坂本龍一 追悼連載vol.9:晩年の重要作『レヴェナント』が開いた新境地、映画音楽家としての到達点

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2024年03月28日 18:10  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 八木皓平

坂本龍一がこの世を去って1年の月日が流れた。その死後もなお、私たちはまだ見ぬ坂本龍一に出会い続けている。

『AMBIENT KYOTO 2023』における高谷史郎とのインスタレーション作品『async - immersion 2023』の出展、先日閉幕したICCでの『坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア』、坂本龍一が音楽監督を務めた東北ユースオーケストラのコンサート作品集『The Best of Tohoku Youth Orchestra 2013〜2023』の発売、さらに2024年4月からは空音央監督による映画『Ryuichi Sakamoto | Opus』の公開、12月からは東京都現代美術館で大規模個展が控えている。

坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)を、このタイミングで少し再開しようと思う。

第9回の書き手は、クラシックや現代音楽に造詣の深い音楽批評家の八木皓平。取り上げる作品はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)のサウンドトラック。2014年7月に中咽頭がんで活動を休止して以来、坂本にとって復帰作のひとつとなった本作は、『ゴールデングローブ賞』や『グラミー賞』などへもノミネートされた。

まだ病み上がりで本調子とは言えない状況ながら、監督から課された音楽的ハードル、要求は相当な厳しいものだったようで、本作で得た手応えを坂本龍一は自伝『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(2023年、新潮社)のなかで以下のように振り返る。

もっとも、この辛くもあった仕事のおかげで、自分の新たな世界が開けたのは事実で、その後に手掛けた『怒り』(2016年)や『天命の城』(2017年)の映画音楽は、どこか『レヴェナント』の延長線上にあると言っても過言ではない。 - 坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』P.160より引用本人自らここまで語らしめたサウンドは、いかにして紡ぎ出されたのか。その秘密を紐解く。

自然のなかで音楽はいかにして鳴り響くのかを晩年の坂本龍一は追究していた。この問いに対して、坂本は抽象的なレベルではなく、実際に自然にまつわる音と音楽を同居させることで向き合った。

それはたとえば『out of noise』(2009年)における北極圏のアンビエンスや、『async』(2017年)で聴けるさまざまな環境音や音の「非同期性」(自然が奏でる音、リズムは非同期に満ちている)、そして『12』(2023年)の至るところに響く彼自身の呼吸音のことだ。外部の環境から、病に侵されつつある自身のことまでを一直線に自然ととらえ、それらを自身がつくりだす音楽と並置し、ひとつのサウンドとして世界に送りだした。

坂本のその姿勢は彼のオリジナルアルバムだけではなく、担当した映画のサウンドトラックにも反映されている。今回取り上げる『レヴェナント: 蘇えりし者』(以下『レヴェナント』)がそれだ。

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.
1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。

筆者が『async』リリース時に坂本龍一に対して行なったインタビュー(*1)で、彼はこのサウンドトラックでの体験が『async』に影響を与えていると語っていることからも、本作が彼の晩年のキャリアにおけるひとつのメルクマールといえる。

また、作品の内容が、まさに大自然と向き合う人間の話でもあるのだから、この映画にいかにして音をつけるのかということは、坂本龍一にも大きなテーマだったということは想像に難くない。

2014年に発覚した中咽頭がんで体力を消耗していた坂本は、この作品を自身の力だけで完成させようとはせず、電子音響〜エレクトロニカの巨匠であり、坂本との長年のコラボレーターでもあるAlva Notoに声をかけた。さらにそこにまた、USのインディーロックバンド、The Nationalのメンバーであり、ドイツ・グラモフォンから作品をリリースもするなどクラシック〜現代音楽方面の活動も盛んに行なっているブライス・デスナーが招き入れられた(※)。そうして『レヴェナント』のサウンドトラックは3人の作曲家によるコラボレーション作品となった。

前作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を監督したイニャリトゥと、美しくも厳しい大自然を切り取ることでは定評のあるエマニュエル・ルベツキ撮影監督のコンビがつくりだした荘厳な映像美に当てはめられたサウンドはどのようなものだったのか。イニャリトゥが坂本に求めたのはメロディではなく、サウンドのレイヤーだったという(※)。

本作で聴けるサウンドトラックはたしかに、強いメロディがリードするものというよりは、重厚なオーケストレーションやシンセサイザー、繊細な電子音がドローンやアンビエントに近いかたちで、ときにミニマルに鳴り響くものだった。音と音の間を意図的につくりだし、間が持つ沈黙を音楽化することで、環境音と劇伴を調和させるそのサウンドは、たとえば坂本龍一の名声を高めた『ラストエンペラー』(1987年、ベルナルド・ベルトルッチ監督)とは異なる。

そうなった理由はやはり『レヴェナント』における広大な自然と並置されうる音楽を志向したからだろう。

実際、坂本はイニャリトゥの求める音楽についての話を聞いたときに、自然の美しさと厳しさを思い起こしたという(*3)。結果、そのサウンドトラックはたとえば劇中の吹雪や水、焚き火の音響などと並置して違和感がないどころか、まるでそれらの自然音に近似したように聴こえるものになっている。『レヴェナント』は環境音が非常に繊細に、そしてクリアに録られて(つくられて)いる映画なのだが、その劇中の環境音と対応しているかのようにサウンドトラックが響いているのだ。

ドローン〜アンビエント的な、旋律ではなくテクスチャーやスペクトルに重きを置いたサウンドが劇中の環境音と対応関係にあることは『レヴェナント』のサウンドトラックの斬新さを示していると同時に、故ヨハン・ヨハンソンやハンス・ジマーといったハリウッドの映画音楽史を彩る作曲家たちがつくりあげたサウンドトラック群とも共振する点である。

これらの達成を坂本龍一がAlva Noto、ブライス・デスナーとのコラボレーションを通して成し遂げたことは、彼がキャリアを通して多くのコラボレーションを行なってきた「コラボレーションの音楽家」という側面があることを思い起こさせる。そしてそのことがこのサウンドトラックを特別なものにしている。

坂本が言うには、この3人の作曲家が手がけた音楽が重ね合わされ、ひとつの楽曲として使用されている部分もあり、作曲家たち自身も自分がどの部分を作曲したかを見分けるのは難しいパートもあるとのことだ(*4)。このサウンドトラックを坂本龍一が主導していることは間違いないようだが、3人の音楽がサウンドトラックのなかできっちりわかれているというわけではなく、ある側面ではひとつに溶け合っているのが『レヴェナント』の大きな特徴であり、極めて重要な点だといえる(*5、6)。

つまり、この映画における自然と、3人の音楽家の個性が融和しているということ——この「複数性の音楽」とも呼ぶべき音楽のありようは、コラボレーションの音楽家である坂本龍一のキャリアにおいて特異点になったことは間違いないだろう。

“Cat & Mouse”や“Final Fight”のような共作曲(*7)では、オーケストレーション、電子音響〜エレクトロニカが打ちつけるリズムと見事な融合を果たし、このサウンドトラックのハイライトを形成しているが、このようなことが可能になったのは上述したような、単一の欲望に依ることのない3つの個性の出会いがあってのことだ(※)。

『レヴェナント』で大自然と向き合う音楽を創造するために坂本龍一が提示した答えは、それが当時の彼自身の体力的な限界や映画監督の要望という偶発的な要因が絡んでいるものの、「複数性の音楽」としてサウンドトラックをまとめあげることだった。

クラシック〜現代音楽と電子音響〜エレクトロニカを融合させることで、アンビエント〜ドローンのスタイルに近しいサウンドを形づくり、劇中の環境音と共鳴しながら「複数性の音楽」として成立させる。それこそが『レヴェナント』のサウンドトラックのシグネチャーだろう。

自然と音楽の関係性について作曲という実践を通して考え続けた晩年の坂本龍一の音楽が『レヴェナント』でたどり着いたのは、なんとも不思議な場所だった。

彼がつくった音楽は、劇中の環境音と調和し、ほかの作曲家の音楽と融解し、映画監督や音響監督といった音楽家の外部による調停があって成り立ったそんな場所に存在していた。その場所は坂本龍一という人間ひとりを越えた、時間、偶然性、他者との出会いがもたらしたものであり、だからこそ、そこで彼と彼の音楽はうまく自然と向き合えたのかもしれない。

個性を保ちつつもそれがギリギリまで薄れ、自分以外の個と限りなく溶け合った地平で、環境音と見事な調和を果たした音楽は、まるでひとつの自然のようにも映り、それは坂本龍一がその音楽人生の先で比類なき「自然のような音楽」と出会うことができたということを意味しないだろうか。
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