センバツ優勝投手・下窪陽介は大学で野手転向、社会人を経てプロ入り 今は売り上げ5500万円の営業マンとなった

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2024年03月25日 07:40  webスポルティーバ

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下窪陽介インタビュー(後編)

前編:「下窪陽介はいかにして鹿児島県初の甲子園優勝投手となったのか?」はこちら>>

 鹿児島実業のエースとして1995年秋の九州王者に輝いた下窪陽介は、1996年センバツ出場に向けて、まずチーム内の争いに勝つことにこだわった。九州大会では140キロを超える直球と、宝刀のスライダーを武器に"3試合連続完封"を果たすなど、その名は全国区となったが、冬の期間、謙虚に自身を見つめ直していた。

【無失点記録は31回1/3でストップ】

「練習もやり残したことがないように、人よりも多く投げる、人よりも多く走るということをずっとやっていました。自分は軟式から高校に入ったので、どうやったら硬式出身の人に勝てるかということを常に考えながらやっていましたね」

 3月の練習試合解禁からは、ほぼ毎日のようにダブルヘッダーや、時にはトリプルヘッダーもこなしながら、連戦に耐えられる体に仕上げていった。

 そして迎えたセンバツ初戦の伊都(和歌山)戦。5安打1失点完投勝利と最高の全国デビューを果たしたが、その試合中、審判に2段モーションを注意されてしまう。その後、練習でも試したことのなかった1段モーションに切り替えたことでリズムを崩し、8回に失点。前年の九州大会から続いていた無失点記録は31回1/3でストップしてしまった。

「1段モーションだと少しバランスが崩れて、今までのリリースポイントとはまた少し違う感覚になる。体も早く開くような感じがあって、やっぱり違和感はありましたね」

 2回戦の滝川二(兵庫)まで中3日。それまでの2段モーションのリズムを変えないように、左足を高く、そしてゆっくり上げる急造フォームで対応した。

 ただ、滝川二は新チーム結成直後の関西遠征で勝利した相手。いいイメージを持って試合に臨めたことが大きかった。結果は2安打完封。「投手・下窪」の非凡な修正能力が、結果的に「人生におけるベストピッチ」を呼んだ。

「左足がマウンドに着いてから、しっかりとボールを前で離すということを意識しました。何よりも、自分たちがこれだけの練習をやったという自信が、試合で出ていたと思います」

 その後も慣れない1段モーションで準々決勝の宇都宮工(栃木)を2対1、準決勝の岡山城東を3対2と1点差でしのぎ、そして3日連投となった決勝は、1994年優勝校の智弁和歌山との対戦となった。

【5試合553球を投げ抜き全国制覇】

 これまで甲子園のマウンドを4試合経験していても、やはり決勝の雰囲気は独特だった。

「試合が始まるまでは、今日は抑えられるかな、勝てるかなという不安がありました。疲れもあって、球の抑えも途中から効かなくなってきました」

 無理もない。3月28日の初戦から4月5日の決勝までの9日間で5試合目の先発。本調子にはほど遠かった。ただ、智弁和歌山の2年生エース・高塚信幸は2回戦から4日連投と、ともに現代では考えられないほど過酷な条件下での戦いを強いられる。

 鹿実は、先攻だったことが奏功した。1回表、敵失をきっかけに、3安打を集中して3点を先制。この援護が、下窪の投球を楽にした。

「あの3点でいけるかなと思いましたね。ヒットは打たれたけど、ポテンヒットや内野安打とかだったので。ホームランは絶対打たれないというか、脳裏になかったですね」

 1996年センバツは、春先で投高打低の傾向が強い大会を象徴するように、金属バットが本格導入された1974年夏以降で最少となる5本塁打しか生まれなかった。長打を頭から完全に消し去ることで、球の抑えが多少効かなくとも、高低を有効的に使って打者と勝負することができた。終わってみれば、7安打こそ浴びるも6対3で逃げ切り。鹿児島県勢初の甲子園優勝を果たした。

 ただ、喜びもほどほどに、表情を引き締め、ホームへと整列した。正面には、準優勝に終わり悔しがる高塚や、智弁和歌山ナインがいる。

「相手に敬意を払いなさい」

 久保克之監督の教えのとおり、最後まで鹿実のエースらしく振る舞った。553球を投げ抜いた17歳の春。下窪は野球選手としてはもちろん、人間的にも大きく成長した。

「甲子園は本当にすごい場所。相手に対しての礼儀も含めて、いろいろなものを勉強させてもらいました。感謝とか、それまでは恥ずかしかった気持ちを堂々と伝えることができました」

【営業売上げは5500万円】

 あのセンバツで学んだことは、44歳となった今でもしっかりと生きている。下窪は高校3年夏に右肩を痛めた影響もあり、日本大では3年から打者に専念。

 その後、日本通運から2006年ドラフトで横浜(現DeNA)に入団も、4年で戦力外となり、現役を引退した。サラリーマン生活を経て、2015年から故郷の鹿児島に戻り、祖父・勲さんが創業、父・和幸さんが1972年に設立した「下窪勲製茶」の営業担当として働いている。

 デパートと交渉し、催事場や物産展で知覧茶などの自社製品を販売。全国を年間の半分以上となる30週間をかけて飛び回る多忙な生活を送っている。仕事でも「相手に敬意を払う」ことを忘れない。

「まずはデパートに入らないことには仕事になりません。しつこいと思われても、しっかりと頭を下げて仕事を取る。一生懸命やっていれば、誠意は必ず伝わります」

 勉強することも忘れない。知覧茶本来の甘味と旨味を試飲してもらうため、品種によって茶葉の量やお湯の温度を変えるお茶の入れ方を研究。試飲後に「おいしい」と言って数袋を買っていくお客も少なくない。そんな努力もあり、今では営業売上げ5500万円を稼ぐまでに成長した。

 桜の季節になると、あの春を思い出す。仕事が落ち着けば「野球の指導にも携わってみたい」という夢もある。センバツ優勝投手、そして野手でプロ入りした球歴は、誰もが経験できることではない。ただ、その原点は甲子園にある。

「高校球児ならだれもが甲子園にいきたい、そこでプレーしたい。目標じゃないですか。春だろうが夏だろうが、みんなそこに向けて努力をする。本当に特別な場所。出ることができたチームは、悔いなく思い切ってやってほしいですね」

 今年で96回を数えるセンバツはどんなドラマが生まれるのか。下窪もその瞬間を心待ちにしている。

おわり


下窪陽介(しもくぼ・ようすけ)/1979年1月21日、鹿児島県生まれ。鹿児島実業では3年春のセンバツで優勝、夏の甲子園でもベスト8進出。その後、日本大、社会人野球の日本通運を経て、2006年大学生・社会人ドラフト5位で横浜(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。入団1年目に72試合の出場で打率.277の成績を残し、その後は右の代打として活躍。2010年に退団後はサラリーマン生活を経て、現在は家業の下窪勲製茶へ入社

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