスの存在は野球や他スポーツでも市民権を得た感がある。

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