松崎しげる、芸能生活54年を迎え“引き継ぐ”決意 先輩からの教えを後輩へ「できる限り発信していきたい」

0

2024年03月12日 14:43  ORICON NEWS

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

ORICON NEWS

“引き継ぐ”決意を明かした松崎しげる (C)ORICON NewS inc.
 歌手の松崎しげる(74)が12日、都内で行われた『東京国際音楽祭 〜Tokyo International Music Festival “戦後、歌謡曲はジャズだった”2』の制作発表記者会見に出席。音楽の原体験を振り返りながら、後輩たちへの思いを明かした。

【全身ショット】赤ジャケットが映える!ビシッとスーツ姿で登場した松崎しげる

 『東京国際音楽祭』では、音楽の振興と文化を次世代に継承、普及させるとともに、子どもたちや青少年にさまざまなジャンルの音楽を通じて、友好・親善を深めることを目的とし、東京から世界へ羽ばたく音楽人を応援するプログラムを展開。

 本プログラムでは、1927年に日本で初めて楽団名にジャズの文言を入れたバンド・横浜ハーモニカジャズバンドを結成した奥田宗弘さん、名曲「東京ブギウギ」などを手がけた作曲家・服部良一さんらの功績を振り返り、“和製ポップス”に多大な影響を与えた歌謡曲、ジャズなどにフォーカスする。スインギー奥田、服部克久さん、前田憲男さんが発起人となり、2016年に第1回が開催された。

 8年ぶり2回目となる今回に出演する松崎は、「幼年期から服部良一さんの音楽に触れて育ち、そして息子の克久さんとは何度も仕事をしましたけど、すばらしい作曲家であり、すばらしいアレンジャーだった。一緒に仕事ができたことは人生における財産ですね」としみじみ。

 続けて、音楽にのめり込んだキッカケとして歌番組『シャボン玉ホリデー』なども挙げながら、「当時は誰しもが、お茶の間で流れている音楽で最初の感動を経験しました。僕も白黒の画面でお兄さん・お姉さんたちがやっている演奏を見て、なんてカッコいいんだろうと。そして自分でも鼻歌を歌うようになって、グループ・サウンズを見てギターを触りたくなり、そこが自分にとって“作曲の夜明け”になった」と振り返った。

 同プログラムは、「東京から世界へ羽ばたく音楽人を応援する」という目的のもと、次世代のミュージシャンも多く出演する。松崎は「自分も年を取っていられないなと思うんだけど、周りがどんどんいなくなっちゃうからさみしい」と本音を吐露しながら、「ミッキー・カーチスさんや堺正章さんなど、先輩たちが楽屋話をよく聞かせてくれて、そこでステージの見せ方や立ち居振る舞いなども学ばせてもらったんです」と回顧。

 さらに「僕が生まれたのは1949年、昭和24年です。これは『紅白歌合戦』が始まった年で、白黒の世界をカラーにしてくれたのが音楽だった。特にアメリカの音楽を聞いたときに、当然ながら音楽に色はついていないわけですが、カラーに思えたんですよね」と、自身の音楽の原体験も口に。

 近年は「デビューから54年。前立腺をやったり耳や目が悪くなったり…さまざまな変調はあります」とこぼすが、「マイクを持つと誰よりも大きく、ハキハキと歌える。ですので、ステージに立っているときは74歳に見えないと思いますよ(笑)」と胸を張る。

 そして「ステージに立ったらベテランも新人もない。僕自身、若いミュージシャンの演奏や歌を聞いて、ファンになるほど感動することも多いんです。そういうエモーションをくれる音楽は、僕の唯一の栄養源ですね」と笑顔を見せつつ、「先輩たちの背中はやっぱり大きかった。僕の背中がどうかはわからないけど、残された身としては、できる限りどんどん発信していきたいと思う」と言葉に力を込め、「発信するには元気がなきゃいけない。老体にムチ打ってがんばりたいと思います」と笑顔を見せた。
    ニュース設定