『光る君へ』道長・柄本佑の“役職と躍進”、そして道兼・玉置玲央は“気配り”の人

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2024年05月12日 15:01  日刊サイゾー

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藤原道長を演じる柄本佑

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回(第18回)の『光る君へ』は「岐路」というタイトル通り、さまざまな登場人物の人生の分岐点が描かれました。特に道長(柄本佑さん)と彼のきょうだいたちの運命は、明暗がはっきり分かれましたので、今回はそういう話をしたいと思います。

 ドラマの道長は、流行り病で瀕死の次兄・道兼(玉置玲央さん)ともお別れの熱いハグを交わしたりする相変わらずの「いい人」で、権力欲とは無縁なのに、わが子・一条天皇(塩野瑛久さん)の寝所にまで押し入って直訴嘆願した姉・詮子(吉田羊さん)の暗躍によって右大臣という高い地位が約束されるという描かれ方でした。

 のちの道長は公卿の筆頭格である左大臣に昇格し、「一上左大臣(いちのかみさだいじん)」と呼ばれました。「一上」とは「一ノ上卿(いちのしょうけい)」の略で、「帝の第一の臣」というような意味です。左大臣と同義なのですが、道長の場合はそれらを重ねて書くことで、通常の左大臣よりもさらに権勢が上だったという含みを持たせているのでしょう。

 ドラマの道長が関白にならなかった/なれなかったのは、一条天皇が最愛の中宮・定子(高畑充希さん)に対し、彼女の兄の伊周(三浦翔平さん)を関白に任命できなかったことへの「配慮」という描かれ方でもあったと思います。しかし、史実の藤原道長はおそらく戦略的理由によって、生涯一度たりとも関白に就いたことはありませんでした。道長には「御堂関白(みどうかんぱく)」という呼称まであるのですが、一度も関白にならず、しかし関白以上の権勢を振るい続けたのですね。そして、史実の道長が関白にならなかった/なれなかったのは、ドラマのように権力欲が薄かったのではまったくなく、むしろその真逆といえる理由でした。

 一条天皇が中宮・定子より、母・詮子に説き伏せられてしまったので、道長を伊周よりも上位にするという取り決めがなされた時点はともかく、その後の道長も天皇の相談役にあたる関白職に就かなかったのは、政策や人事を決定するいわゆる「公卿会議」での発言権を失わないためだったと考えられています。関白、あるいは摂政といった臣下における最高職に就いてしまうと、会議に出席する権利を失ってしまうからですね。そういう重要な仕事ほど部下には任せず、自分の手で取り仕切りたいというのが道長という御仁だったわけです。

 また実は、摂政・関白といった(そして実は征夷大将軍などもそうなのですが)、日本史を牽引する印象が強い役職ほど、現在における各種の法律に相当した「律令」には記載がない「令外官(りょうげのかん)」というもので、法的に「この職についている人物は、こういう存在で、こういう権限があるよ」という具体的な根拠がない役職だったことには留意しましょう。

 名実ともに最高権力者になるための階段を一段一段、上っている最中の道長は、いわば曖昧に「偉い人」というだけの名誉職的なポジションを与えてもらうより、具体的に何が許され、何が許されていないか、法的根拠がある中で辣腕を振るうことを好みました。要するに「あいつは法をねじまげて、こういう暴挙をしでかした」といわれることを、少なくとも政治的には防ごうとしていたということでしょう。まぁ、私生活では道長はメインの屋敷・土御門第の広い庭を整備するために、平安京内の公の建物の礎石を配下の手で奪って来させたり、やりたい放題だったのですが……。

 道長は関白にはなりませんでしたが、自分の(外)孫が、後一条天皇に即位すると、摂政に就任していますね。摂政とは幼少の天皇に代わって政治を摂る役職ですが、「公卿会議」には出席できません。この頃にはすでに道長に対抗し得る政治的なライバルは誰もいなくなっていたので、ついに道長も「名誉職的なポジションに就いてもよいか」という判断をしたということですね。

 そういう道長の出世栄達の足がかりになったのが、一条天皇時代に伊周より上位のポジションを得たという事実だったのです。ドラマでは一条天皇の寝所に(道長の姉でもある)詮子が母親の特権で押し入り、涙ながらに切々と伊周ではなく道長を関白にするように説いて聞かせていました。吉田羊さんの熱演が光ったシーンでしたが、これは『大鏡』にも実際に見られる場面です。

『大鏡』でも詮子はドラマ同様、涙ながらの大演説をしたとあり、ついに天皇を説き伏せることに成功すると、自ら天皇の寝室の扉を押し開いて外に出て、側でドキドキしながら控えていた道長に向かって、赤らんだ頬には涙の筋を残しながらも「御口はこころよく笑ませ給ひ」――口元だけは気分よく、にっこりして見せたとあります。詮子は本当に癖と押しの強い女性でした。

 道長にとって、詮子は大の恩人ですから、彼女に先立たれるとその葬儀を取り仕切るだけでなく、遺骨を首にかけたとも『大鏡』にはありますね。史実ではお互いに野心家だった姉と弟は本当に仲が良かったようです。

 今回は政治というか、平安時代の宮中の濃い人間ドラマについてお話してきましたが、文化的な方面にも触れておきましょう。前回は藤原道兼が急逝しましたが、彼が晩年には和歌に傾倒していたという次回予告後の「紀行」で触れられ、それが気になったという読者も多いでしょう。

 ドラマではあまり彼の風流な側面については触れられてきませんでしたが、生前の彼は「粟田殿」とも呼ばれ、実際に京都・東山地区の粟田山に山荘(通称・粟田山荘)を作らせ、そこで和歌の会を頻繁に開いていたことが知られています。道兼の和歌は、一条天皇の治世に編まれた勅撰和歌集『拾遺和歌集』、さらに鎌倉時代に編まれた『続古今和歌集』に一首ずつ選ばれているだけなのですが……。

 それでも注目したいのは、花山天皇(ドラマでは本郷奏多さん)を騙して出家させてしまった張本人の道兼が、花山天皇にゆかりの深い歌人たちとはその後も交流を続け、自身の粟田山荘にも招待していたという事実です(徳植俊之氏の論文『藤原道兼とその周辺――『拾遺和歌集』前夜における歌人の動静をめぐって』より)。

 ドラマでも故・道隆(井浦新さん)が開催した「漢詩の会」が描かれていましたが、平安時代において、政治と詩歌の会などの芸術イベントには密接な関係がありました。しかし同時に、政治的立場を超えて芸術を通じ親睦を深める機会も、そうした場にはあったわけですね。

 史実の道兼に紫式部(ドラマでは吉高由里子さん)の母親を殺したという「罪」はないわけですが、藤原兼家(ドラマでは段田安則さん)の息子として、一族のため、花山天皇を騙して退位させるという汚れ仕事を引き受けたのは事実です。それなのに自分を後継者(関白)に選ばなかった父・兼家に道兼が激怒していたという話は『大鏡』にも見られます。しかし史実の道兼は、そうした『大鏡』などの歴史物語や、ドラマに描かれていた以上に「気配りの人」であって、花山院退位事件で不遇を見た人々の恨みをなんとか解消しようと努めていたのでしょうか。それが道兼の和歌への傾倒の内実だったのかもしれません。

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