Adoの国立競技場ライブに批判殺到。「顔出しNGでのライブ」にそもそも無理はないのか

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2024年05月01日 09:10  女子SPA!

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女子SPA!

(画像:Ado公式Xプロフィールより)
 Adoの国立競技場ライブ「心臓」(4月27、28日開催)が騒動になっています。参加した人たちが、“音響がひどい”とか”歌が聞こえなかった”と訴えているのです。

◆「音が貧相だった」批判の声。本人Xでコメント

 その多くは、「観客の手拍子で歌や演奏が聞こえなくなるほど音が貧相だった」とか「歌が聞こえないのはおろか、ドローンや花火などの演出さえ見えない席があった」と、ライブ全体への不満の声でした。

 また、「かつて近隣の億ション住民から騒音の苦情もあったことから近隣住民への騒音対策もあって機材を十分に使えなかったのではないか」とか「会場の規模に見合ったシステムを組まなかった過失」、さらには「国立競技場自体がコンサートに向いていない」といったコメントもありました。

 こうした批判を受け、Adoも反応。自身のXアカウントで「私達も、初めての場所、初めての環境下の中での(筆者註・原文ママ)制作でした。それを楽しみにきてくださったお客様の皆さまのお言葉、嬉しいこと、喜ばしいこと、勉強、糧にしなければいけないこと、しかと受け止めて、今後に活かしていただければと思います。(筆者註・原文ママ)」と、“反省の弁”を述べました。

◆コンサート目的ではない大会場では“聴いた”より“目撃した”

 筆者は現地にいなかったので詳細はわかりませんが、コンサート開催を主目的に設計されていない大きな会場では、多かれ少なかれ音はぼやけるものだと痛感しています。

 1998年に東京ドームで行われたローリング・ストーンズ、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルのジョイントライブは、いずれも音が遅れて聞こえてきました。遅れるだけでなく、残響が回収されないまま積み重なっていくので、ごわごわとうねった大音量しか残らないのですね。

 当然、曲や演奏の全体像は把握できませんでした。日本武道館ぐらいのサイズだと多少ましになりますが、それでも“聴いた”という満足感は得られにくい。

 そう考えると、大きな箱でのライブはこれとトレードオフで“その場にいて目撃した”という満足感を観客のお土産にしてもらうために行われると言っても過言ではありません。

 Adoのライブに参戦した人たちもそれぐらいは理解していたでしょうから、それでも見過ごせないほどにひどかったのだろうと想像できます。

 では、今回のライブは本当に会場だけの問題、また音響システムの設定、見通しのミスだけの話なのでしょうか? 別の視点から考えてみたいと思います。

◆Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか

 そもそも、Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか、という問題です。

 まず、曲。大ヒットした「唱」をひとつとっても、一曲の中でいくつもの急展開があり、そこに多くの楽器、効果音が使われ、細かなフレーズが入り組んでいる。ヘッドフォンで聴いたとしても、一度で全てを追いきれないほどの情報量がある楽曲です。

 これを大きな会場、しかも屋外で再現することを考えると、かなり厳しいと言わざるを得ません。

 そこで、やむを得ない音質の乏しさを補うために、ステージの演出やAdo自身のレア感が重要になってくるわけですが、ここで新たな問題が出てきます。顔や姿を出さず、シルエットだけのキャラクターに、どれだけ没入できるかという問題です。

 たとえば、テイラー・スウィフトやビヨンセのライブを観に行って、最高級の音質を楽しみたいという人は稀でしょう。(なかにはうるさ型のマニアもいるかもしれませんが)やはり、彼女たちが発するオーラを体感したい、観客にそう感じさせるのがアーティストでありスターなのですね。

 Adoはそのオーラを“圧倒的な歌唱力”という触れ込みで漂(ただよ)わせる戦略なのですが、今回のライブでは肝心要(かんじんかなめ)の音響でつまづいてしまいました。唯一にして最大の武器を潰してしまったわけですね。

 もちろん、国立競技場自体の音響の悪さ、また騒音対策で望んだ音量を出せなかったなどの不利な条件はあったのかもしれません。

 しかし、本当にそうした不運だけで片付けてもいいのか?

◆ライブでなければならない理由を見出すのが難しい

 ニュースなどの映像を見ると、国立競技場でのライブと「紅白歌合戦」(NHK 2023年)での東本願寺の能舞台での演出に大きな違いはありませんでした。ライティングやアニメーションとコントラストを成すAdoの黒い影という構図はそのままで、MVに合わせて人形が歌っているだけのように見えました。

 厳しい言い方をすれば、これはスマホ画面を拡大しただけの世界観なのではないか。

 歌の迫力が担保されないのなら、これがライブでなければならない理由を見出すのが難しいのではないかと感じます。

 クオリティが低いと言いたいのではありません。ただ、Adoの楽曲、ビジュアル展開が、ストリーミングや動画視聴に特化した狭い範囲のクリエイティブなのではないか、ということです。

 確かに、素性を明かさず、影が踊り狂い、身体を捻(ね)じ曲げ、床に突っ伏して絶唱する光景には大きなインパクトがありました。けれども、その衝撃は瞬間最大風速的なものであり、物珍しさは次第に薄れていきます。

◆顔、姿、素性もわからない人の“ライブ”が意味するものは?

 では、急速に消費される珍奇さに勝る歌、そして時の流れに耐えうる楽曲がAdoにあるのか? これまた難しいところです。

 そもそも、顔、姿、素性もわからない人の“ライブ”とは、一体何を意味するのか。

 アーティストAdoにとって唯一のパーソナリティと言える歌声。それが崩壊した今回の一件は、このプレゼンテーション自体に持続可能性はあるのかを問うているのだと感じました。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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