坂本龍一 追悼連載vol.15:音楽と社会運動の狭間で——『out of noise』というラディカルな転換点

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2024年05月29日 19:10  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 高橋健太郎

坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)。

第15回の書き手は、「社会運動家としての坂本龍一」とも近しい距離にあった音楽評論家、高橋健太郎。自ら取材した『out of noise』(2009年)を取り上げ、坂本自身が「ノイズというか楽音でない響きから、一歩だけ音楽の方へと寄った感じ」(*1)と語った本作の背後にあるもの、ラディカルに変化を遂げた音楽性について論じる。

坂本龍一の残した音楽作品は膨大で、幅広いジャンルにも及ぶ。没後に人から示唆されて、こんな仕事もしていたのだと知るものも多い。圧倒的な才覚を持つ音楽家だったとあらためて思う。だが、坂本龍一という人は自身が備える音楽的な能力に対して、ある種の畏れを抱えていたのではないだろうか。そんなふうに思えるところもある。

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.
1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。

坂本龍一は社会運動に積極的だったことでも知られる。とりわけ、21世紀になってからの坂本龍一は現代社会や地球環境への強い危機意識の発信者になった(*2)。筆者は1980年代から教授とは音楽雑誌の取材などで顔を合わせていたが、個人的に近しくなったのは2000年代の社会運動を通じてだった。

2006年のPSE法施行に関連する問題(*3)でメールのやりとりをしたのをきっかけに、以後、六ヶ所村の核燃料再処理施設の危険性を訴える「STOP ROKKASHO」(2006年)や新潟県中越沖地震で損傷した柏崎刈羽原発の再稼働に反対した「おやすみなさい柏崎刈羽原発プロジェクト」(2007年)など(*4、5)で、ともに行動した。後者は筆者が発案したものだが、それに教授が「やろう」の一言を発してはじまった。

こうした社会運動と坂本龍一の音楽活動のあいだには一定の距離が置かれていたと思う。地雷除去を求めた「Zero Landmine」(2001年、*6)や「STOP ROKKASHO」に関連したいくつかの曲などを例外とすると、自身の作品に直接的なメッセージをこめることは避けていた、というよりは、それは教授の肌にはあわないことだったように思われる。

とはいえ、現代社会や地球環境への強い危機感は作品に表出しないはずもなかった。それがもっともストレートなかたちで見てとれたのは、デヴィッド・シルヴィアンとのコラボレーションによる“World Citizen”を中心に置いた2004年のソロアルバム『CHASM』だろう。

“War & Peace”“only love can conquer hate”といった曲のタイトルにも、坂本龍一の個人としての関心が反映されていた。だが結果的には、数多くのゲストを迎えたこのアルバムが、坂本龍一が「ポップミュージックのフォーマット」を意識して制作した最後のソロアルバムになる。

『CHASM』から5年後のオリジナルソロアルバムとなったのが2009年の『out of noise』だった。そのあいだに『CHASM』の延長線上にあるような作品も構想されたようだが(*7)、世に出ることはなかった。以後、坂本龍一のソロアルバムにドラムビートが聴こえることはなくなったし、シンガーやラッパーとのコラボレーションもなくなった。そういう転換期の作品が『out of noise』だったと、いまは振り返ることができる。

音数は削ぎ落とされ、曲ごとに数少ない楽器だけが使われる。ビートを刻むようなパルス音はどこにもない。実はエレクトリックギターが使われている曲が多いのだが(※)、そうは聴こえない。エレクトリックギターの音もアタックが削られ、ディケイ(減衰)部と余韻だけを使っていることが多いからだ。

ピアノ演奏にディレイが加わり、モアレ状になっていく1曲目の“hibari”(※1)も、ビオルだけのアンサンブルによる2曲目の“hwit”(※2)も、シンプルなメロディーが延々と繰り返される。繰り返しのなかでのささやかな変化が染み入ってくるような曲だ。この冒頭2曲はまだメロディックだが、アルバムが進むにつれて、曲は抽象性を増していき、配置された楽器音と自然音、あるいはそのどちらともつかないようなノイズのうつろいに耳を澄ますような体験が導かれていく。

ミニマル、アンビエントといった言葉でも形容できるかもしれないし、クリスチャン・フェネスやAlva Notoとのコラボレーションを重ねた影響が色濃く表れたアルバムとも言えるだろう(※)。手法的には現代の音楽界において、特に目新しいものではないと思う。だが、遺作となった『12』(2023年)までの流れを考えると、このアルバムでの変化、というよりは教授が捨てたものの大きさに思い至る。

本作は『CHASM』以上に人類が築き上げた文明社会への強い危機感を底に置いた作品だったのではないか。そういう確信も生まれる。

坂本龍一はアカデミックな素養を備えつつ、それを芸術音楽ではなく、ポップミュージックのデザインに応用する能力に富んでいた(※)。音を操って人々の情動をコントロールする力を彼は備えていたし、そのことに自覚的でもあったはずだ。だが、彼のそんな力もまた、西洋近代以後の文明が生み出した力であった。

『out of noise』以降の坂本龍一のソロ作品が、ポップミュージックのフォーマットと距離を置いた理由は、大衆扇動を可能とする自身の音楽能力もまた地球環境の脅威となりうる、人間の生み出した文明の一部であるという自覚ゆえだったのではないだろうか(*8)。そう思うのは、筆者がその制作時期に、社会運動家としての坂本龍一とコミュニケーションを持っていたからかもしれないが。

映画音楽作家としての坂本龍一は、その後も作曲家として、編曲家として、音を操って人々の情動をコントロールする力を発揮したが、彼自身のソロ作品はその力をあえて忌避し、封印するような方向へと向かった。

『CHASM』にあったような戦略性は捨て去られ、音楽を「音楽らしく」練り上げることよりも、彼自身が聴きたい音を選び抜き、配置し、その響きに耳を澄ませる。そういう作業を創作の中心に置くようになった(*9)。『out of noise』の後半に置かれた北極圏でのフィールド録音を使った3曲(※)は、まさしく、そういう作風の極北まで到達したものに思える。北極圏は教授にとっての「ポイント・オブ・ノー・リターン」だったのかもしれない。

大自然への畏れと人間文明への畏れ、ひいては自分自身への畏れ。それらが坂本龍一の音楽を寡黙なものにした。が、饒舌な音楽技法を駆使せずとも、ハーモニーや音色への皮膚感覚は失われることはなかったし、むしろ、親しみやすいかたちでそれが表出して、あらたな大衆性をも獲得したのが晩年の教授だったように思われる。

『out of noise』はタイトルやアートワークからは難解そうに思えなくないが、実は坂本龍一作品のなかでも耳に優しい肌合いを持つ。これはこの原稿のために何枚ものソロアルバムを聴き返すなかで感じたことだった。それも個人として聴きたい音を研ぎ澄ませた、そんなアルバムだったからではないかと思う。
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