「楽屋に行ったら、女の子がみんな素っ裸」マギー司郎、そこから始まった“僕の手品師人生”

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2024年03月30日 17:00  週刊女性PRIME

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⼿品師・マギー司郎(78)撮影/山田智絵

 黄色いタキシード姿の男性が手に持つのは、白地に赤いしま模様のハンカチ1枚。茨城のお国訛りのどことなく親しみを感じさせるアクセントで、こんなふうにしゃべり出す。

⼿品師・マギー司郎の鉄板ネタ

「縦じまのハンカチがあります。表も裏も縦じまです。この縦じまのハンカチを手の中に入れて、軽くもむんですよ。そうするとこれが一瞬にして、横じまになるんですよ」

 いわゆる“縦じま横じま”と呼ばれるネタだ。

 何がどうなるか、観客はすべてお見通し。でも、同じ芸を何度見ても、そのたびに観客は思わず、反射的に笑ってしまう。

「これで何で笑うのかわからない」と本人は真顔で首をひねるが、作為がないこと、つまりはわざとらしさがないところが、おかしみに連なる。

 男性の名はマギー司郎。今年3月に78歳になったベテラン手品師である。二十歳のころに足を踏み入れたマジックの世界を、長い間ひょうひょうと生き抜いてきた。

「たいしたことはやってないんですよ。世間のゆとりの部分で生かしてもらっているのが芸人。ただただ、笑ってもらうのがうれしいんですよ。

 今78歳でしょう。年取っててよかったなと思いますよ。今ごろ50代だったら、色気とかもあって危なかったかもしれない。今ね、いちばん好きなのが舞台。お金もいただけるし、お客さんが喜んでくれる。こんないいことない。お金を僕にくれる方が『ありがとうございます』って言ってくれるんだから」

 58年間、通算の高座数は本人調べで約2万5000回。「舞台を休んだことは1回もない」という芸人人生をひもとく。

3畳一間にマギー司郎誕生の原点が

 東京・池袋の3畳一間、ガス、トイレ、水道は共同の風呂なしアパート。日当たりは悪くないそこがねぐらだった。

家賃4500円というのは覚えています。昭和30年代の後半。バーやキャバレーで働いていて、給料は月に1万円くらい。晩飯は店で食べさせてもらえたので、食えていましたね」とマギー司郎は、本名・野澤司郎青年の十九、二十歳のころを振り返る。

 その部屋の片隅に、少しずつ、少しずつ積み上がり、気がつくと結構なスペースを占めていたのが手品道具だった。

「仕事は夜だから、昼間、結構暇でしょ。上野の『鈴本演芸場』に足を運んでアダチ龍光先生のマジックを見ていたので、芸事は好きだったんでしょうね。ある日、雑誌に『あなたもマジックを習って、プロのマジシャンになりませんか』っていう日本奇術連盟の広告が載っていて、週に何回かそこに通うようになったんです。今でいうカルチャーセンターですよ。

 若き日のMr.マリックさんや先代の引田天功さんもいましたね。教室に行くとその都度、何か道具を買わされる。積み上がっていくそれらを見ながら、『これでなんか生活をやっていけたらな』って」

 マギー司郎誕生の原点が、ここにあった。

 当時の電話帳には芸能社、今でいうところの芸能プロダクションに近い興行社の連絡先がずらりと掲載されていた。赤電話に10円玉を入れ、司郎青年はダイヤルを回す(当時はプッシュホン登場前)。

 電話口で、茨城アクセントのつたない表現で売り込みをする司郎青年に、東京・巣鴨にあった芸能社が「ネタ見せにいらっしゃい」と言ってくれた。部屋にある手品道具を持ち、ネタ見せに行くと見事合格! チャンスのしっぽをつかんだ。本名はちょっと堅いから、という理由で「ジミー司」という芸名もつけてもらった。

「しばらくしたら電報が来たんです。僕が電話を引いてないので電報。『○月○日から○日まで、どこどこで仕事』という感じで依頼が来ました。

 最初の仕事先は、京浜急行の生麦駅前にあった『生麦ミュージック劇場』。ミュージック劇場だからライブハウスみたいなところかなと思っていたら、駅を降りたら目の前に、色っぽい踊り子のでっかい看板がありました」

 楽屋に通された。夏だった。今のようにエアコンはなく、映画館も出入り口の扉を開けて営業していた時代。

「楽屋に行ったら、女の子がみんな素っ裸。ライブハウスだと思っていたから、ワケがわからない。ストリップ劇場だったんです。そこから僕の、手品師としての人生がね、始まったのね」

ストリップ劇場で過ごした青春時代

 マギー司郎誕生前の修業の場となったストリップ劇場。現在のように、芸能プロダクションが主催するお笑いスクールがなかった時代に、ストリップ劇場はお笑い芸人の供給源のひとつだった。

 あのビートたけしは、漫才コンビ、ツービートとして浅草ロック座で修業を積んだ。渋谷の老舗の道頓堀劇場からは、コント・レオナルドやコント赤信号が誕生した。

「東京のストリップ劇場育ちの芸人はエリート。僕は温泉場の小屋が多かったからね」

 とマギー司郎は謙遜するが、「舞台が気遣いを教えてくれた」と、ストリップ劇場で育ったことに、ほんの少し胸を張り感謝する。

 劇場に足を運ぶ客は男性。目線は、踊り子に注がれる。ショーとショーの合間の20分が、ジミー司の持ち時間だった。1日4ステージ、金曜と土曜は深夜まで営業するため6ステージに増える。終演時間は夜中の3時を過ぎる。時計ではなく、レコードの枚数(シングル1枚が約3分)が時を告げる。踊り子のステージでは大きめの音を、手品のときは下げてもらう。

「最初は、ハンカチを華麗に使ったり、ハトを出したりする派手な手品に憧れていたんですけど、みんなみたいにはできないな、カッコいい手品師にはなれないな、と早めに挫折したのがよかったかなと思いますね」

 派手ではないネタを模索するがそう簡単には見つからず、たまにカードネタなどを試してもまったくウケない日々が続く。

「踊り子さんを見るのがメインで、間の時間つなぎが僕。お客さんの気持ちは痛いほどわかりますから、舞台に出た途端、『すみませんね、20分で終わりますから』って謝るようになりました」という、今に続く登場時の控えめな芸風はこの時期に芽生え、やがて確立することになる。

起こさないようにやる芸

「お客さんは7割方、夜中になると寝ている。だから、起こさないようにやる芸も覚えました。起きている人だけに向けてそっと芸を見せて、持ち時間を使い切る」という気の使いようだ。

 客のことを考え、ある日、舞台に新聞や雑誌を持ち込んだことがあった。

「楽屋にある新聞や雑誌を持っていって、舞台に置いて『読んでいてもいいんですよ』と呼びかけたんです。そうすると、結構取りに来た。演者が言うんだから、とお客さんも気が楽になり堂々と読む。20分の持ち時間を楽に過ごしてほしいという気持ちが、どっかで育ったんだよね」

 ストリップ劇場での仕事は、30歳過ぎまで14年ほど続いた。興行は10日間のときもあれば1週間、5日間とまちまちだったが、先々の仕事が次々に舞い込む。

 当初の日当は1日1000円。ひと月丸々働くと3万円になるから、バーやキャバレーの月給1万円を優に超えた。

 次の仕事先が決まると、片道だけのチケットが送られてくる。その次の仕事場がどこになるのかわからないから、手渡されるのは常に片道切符。

「ときどき仕事が途切れることがあって、そこが地方だったとしたら、東京までは自腹の電車賃で戻らないといけない。あれはキツかったですね」

 というマギー司郎は、ストリップ劇場で現金で受け取ったギャラの中から、契約どおりの仕事の紹介料20%を、旅先の郵便局から現金書留できまじめに芸能社に送った。

「食べ物は楽屋にたくさんあって不自由はしないし、楽屋で寝たり、ステージで寝たりできたので、宿にも困らない。楽しかったですね。女の人ばかりの姉妹の家に、末っ子の自分がひとり交じったという感じ。大家族的な雰囲気でした。

 お産婆さんが来て、踊り子が楽屋で出産することも2度ほど、経験しましたね。生まれると、みんなでワ〜ッて喜んで、フィナーレで踊り子全員がステージに出ると、僕があやしたりしていましたね。中にはヘビを使う踊り子さんもいて、夜中に楽屋で『ヘビが逃げた!』と大騒ぎになったこともありました。ストリップ劇場での暮らしは、僕の青春時代でしたね」

 マギー司郎の代名詞的ネタである“縦じま横じま”も、ストリップ劇場で誕生した。

「最初はね、ハンカチに糸やリールをつけて鮮やかに見せていたり、箱の中にしまうことで変化していると見せかけていましたけど、ある日突然、手のひらの中でいいや、と思って」

 と修業の成果でもなく、稽古のたまものでもなく、発見に近い形で“縦じま横じま”を手に入れたと証言する。

「1日4回もステージをやると感覚がおかしくなるというか、ハイになるというかそんな瞬間があって、神様がふと降りてきてあのネタができあがった感じですよね。コカ・コーラにハンカチをかけてペプシコーラに変わりました、ササニシキにハンカチをかけると、コシヒカリに変わったのわかります?とお客さんに聞いたりしてね。それがウケるようになったんです」

 おしゃべり手品の発芽だ。

 ストリップ劇場にはマイクがなく、それでも80〜100人ぐらい入る客席のいちばん後ろにしゃべりを届かせるために、自然に声も大きくなった。見せるだけのマジックではなく、しゃべりを伴った手品。その芸の面白さが目先が利く興行主の間にも自然に知れわたり、やがて評判がジミー司を次のステージへと押し上げていくことになる。

『スタ誕』出演で弟子入り志願者が

 テレビ出演の話が舞い込んだ。1980年、34歳のときに出演したオーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)。漫才師のB&B、おぼん・こぼん、お笑いコンビのとんねるずなどがグランプリに輝いた同番組で、マギー司郎は7週を勝ち抜いた。8週目に落ちたが、風変わりな芸は視聴者に強烈な印象を残した。

 テレビ番組出演をジミー司にすすめたり、かつてカバン持ちをしたことがあるマギー信沢に弟子入りし、新たな名前をもらうことを進言したのは、アンジャッシュやおぎやはぎらが所属するプロダクション人力舎の創設者、玉川善治さん(2010年6月死去)だった。

「玉川さんが、手品師の伊藤一葉さんのマネージャーをやっていた方を僕につけてくれて、『スタ誕』に出るように段取りしてくれた。最初からウケましたね。今思えば、謝りながら出るでしょう、それが逆に新鮮だったかもしれない。元気よく出る芸人がほとんどですからね。無防備な芸だったのがたまたまよかった」

 と、マギー司郎は振り返り、分析する。以来44年、大ブレイクはしないが、ずっと売れ続けて、老いも若きもその芸を知っている稀有な芸人というポジションをキープしている。

 テレビ出演の影響は大きかった。一番弟子のマギー隆司(71)が弟子入りしたのも、まさに勝ち抜いている最中。当時、東京・麹町にあった日本テレビの社員食堂で弟子入りを志願した。

「師匠がカバン持ちというか弟子を探していると聞いて会いに行きました。師匠は37で、私は29でしたね」

 マギー司郎は弟子を、“くん”づけで呼ぶ。

「隆司くん、僕くらいになれば何とかなるよ。僕が言っていることをまじめにやればやっていけるから、と言われてうれしかったけど、これが難しい」と、当時から師匠の芸はマネのできない領域にあったとマギー隆司は証言する。生活の面倒も事細かに見てくれたという。

「29歳で入りましたけど、アルバイトは一切したことがないです。3年半くらい毎日一緒にいて、ご飯は全部食べさせてくれました。師匠から月に3万円、師匠の事務所からも月に2万円くらいもらっていたので、アパート代2万円は余裕で払えましたね」

 と感謝は尽きない。

 師匠の人間性と芸風については「基本的にはまじめです。謙虚です。世間から見たらボケがかわいく映ると思いますが、本人は一生懸命。それを許してもらっていると認識している。手品の種は、聞けば教えてくれます。

 コカ・コーラをペプシコーラに変えるネタを見たとき、これでいいのかな?と思いつつも、弟子としていつかできるようになるんじゃないかとちょっと勇気づけられましたが、まあ無理。誰でもできるけどウケない」

 と明かす。

テクニックで食えたら誰でも食える

 マギー司郎も「テクニックで食えたら誰でも食えるもんね」と口癖のように漏らす。それはテクニックと道具によって成立するマジックの真意そのものだが、そうは問屋が卸さないのが芸の世界。

「昔お世話になった人に、テクニックは追い抜かれるけど、キャラクターや人柄は追い抜かれない。そこを大事にしたほうがいいね、と言われました。あと芸人は、いくつになってもかわいくないとダメ。嫌われたらダメ。それから時間を守ることも大事」

 と、芸人のあり方を教示されたという。

 特に時間に関してはきっちりしていて、マギー隆司は、「あれは怖かった」と思い出すことがあるという。

「あの調子で静かに話すので怒られている感じはしないんですが、理詰めでくるんです。寝坊したときに、『隆司くん、寝坊はお弟子がしなくてもいいのよ』って優しく言うんです。背筋がヒリリと伸びましたね」

 芸風に関しては、明石家さんまの名前を比較として持ち出し、「さんまさんは自分で考えている天才。うちの師匠は、何もしないけど出たとこ勝負の天才」と絶賛する。「芸人が欲しくても手に入れられない“ふら”(どことなくおかしい様子)。あの“ふら”にかなう人はなかなかいないでしょう」

 三番弟子のマギー審司(50)も、師匠の話し方に言及し「うちの師匠の言葉を、僕らが変換しなきゃいけない。『遅刻しないほうがいいんじゃないの』と言われた弟子の中には『たまには遅刻しても大丈夫かな』と思っちゃう人もいる。僕は変換しながらやってきたと思う」と、正しい受け止め方が弟子として必須科目であることを伝える。

 マギー審司も、小学校高学年のときに見ていた『お笑いスター誕生!!』でマギー司郎という存在を知り、憧れた。

「田舎訛りも温かい感じがして、どんどん引き込まれました。芸というより人柄なんでしょうね。今も、ときどき師匠が、自分のラジオ体操や散歩の動画を送ってきてくれるんですけど、そのたびに、僕は師匠が好きなんだな、マギー司郎のファンなんだなって思いますね。子どものころに見ていたときと同じで、師匠はずっと面白い。『弟子に入ったんだから悪口言わないでよね。僕嫌われたくないんだよね』という口癖も好きだし、否定する部分がまったくない」と、弟子入りして30年たった今も、当初の思いが続く。「両親は亡くなりましたが、師匠は親でもありますしね」としんみり付け加える。

 一度、師匠に愚痴を漏らしたことがあった。

「アルバイトばかりやっていて、これじゃ何で東京に出てきたかわからないって言ったことがあるんです。おそらく、もがいていたというか、焦っていたんでしょうね。そうしたら、いつものトーンで『田舎帰ってもいいんだよ』って言われました。あれは怖かったですね」

 一方で、師匠のちょっとズレたエピソードを次のように伝える。

「昔、2人の女性を同時に好きになったことがあったそうなんです。喫茶店に2人を呼び出して、『両方とも好きだから3人で住みたいんだけど』とあの柔らかいトーンで言ったんですが、もちろん撃沈。2人に断られたそうです。普通ならなかなか言えないですよね。それを言ってしまう師匠のズレた感じというか、それが芸人っぽくて笑ってしまいましたね」

 マギー隆司とマギー審司が口をそろえる驚ろくべきことがある。それは「師匠の家を知らない」「師匠の家に行ったことがない」、師弟関係でそんなことがあるのか!という現実だ。2人とも「だいたいあのへんに住んでいるのかなとは思いますが、行ったことはありません」。

 そのワケを、マギー司郎に尋ねた。

「ストリップ劇場の楽屋で約15年間も寝起きしていたから、僕は布団だけあればよくて、住む家には無頓着だったんです。隆司くんが弟子入りしたときも、4畳半の部屋に住んでいて、師匠と呼ばれるのに、ここに連れてくるのは恥ずかしいなと思ってね。逆に、弟子が師匠の家を知らないっていうのは面白いんじゃないかと思って、以来、誰も連れてきてないんです」

 マギー司郎の事務所オフィス樹木のホームページには、一門の弟子10人の顔写真が掲載されている。その誰もが師匠の自宅を知らないという。

「弟子入り志願を断ることもありますよ。人に対して優しくないとかね。あとは、賢くてできそうな人より、少しどこか物足りないほうがいい。成長が楽しみじゃないですか」

約20年ぶりとなった母との再会

 テレビ出演をきっかけに再会した人物がいる。母親だ。

 マギー司郎は16歳のときに、家出同然で上京した。現金1万円(当時のサラリーマンの2か月分の給料)と衣服、そして大きな布団を背負って、上野駅に降り立った。

「あてはない。無鉄砲でした。普通に教育を受けていたら、当たりをつけてやっていたと思うんですけど、そういう知識もないんです」という行き当たりばったりで始めた東京の暮らし。以来、ふるさとには戻っていなかった。

「35歳のときに『小川宏ショー』に出たんです。それをおふくろが見ていて、知り合いにテレビ局に電話をしてもらった。当時は、取り次いでくれまして、『お母さんから電話がかかってきたよ』って言われましたね」

 白内障を患い、地元の小さな病院に入院していた母を、マギー司郎は尋ねた。約20年ぶりの再会だった。その間、電話をかけたことも、手紙を書いたこともなかった。

「看護師さんに部屋を教えてもらって、スリッパで歩いていって、扉を開けたら『司郎か』って。行くって伝えてないんですよ。それでも足音でわかった。親子として生きるってそういうことかなと思いましたね」

 なぜか、おでこに赤チンをつけていた母の姿を、マギー司郎は鮮明に覚えている。

 封筒に入れた3000円を「小遣いだよ」と渡した。9人きょうだい(マギー司郎さんは7番目)を育てた母に、ちょっとした親孝行ができたと安堵している息子の前で、母親は感謝を伝えながら封筒を開けた。そしてこう、言い放ったという。

「これだけかい?」

「いまだにその意味がわかんないの。もっと頑張れよだったのか、足りないよだったのか」

 謎の言葉として今も、マギー司郎は思い出す。

3年くらい家に帰らず妻と離婚も

 ひと握りの人間しか専業で食べられない手品、マジックの世界。

「テレビで顔が売れたあと、事務所が営業や出演料を値上げしたので、いっとき仕事が減りましたけど、しばらくすると元に戻って、忙しくなりましたね」と売れっ子芸人として顔が知られる過程を味わった30代後半。

「どこかで、その気になっていたんでしょうね。結婚していたんですが、3年くらい家に帰らなかった。麻雀やったり、酒は飲めないけどみんなと騒いだりして、しょうがないですね。結婚は2度したけど、向かない。そういう人がいてもいいでしょ?」

 私生活は多少波乱含みだが、エイジレスな芸は安定的に老若男女に浸透していく。

「『笑点』にいちばんゲスト出演させてもらっているんですよ」とマギー司郎が明かす『笑点』へのゲスト出演率の高さが、国民的人気を示す。

 当時、同番組のディレクターとして働き、現在はプロデューサーを務めるユニオン映画社顧問の飯田達哉氏(72)は、「正確な数字は把握していませんが、出演頻度はナポレオンズさんと双璧だと思います」とし、マギー司郎の魅力を次のように伝える。

「安心感がある。見ている人も、失敗してもまあいいか、という感じになれる。今の芸人のように言葉がキツくなくて、あのイントネーションに引き込まれる。基本的にマジックは、しゃべらないでネタだけをやる芸能でした。ナポレオンズさんとマギーさんが、おしゃべりマジックというジャンルを開拓した功労者だと思いますよ」

 誰もが知るネタ“縦じま横じま”については、「あれは“間”ですよね」と指摘。「手品なのかどうかは別として、マギーさんにしかできないネタ。これからも今のまま、ひょうひょうとやってくれるのがいちばん。突然イリュージョンとかやられたら笑っちゃいますけど」と、さらなる息の長さに期待する。

 3月17日、マギー司郎は78歳になった。

「最近、終活の取材を受けることもあるんだけど、死ぬ気配がないんですよ。僕ぐらいの年になると身体のどこかが悪いもんですけど、循環器の先生にこの前も調べてもらったんだけど、全然悪くない。老衰しかないなって」

 毎晩11時には寝て、5時ごろに目覚める。何もないと二度寝するか、天気がいいと2時間ぐらい散歩に出るという健康体。食事は自分で鮭を焼いたり、野菜たっぷりの豚汁を作ったり、近くのなじみの喫茶店で作ってもらったりしていただく。

「酒は飲んでもコップ1杯ぐらいですね。昔はね、楽屋で芸人が飲んでいたの。出番と出番の間に飲んで、体調崩して早死にする。芸人って朝から夜までずっと飲めるんですよ。楽屋で飲んでいる芸人を見て、こうしちゃいけないと教わったんでしょうね」

 散髪は週に1度。芸人としての気遣いも忘れない。

「仕事にあやかりたいので、少しでも年より、若く見られたらいいなと思って」

 着るものもとても70代には思えないほど若々しい。道具に感謝するために、よく触る。

「僕は好き放題に生きてきちゃったの。よく大コケしなかった、人生終わんなかったなと思う。運がいいだけなんですよ。ストリップ劇場の楽屋で育って、これで一生が終われたら、こんな幸せはないじゃん」

 そう達観しながらも、仕事の依頼があれば全国どこへでも、弟子を連れて、大きなキャリーバッグ2個に、20〜30のネタを入れて向かう現役感は健在だ。

 大人から子どもまでを引きつける芸風が、地方のイベンターやホテルの営業担当者から「マギーさんの芸はテッパンだから」と重宝がられる。

 子どものころ、地元にやって来たチンドン屋のあとを何時間も追いかけまわし、「大きくなったらチンドン屋になりたい」と漠然と思った子どもは、年を重ねた今、子どもらも夢中にさせる芸を披露する芸人になった。

「心は芸に映るよ」と弟子には伝え、自分にもそう言い聞かせ、決して偉ぶらない。

「正直まだ、欲があるんです。笑わせたい、笑ってもらいたいという欲がある。もう、これ以上にうまくなりたいとかは思わない。テクニックは落ちるし、忘れっぽくもなるでしょ。

 今78歳ですから、85歳ぐらいになると、もうちょっと面白くなれるかと思うの。落語家の古今亭志ん生師匠みたいに、咳き込んだりするだけで喜んでもらえたら最高じゃない。そこから徐々にフェードアウトするのが理想です」

取材・文/渡邉寧久

わたなべ・ねいきゅう 演芸評論家兼エンタメライター。夕刊フジ、東京新聞等にコラム連載中。文化庁芸術選奨、浅草芸能大賞選考委員等歴任。江戸まちたいとう芸楽祭実行委員長。

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