都並敏史が語るドーハの悲劇。「オフトは僕とだけ握手をしなかった」

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2024年03月23日 22:51  webスポルティーバ

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悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――都並敏史編

アメリカW杯アジア最終予選(1993年10月/カタール・ドーハ)に挑んだ日本代表のメンバーの中に、左足を骨折していた選手がいた。左サイドバックの都並敏史である。しかし彼は、大会中、そんな素振りを一切見せなかった。激痛に苦しめられながらも、全力で練習に励み、試合に出場する準備を常に整えていた。あれから20年経った今、その苦難の日々を振り返る――。

レントゲン写真を見たとき
ドーハには行かないと決断していた

 都並敏史(現解説者)は、オフトジャパン不動の左サイドバックだった。そして、都並と、MFラモス瑠偉(現ビーチサッカー日本代表監督)、FWカズ(三浦知良/現横浜FC)というヴェルディ川崎のメンバーで構成された左サイドからの攻撃が、オフトジャパン最大の武器だった。

 だが、大一番となるアメリカW杯アジア最終予選で、都並がピッチに立つことは一度もなかった。


 問題が発生したのは、1993年Jリーグファーストステージ第3節のサンフレッチェ広島戦だった。都並は相手ボールを奪おうと、無理な体勢でタックルにいった。その際、左足首を痛めたのだ。

「そこで、たぶん(骨に)ひびは入っていたと思うんですけど、無理してそのままプレイして、その試合後もずっとリーグ戦に出場していた。それで、練習中にまた痛めて、7月くらいかな、骨が折れているってわかったのは。今思えば、最初に痛めたときにしっかり治療しておけば、(最終予選にも)間に合ったと思うんだけど......。でも当時は、治療に専念するという、負傷した選手が取るべき行動とか、ケガへの向き合い方とかを誤って、気持ちで(ケガを)治すというか、"根性論"が先走ってしまった。そこは、自分が甘かった。プロとしての意識が欠けていた。単に(最終予選に)出たいからって、焦って、無理をして、余計に悪化させてしまった」

 足の痛みは日に日に増していったが、都並が休むことはなかった。最終予選直前には、日本代表に合流して、9月のスペイン合宿にも参加した。試合には出場しなかったものの、練習は普通にこなした。しかしその間、都並は足の状態の悪さを自覚し、最終予選に行くべきか、行かざるべきか、ずっと悩んでいた。そして帰国後、日本の病院で精密検査を受けると、左足首を写したレントゲン写真に「1本の真っ黒のラインがはっきりと写っていた」という。完全に骨折していた。そのとき、都並自身は、決戦の地となるカタール・ドーハ行きを諦めようと決断した。

「ドーハに行くか行かないか、(気持ちの中で)葛藤はありましたよ。でも、今でも僕はそう思っているけど、あのときの状態では(自分は)日本代表レベルの選手じゃないんですよ。どうがんばっても日本代表でトップパフォーマンスのプレイはできない。ならば、『俺はドーハに行くべきではない』と思ったんです。昔から日本代表が好きだし、日本代表は最高の選手が集まるところですから、レントゲン写真の"真っ黒な線"を見たとき、自分は今、(日本代表選手としての)権利はないと思ったんです」

 ところが、オフトジャパンは都並に代わる左サイドバックをなかなか固定できないでいた。数人の選手が試されたが、指揮官のオフトが満足できるだけの選手は現れなかった。ゆえに、ドーハに出発する直前、清雲栄純コーチから都並に電話がかかってきた。

「おまえが必要なんだ。ムードメーカーとしても、戦力としても必要なんだ。オフトも『来い』と言っている」

 そして、都並は集合場所である成田のホテルに向かった。都並の決断は、わずかな時間で引っ繰り返ったのである。

「清雲さんから電話をもらったあと、こちらから折り返して『(ドーハに)行きます』って伝えました」

 一度は「行かない」と決めていた都並が、なぜ急に「行く」ことにしたのか。左足が骨折していることを承知で、最初の決断をなぜ翻意したのか。実は、都並に近しい人間に背中を押されていた。

 ひとりは、JSL(日本サッカーリーグ)の読売クラブ時代から一緒にプレイしてきた親友の齋藤芳行(現浦安SC監督)だった。彼は、都並にこう言った。

「チームの戦略的にも、戦術面を考えても、おまえは(ドーハに)行く価値があるんだ」

 のちに都並が横浜FCの監督になったとき(2008年)、コーチを務めたのは斎藤だった。「芳行に言われたことが大きかった」と、サッカー界で最も信頼する男のアドバイスに、都並の気持ちは大きく揺れた。

 そして決定的だったのは、高校の同級生で、長年連れ添ってきた妻・ゆかりの言葉だった。清雲からの電話を受けて、斎藤に相談し、都並は4、5時間悩んでいたというが、最後に「みんなが『ドーハに行け』って言うんだけど、どうしようか」と妻に訪ねた。すると、彼女はこう言った。

「そんなの悩むなんて、パパらしくないよ。(ドーハに)行くべきでしょ」

「行ったら、俺の足、壊れちゃうぞ」と都並が答えると、こう返してきた。

「いいじゃん、壊れても」

 都並の気持ちは、それで固まった。

「うちのかみさんは、基本的に僕のサッカーのことに関しては何も言わない。試合も見に来ない。だた、体育大卒の根性系なんですよね(笑)。自分では『一生サッカーができなくなったらどうしよう......。子供は小さいし、家のローンだってあるし......』とか、現実的なことも頭をよぎったりしたんですけど、かみさんのそのスタンスに助けられましたよ。どうせ、最後は僕がなんとかしてくれると思っているんでしょうけど、そこまでの覚悟があるならいいかな、と思って。『本当に壊れちゃってもいいのか』って思いましたけど(笑)、逆にうれしかったですね、あの言葉は。最後は、かみさんのひと言で決めました」

W杯に出場できないと決まったとき
自分のせいだと思った

 そうしてドーハに向かう決意をした都並だが、出発前にオフトにはきちんと確かめたいことがあった。自分を招集する真意である。都並は集合場所である成田のホテルに到着すると、オフトのところに真っ先に向かおうと思っていたが、逆にオフトもロビーで都並を待ち構えていた。オフトは、取材陣でごった返していたロビーの片隅に都並を呼んで、小声でたったひと言だけ発した。

「You are normal」

 オフトは、都並のケガの状況も、プレイできないこともわかっていた。しかし、都並が負傷していることを知る対戦相手を騙(だま)し、情報をかく乱するためには都並が必要だった。「日本には都並がいる」と思わせることができれば、相手はそのための戦術やシステムを敷いて、メンバーも代えてくるかもしれない。それだけでも、相手の戦い方、リズムは崩れる。日本にとって、その効果は計り知れなかった。さらに、「いつ出てくるかわからない」という都並の存在は、対戦相手にプレッシャーを与えることができた。だからこそオフトは、都並に「おまえは、正常だ」としか言わず、ドーハまで連れて行った。

「(オフトが)少しは優しい言葉でもかけてくれるのかと思ったけど、たったそのひと言ですよ(笑)。でも、それでまた、自分の気持ちが一気に高ぶりましたね。『わかった。じゃあ、やってやるよ』って。『足が壊れても関係ない。どうなってもいいから、痛み止めの注射を打って、俺は(チームの)戦力のつもりで行くぞ!』って、言ってやりました。まるで戦場に向かう、兵士のような気分でしたね」

 都並のその覚悟に、コーチの清雲はたじろいだ。都並をなだめて、無理をしないように念を押した。「オフトも(本当は)『無理をするな』と言っているから、練習はフルにやらなくていいからな」と。

 もちろん、都並自身、おそらく試合には出られないだろうと自覚していた。しかし、オフトに「ノーマルだ」と言われて、自分が与えられた役割を精一杯全うしようと思った。練習を全力でこなして、本気で試合に出るつもりで臨もうと決心した。対戦相手に限らず、チームメイトも、ファンも、マスコミも、すべての目を欺(あざむ)かなければ、敵を完璧には騙せないと思ったからだ。

 当時、都並のケガの状況を知っていたのは、オフトと清雲のほかは、チームドクターと主将の柱谷哲二(ヴェルディ/現水戸ホーリーホック監督)だけだった。

「テツ(柱谷)も『無理しないでください』と言っていたけど、『俺には大事な役目があるんだ』と思って必死でした。だから、痛み止めの注射を打って、練習をガンガンやって、誰もが『都並はいつ(試合に)出るんだ』と思わせるように取り組んだ。注射ですか? みんなに隠れて、1回の練習の度に7箇所に打っていました。それでも痺(しび)れたりして、本当は立っていられないほど痛かった。にもかかわらず、全力で練習していた。考えるだけで、恐ろしいですよ。よくそんなことしたなって......。あのときのことを思い出すと、今でも鳥肌が立つくらい、気合いが入っていましたね」

 注射で痛みが抑えられているうちはまだいい。しかし練習が終わって、注射の効き目が切れてからが、さらに大変だった。凄まじい激痛に襲われ、都並にとっては地獄だった。本来なら、ギブスをして病院のベッドで寝ていなければいけない身である。その痛みは想像を絶していた。それが、ドーハにいる間は毎日続いた。

「人生において、あんな痛みは二度とないだろうと思うくらい。言葉を発せないし、立つことさえできないし、そんな痛みが2時間くらい続くんです。その時間が過ぎると、少しは我慢できる痛みに変わるんですが、それでも全身から汗が噴き出してくるほどの痛さだった。過去に4回、骨折したことがありますけど、あのときの痛みは......、さすがに耐えられるものではなかった」

 そんな状態であっても、都並は試合に出場する準備を整えていた。「行くぞ」と言われれば、いつでも試合に出場するつもりだった。

「(2戦目の)イラン戦の前半、左サイドバックのヤス(三浦泰年/清水エスパルス/現東京ヴェルディ監督)のところを相手に突かれていたんですね。すると後半に入って、オフトは勝矢(寿延/横浜マリノス/現セレッソ大阪スカウト)にアップを命じた。そのとき、僕は激高しましたよ。ヤスがレギュラーで、もし代わるんだったら『俺だ』って思って練習に励んでいましたからね。清雲さんに食ってかかっていました。『なんで、俺じゃねぇんだよ。ここは俺だろ! ふざけんじゃねぇ!』って」

 3戦目の北朝鮮戦からは、勝矢が左サイドバックを務めた。安定した守備を見せて、日本の勝利に貢献した。それでも、都並は準備を怠(おこた)ることはなかった。

「いつでも試合に出て、プレイするつもりで備えていました。(4戦目の)韓国戦のときも、最後のイラク戦のときも、出番が来れば、その前にもう一度注射を打てば、"いける"と思っていました」

 ドーハの地で壮絶な時間を過ごしていた都並。しかし、彼の限界を超える取り組みや、命がけの行動は実らなかった。日本は最終戦のイラク戦を2−2で引き分けて、W杯出場を逃した。その結果に対して、都並は自分を責めた。

「この代表チームだったら、結果が出ると思っていた。練習中でも選手個々が互いに厳しい要求をし合って、熱い雰囲気があった。やるべきことをやって、運も持っていた。みんなが自信を持っていて、必ず結果が出ると信じていた。それだけに、W杯に出られないとわかったとき、『あれ?』『どうして?』っていう感じだった。『なんで、結果が出なかったんだよ』って、僕も頭の中が真っ白になった。そのとき、ふと思った。よくよく考えたら、自分がケガをして、こんな状態でチームにいたのがいけなかったんだって。それで、すごく自己嫌悪に陥った。

 オフトも僕とは握手しなかったんですよ。彼は『覚えていない』って言うんだけど、イラク戦を終えてみんなと握手をしていって、最後に僕のところだけスッと避けた。あれは、『おまえのせいだ』っていう、オフトの本音が行動に出た瞬間だったと思う。僕も現役を引退して監督をやったから、その気持ちはわかる。選手を選んだのは監督だから、監督に責任があるんだけど、つい、そういう感情が選手に対して少しだけ出てしまうことがあるんですよ。

 あの瞬間は、20年経った今でも覚えているし、そのとき味わった感覚はずっと忘れられない。別にオフトを恨んだりはしていないですよ。でも、あの瞬間、『俺のせいだよな』って、改めて痛感させられた......。もちろん、チームのためにすべてを捨てて献身的に尽くす姿勢とか、そういうのは尊いことだと思う。だけど、それは100%のプレイができる人間がそうであるべきこと。当時の僕は、70%、もしくは60%以下だった。そんな選手が代表メンバーにいて、中途半端なことをやっていたから、運は逃げるんだな、と思った。そんな状態だから、サッカーの神様も許さなかったんでしょう。『おまえら、それは甘いよ』って。だから、自分はすごく後悔して恥じた。万全の状態に持ってこらなかった自分に。最終予選に間に合わせられなかった自分に......」

 そうは言っても、都並はまさに満身創痍だった。彼はなぜ、そこまでがんばれたのか。

「自分が子どもの頃から憧れていた、日本代表への責任ですよね。チームのためにやるべきことは、やり切るしかない、という気持ちでした。みんなをW杯に連れて行けさえすれば、それで良かった。自分はどうでも、どうなってもいいと思っていました。二度とサッカーができなくなってもいいと、そのくらいの覚悟でドーハに行きました」

 それだけに、「ドーハの悲劇」は都並の人生において大きな分岐点となった。

「自分にとっては、非常に大きなターニングポイントですね。常に貪欲に、より高い意識を求めていくことが大切だと教えられた舞台でした。今ではもう、現役時代と同じような運動量はないけれども、ドーハで戦ったときのことが、生きていくうえでの指標になっている。あのときと比べて、『今は怠(なま)けている』とか『今はがんばれている』とか、自分の人生において大事な基準を手にしたように思います。

 また、僕ら選手だけじゃなくて、応援してくれたファンにとっても、大きな出来事だったと思います。すべてのサッカーファンの意識がワンランク上がった。それが、日本サッカーの成長につながっている。そういう意味では、とてもいいきっかけだった。これから時を経て、100年後に日本サッカーを振り返ったときでも、『ドーハの悲劇』はみんなが思い出す、大きな節目になっていると思う」

 都並の名は、出場メンバーとして公式記録の中には残っていない。しかし100年後に『ドーハの悲劇』が語られるときも、都並という存在は間違いなくクローズアップされるだろう。

都並敏史(つなみ・さとし)
1961年8月14日生まれ。東京都出身。1980年にJSLの読売クラブ(その後のヴェルディ川崎、東京ヴェルディの前身)入り。1993年、Jリーグが開幕してからもヴェルディの一員として奮闘。黄金期を築いた。日本代表にも19歳で選出され、長きにわたって活躍。不動の左サイドバックとしてその名を知らしめた(国際Aマッチ出場78試合2得点)。1998年に現役を引退。その後は指導者の道へ進み、ベガルタ仙台(2005年)、セレッソ大阪(2007年)、横浜FC(2008年)などの監督を務めた。現在は東京ヴェルディの育成アドバイザーを努めるとともに、解説者としても奔走している。

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