《追悼秘話》「ロビーでの夫婦会議が名物」中尾彬さんの“ねじねじ”ではない真っすぐな生き方

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2024年05月28日 17:00  週刊女性PRIME

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週刊女性PRIME

中尾彬さん

 突然の訃報に驚きが広がった。5月16日に中尾彬さんが心不全で逝去。81歳だった。

「最近ではバラエティー番組での活躍が目立っていましたね。ストールを巻いて下ろす“ねじねじ”がトレードマークでした。

 1962年に日活ニューフェイスとしてデビュー。色気のある二枚目俳優として、現代劇から時代劇まで幅広い役をこなしました。美術大学出身でアートに造詣が深く、料理も得意。器用で好奇心旺盛な趣味人でした」(スポーツ紙記者、以下同)

マンションの名物だった“夫婦会議”

 若いころは何人もの女優と浮名を流し、プレイボーイとして知られていた。

「1970年に一度目の結婚をして子どもが生まれますが、中尾さんは家庭に落ち着かず別居。離婚調停中に池波志乃さんと出会います。再婚すると人が変わったように愛妻家に。芸能界きってのおしどり夫婦と呼ばれるようになりました。

 ただ、多額の慰謝料と養育費を払ったせいで借金を抱えた中尾さんを、しっかり者の志乃さんが支えましたから、頭が上がらない。感謝の気持ちが強かったでしょうね

 池波の父は金原亭馬生で、古今亭志ん生が祖父。

結婚すると、東京の谷中にある一軒家で暮らすように。2005年にタワーマンションに引っ越しますが、やはり同じ下町エリアでした。伝統と文化を味わえる場所から離れたくなかったのでしょう。沖縄にもマンションを持っていて、2つの家を行き来する生活でした」

 2012年からは夫婦で終活を始め、断捨離の一環で沖縄のマンションは売却。下町のタワマンで、ゆったりとした暮らしを楽しんでいたようだ。

「夫婦そろって外食がお好きでした。夕方になると、マンションのロビーで夕ご飯はどこに食べに行くか、お店を決める“夫婦会議”が名物になっていました。

 中尾さんは自分からは行きたい店を言わない。志乃さんにいくつかの行きたい店を言わせたうえで、そのときの自分の気分に合った店に向かう。きっと志乃さんが行きたくない店に無理やり付き合わせるのが嫌だったのでしょう」(マンションの住人)

 コロナ禍では、家で妻の“志乃メニュー”を堪能していたが、最近は夫婦であちこちに出かけるようになっていた。

「いつも気さくな人でした。マンションのコンシェルジュは、中尾さんのプライベートを守るために“あんまり気軽に話しかけないで”と言っていたのですが、エレベーターで中尾さんと一緒になると、向こうから“今日は風が強いですねー”なんて声をかけてくれました」(別の住人、以下同)

 芸能人ぶらず、いつも自然に振る舞っていた。

半年くらい前かな。数人でエレベーターに乗るとき、中尾さんが乗り遅れちゃったんです。それで、慌てて乗り込んできたと思ったら“ゴン!”って大きな音がして。中尾さんのお腹がエレベーターのドアに挟まったんです。みんな大爆笑で、本人も“おっきなお腹が挟まっちゃったよー”って(笑)

 3月ごろからは外出の回数が減っていた。それでも5月の連休明けに中尾さんを見かけたマンションの住人がいた。

2週間ほど前、ロビーでいつもの声が聞こえてきて、変わらず元気そうに見えました。若い女性と座って話していましたよ。女性は資料を広げて何かの説明をしていたから、保険の外交員かな?と思いました。ご自分の終活をしていたのかもしれませんね

行きつけの寿司店の暖簾をデザイン

 浅草にある創業158年の老舗『弁天山美家古寿司』には、夫婦で訪れていた。

「馬生さんとは家族のようなお付き合い。志乃さんは小学生のころから通ってくれていました。中尾さんは志乃さんと結婚してから46年間、馬生さんが亡くなってからは毎月通ってくれました。港町の出身だけに魚には詳しかったですね。いつもコハダ、アナゴ、マグロのヅケを食べていました。店内の暖簾は1年で12種、毎月、中尾さんがデザインをしてくれました。私の父と妻の共著の表紙もデザインしてくれて、私の名刺も中尾さんが毛筆で書いてくれました」(親方の内田正さん、以下同)

 最後の来店は、今年1月だったという。

「そのときは、いつものようにお酒も飲んでいました。2月20日にも夫婦で予約が入っていたのですが、中尾さんから調子が悪いからってキャンセルの連絡がありました。過去に一度、倒れていたから、心配していました。

 それっきりとなってしまいましたから、予兆はあったのかもしれませんね。もう来ていただけないのかと思うと寂しいです」

 2006年から2007年にかけて、夫婦が共に体調を崩して入院し、終活を始めるきっかけに。悔いを残さないためにも、気遣いを大切にしていた。

 荒川区の日暮里駅に近い佃煮の老舗『中野屋』の店主は、こう振り返る。

「うちは創業101年。志乃さんのご実家から近くて、志ん生さんや馬生さんからの付き合い。中尾さんは、よく“鰻の佃煮”をご自分用に買って、ギフト用にも使っていただきました。とんねるずの“食わず嫌い王”でも中尾さんに紹介していただいたら、注文が半年先までいっぱいになりました

“ねじねじ”ではない真っすぐな生き方

 谷中の居酒屋『鳥よし』には、毎晩のように通っていた。店主が明かす。

「ご自宅から近かったので、中尾さんはTシャツに短パン姿。夜11時になると近所の仲間と集まって、朝の新聞配達が来る時間までいましたよ。

 中尾さんが飼っているチワワが、ウチの“つくね”が好物で、連れていけって中尾さんの脚を噛むから来たって(笑)。志乃さんは“横綱”と自称するくらい大酒飲みだけど、中尾さんはビールと酎ハイをたしなむ程度でした」

 江守徹松嶋菜々子を伴って来店したことも。店主とは家族ぐるみの付き合いだった。

「沖縄のマンションに連れていってくれました。海が一望できる素晴らしい景色でしたよ。ラジオ番組に出ているうちに沖縄が気に入ったみたい。沖縄にも飲食店で働く若い友人がたくさんいましたよ」(『鳥よし』の店主、以下同)

 立川談志さんを連れてきて、どんちゃん騒ぎをしたこともあったという。

「志乃さんのお母さんを連れてきたこともありました。タワマンに移ったときは、3人で暮らしていましたね。部屋からはスカイツリーや上野恩賜公園、不忍池が一望できて、中尾さんは気に入っていたけれども、風向きによっては動物園のほうから臭いが漂ってきて困るって(笑)。あのときの仲間はみんな亡くなり、中尾さんも逝ってしまって、寂しくなります」

 神田神保町の老舗中華料理店『揚子江菜館』にも長く通っていた。

40年以上、2か月に1回は通っていただきました。昭和8年から出している“元祖冷やし中華”がお好きで。季節柄、そろそろ来店されるのではと従業員と話していたので、とても残念です。とにかく謙虚な人で、席が空いていても奥の狭いテーブル席に座る。“自分なんかより、ほかのお客さんをかまってあげて”が口グセ。ドラマの打ち上げでも使ってくれました」(店長の沈松偉さん)

 中尾さんを知る人は、誰もがその謙虚でおおらかな人柄を語る。“ねじねじ”どころか、ひたすらに真っすぐで義理堅い生き方を貫いた。

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