藤浪晋太郎が信頼を寄せる大阪桐蔭の元チームメイトの波瀾万丈 「センバツで4番、夏はスタンド」

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2024年02月28日 07:41  webスポルティーバ

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大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜小池裕也(前編)

 藤浪晋太郎のメッツ移籍が球団から公式に発表される3日前、一通のメールが届いた。

「日曜日に無事アメリカへ旅立って行きました。もちろん、土曜日までしっかり練習しました!笑」

 役割を終えた安堵感と一抹の寂しさが伝わってくるこのメールの送り主は、小池裕也。ここ数年は会社勤めの傍ら、時間の許す限り藤浪のオフの練習パートナーを務めてきた。藤浪とは大阪桐蔭時代のチームメイトであり、高校野球に詳しいファンなら2012年の"春夏連覇"の「春の4番」として記憶している方もいるだろう。

 この数日前、直接話を聞く機会があり、「全身筋肉痛です」と軽く足をさすりながら小池は現れた。小池に会うのは、藤浪がアスレチックスからオリオールズへ移籍した直後となる昨年7月以来。前回も今回も、藤浪の話題から始まった。

【帰国後の藤浪と多くの時間を共有】

 メジャー1年目の戦いを終えた藤浪が昨年10月に帰国してからの約4カ月、小池はかなりの頻度で行動をともにしていたという。大阪桐蔭のグラウンドに監督の西谷浩一をはじめ指導者に帰国のあいさつをした際も同行した。

 藤浪のリクエストで『王将』の餃子とビールを堪能した時も、澤田圭佑(ロッテ)を交えて小池の実家で母の手料理を味わった時も、年末にかつてのチームメイト数人とゴルフでリフレッシュした時も......常に小池は藤浪と一緒だった。

 そして年が明けると、大阪市内の街中にある公園で指導。凧上げを楽しむ親子やボール遊びに夢中になっている子どもたちのそばで、メジャーリーガーのストレッチ、ランニングに付き合った。藤浪らしい奔放な姿を思い浮かべていると、「見てください。わっるい顔してるでしょ?」と、小池は携帯電話で撮影した動画を見せてきた。

 そこに映っていたのは、阪神二軍の本拠地・鳴尾浜でのトレーニング風景だ。歯を食いしばりベンチプレスを上げる小池を、見下ろしながら笑顔でいじる藤浪の姿が映し出された。自己最高だという体重95キロの重量感たっぷりのボディーの上に乗る色白の顔をニコニコさせながら、小池がぼやく。

「僕もポール間を走らされたんですけど、タイム設定は藤浪が36秒で、僕が38秒。メジャーリーガーとふだんはとくに運動をやっていない会社員が2秒違いっておかしいでしょう。で、『オレに何を求めてるんや??』って言ってもお構いなし。おかげで全身筋肉痛です。だから藤浪から『○日空いてる?』って電話がかかってくると、一気に憂鬱な気分になるんです。でも誘いがきたら、行ってあげたいなって気持ちになるんです。彼女との予定があったとしてもです(笑)」

 鳴尾浜のブルペンではキャッチャー防具をフル装備し、藤浪の剛球に神経を集中させて受けた。映像を見ながら「まとまっていた?」と聞くと、「安定の荒れ球です」と笑顔で返してきた。互いを深く知るからこその"いじり合戦"。高校時代に濃密な2年半を過ごした空気感が、小さな画面の中からでも伝わってきた。

【センバツ出場の原動力に】

 そんな小池だが、ふと思うことがあるという。「いつから藤浪との距離がこれほど近くなっていったのか」と。

 小池は中学時代、大阪のボーイズリーグの名門「八尾フレンド」でプレー。体格もよく、中軸を担った。チームは桑田真澄や平石洋介の出身チームとしても知られており、PL学園へ進む先輩たちを見て、小池のなかにもひとつの選択肢としてあった。だが小池は、大阪桐蔭へ進むことを決めた。

 当時の大阪桐蔭は、2008年に浅村栄斗(楽天)らを擁し、1991年夏以来2度目の全国制覇を果たすも、まだ確固たる地位を築けていなかった。小池が回想する。

「今みたいに全国から優れた選手が集まってくるわけでもなかったし、1年夏は大阪大会3回戦で桜宮に負け、秋も近畿大会初戦で加古川北に敗退。2年夏も大阪大会決勝で東大阪大柏原にサヨナラ負け。甲子園に届きそうで届かない、そんな時期だったと思います」

 とはいえ、チーム内の競争は今と変わらず激しかった。1年時は先輩たちについていくのがやっと。2年になると、野手では同学年の水本弦が夏からレギュラーとなり、田端良基がベンチ入り。その次に続くのは誰か......という状況だった。

「僕らは毎日がテスト、毎日試されている気分でした。『明日はノックのメンバーに入っているか』って不安で、入ったら入ったで、そこで認められないと翌日から外される。バックネット裏にあるホワイトボードに、練習メニューとそこに入るメンバーが書かれているんです。そこに名前があれば週末の練習試合に連れていってもらえる。そこでアピールできれば、次の大会でベンチ入りできるんじゃないかって。みんなホワイトボードで、自分の現在地を知り、気分が上がったり、落ち込んだり......。この先のことはまだわからないですけど、ここまで生きてきたなかで、あの頃より憂鬱な気分で過ごすことは今のところないです」

 同級生に弱さは見せられず、携帯電話の使用が禁止されているため親に甘えることもできない。学校、グラウンド、寮の3つを行き来する毎日のなかで、小池が競争に勝ち、大会でベンチ入りを果たしたのは2年秋。

 人生で一番練習したという夏を乗り越え、秋の大阪大会から打撃が好調。背番号が「13」から「5」に変わった近畿大会でも打ち続け、翌春のセンバツ大会出場の原動力となった。

「僕の記憶では、大阪大会と近畿大会を合わせて、たしか35打数20安打ぐらい。森(友哉)と田端と同じぐらい打って、打点もチーム1でした」

 高校野球の専門誌に取り上げられ、そのままセンバツの注目選手になってもおかしくなかった。しかし、そこですんなりいかないのが小池である。

【春の4番が夏はベンチ外】

 まだ寒さの厳しい2月、小池は紅白戦で藤浪のストレートを左頬に受けた。うずくまると、目の前には血で赤く染まったホームベースがあった。ただ、誰もが重傷と思った診断結果は、打撲と内出血。当時を知る同級生たちは「あれでなんともなかった小池はエグい」と話し、続けて「だから藤浪の荒れ球は昔からなんです」と口を揃える。

 2週間で通常の練習メニューに復帰するも、打席では怖さが残った。踏み込めず、好調時の感覚が戻らない。3月上旬に練習試合が解禁となり実戦が増えていくが、小池の調子は上がらず、センバツ初戦の花巻東(岩手)戦はベンチスタート。ところがその試合で、再びチームにアクシデントが起きた。

 7回に大谷翔平から一発を放っていた田端が、9回の最終打席で右手首にこの日2つ目の死球を受け骨折。これにより、2回戦から小池が4番として出場することになったのだ。

 ただ2回戦からの準決勝までの3試合で、小池は10打数1安打。準々決勝の浦和学院(埼玉)戦では1点を追う9回に一死から値千金の四球を選び、そこからチームは大逆転。大阪桐蔭史上初となるセンバツベスト4進出を決める仕事をやってのけたが、バットは湿ったまま。

 それが決勝の光星学院(現・八戸学院光星/青森)戦では、1回に先制の2ランを放つと、あわやサイクルヒットの3安打。"打のヒーロー"としてスポットライトを浴びた。

「大会中は毎晩、西谷(浩一)先生に宿舎地下の駐車場でスイングを見てもらった成果が出ました」

 ただ、その時が小池の野球人生でのピークだった。その後、チームは夏に大阪桐蔭史上初の春夏連覇を達成するのだが、歓喜の輪のなかに小池の姿はなかった。夏の甲子園ではベンチから外れ、試合中はアルプススタンド最上段で長さ5メートルを超える校旗を持ち続けていたのだ。

「センバツの決勝で4番を打ってホームラン。それが夏にスタンドで旗持ちをしているなんて、100年を超える高校野球の歴史のなかでも僕ひとりでしょう(笑)」

 センバツのあと、いったい小池に何があったのか......。

「ケツの青い高校生が勘違いしたんですよ。よくある話です。アホでした」

 たとえば、学校で禁止されている踝(くるぶし)までの靴下を履いて登校し、こちらも禁止されているiPodが見つかり、担任でもあった西谷から一喝されたことがあった。ひとつ一つを聞けば些細なことと思えたが、総じてこの調子だったのだろう。

「なぜ?」と聞くと、小池は少し考え「目標がなくなってしまったのはありました」と言った。

「中学まではプロ野球選手になるのが夢でした。それが高校に来て、プロは限られた人が行く場所だとわかって、そこから目標は甲子園のみ。毎日、西谷先生に提出する野球ノートの最初のページに3年間の目標を書くんですけど、そこに『甲子園で優勝するために大阪桐蔭に来ました』と書いたんです。それがセンバツで優勝して、決勝戦でホームランまで打てた。『もうこれ以上はない』と思ったら、ここから夏に向けてもう一回しんどい練習をやるぞって気持ちが......そこはしんどいことから逃げてしまう、自分の甘さでもあったんですけど」

 その結果、練習から外され、草むしりの日々が始まった。春の近畿大会のメンバーから外れると、メディアは「細かな故障があってメンバーから外れた」「激しいメンバー争いのなかで調子が上がらず」といった感じで、小池不在を報じた。だが、本当の理由は別にあった。

【チームメイトに突きつけられた「ノー」】

 6月、夏の大阪大会のベンチ入りメンバーを決める際、西谷は主将の水本、副主将の白水健太と澤田の3人に、それぞれベンチ入りメンバー20人を書かせた。すると、どのリストにも小池の名前がない。西谷は3人を別々に呼び、「小池はええんか?」と確認した。これに3人とも「小池はいいです」ときっぱり。「ホンマにええんか?」と念押ししても、「いいです」と即答だった。

 たしかに、センバツ以降はいろいろとあった。しかし能力を考えれば、勝つために必要と考えるだろうと、西谷はどこかで思っていた。ところが3人の答えは、まったく逆だった。

 たとえば、澤田は当時の心境をこう振り返る。

「センバツ以降、小池はチンタラしていましたから。夏を勝つために必要じゃないと。そこはみんなシビアに『小池? いらんっす』って感じでした」

 同時に、3人とも揃ってこう付け加えた。

「悪いヤツではなかったんです」

 ふだんは楽しく会話をし、寮に戻ればふざけあったりもした。それでも"切った"。この厳しさこそが、大阪桐蔭の強さなのだと確信した。小池は西谷の判断で大阪大会こそ背番号20でベンチ入りするも、登録が18人となる甲子園ではメンバー外となった。

「あの時は、親に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、今の僕でも外していると思います」

 そう語った小池だが、メンバー発表後もすぐに気持ちは切り替わらず、精彩を欠く動きについに西谷の雷が落ちた。

「レギュラーでもやってきたおまえがそんな態度でどうするんや!」

 それからは裏方として率先して動き、練習中はバッティング投手を務め、試合中はアルプススタンドで校旗を持った。そしてチームは史上7校目、大阪桐蔭としては初めての春夏連覇を達成した。

「グラウンドに立てなかったけど、うれしさは春と変わらない。みんなで助け合い、大阪桐蔭で野球をして本当によかった。最高です」

 当時のコメントが新聞記事に残っている。春の4番がベンチを外れ、スタンドで旗を持ちながら仲間の勝利を願う。その姿は、格好の美談として各方面で報じられた。あれから時が経ち、あらためて当時の心境はどうだったのか。

「どんな感情やったんですかねぇ。連覇がうれしかったのはたしかです。負けてほしくなかったし、一緒にやってきた仲間も活躍してほしかった。でも、スタンドで旗を持ちながら試合を見て、悔しかったこともたしかです。夏の決勝に勝って、春夏連覇を達成した時は、どんな感情やったんですかねぇ......。僕が部員のなかで、一番複雑な気分であの大会を見ていたのかもしれないですね」

 おそらく本心だろう。そして小池は言う。

「外されたこと以上に西谷先生に怒られて、『これじゃアカン』と気づけたことが大きかった。あの夏は、僕の人生の分岐点です」

 力強く当時を振り返ったが、「だから小池は変わった」と言うには、まだ物足りなさがあった。実際、その後の人生もすんなりといかなかった。

後編につづく>>

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