『光る君へ』伊周・三浦翔平の命運、そして定子と清少納言の今後と『枕草子』“本当の”解釈

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2024年06月02日 15:01  日刊サイゾー

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まひろを演じる吉高由里子

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』、前回(第21回)の放送では、まひろ(吉高由里子さん)と父・為時(岸谷五朗さん)が越前国に旅立っていきましたが、それ以上に「中関白家」が悲惨なことになっていたのが印象的でした。前回のコラムでは「伊周(三浦翔平さん)も逃げ惑うのに疲れ、検非違使(現代の警察に相当)のもとに出頭し、太宰府(現在の福岡県)に流されることになりました」とだけ記し、伊周の都落ちについては短くまとめましたが、本当はかなりの愁嘆場がありました。今回はそのあたりと、『枕草子』についてお話しましょう。

 ドラマでは「亡き父に誓ったのだ。私が我が家を守ると」と抵抗する伊周に向け、母親の高階貴子(板谷由夏さん)が「もうよい。母も共に参るゆえ」と諦めさせ、太宰府まで手車に同乗していたところ検非違使や、その長官である藤原実資(秋山竜次さん)、そして道長(柄本佑さん)たちが現れ、「母の同行はまかりならぬ」と息子と母親を引き離す場面が描かれました。

 道長の日記『御堂関白記』には、さすがに自分が追い落とした親戚の悲嘆を描くのは気が進まなかったのか、この部分の記述が存在していません。しかし、実資の日記『小右記』には細かく伊周や貴子の動向が記されています。それによると、なかなか京都から太宰府に向かおうとせず、逃げ惑うことを繰り返したとあります。伊周は自身や母親の病を下向できない理由として振りかざしていました。当時は「出家すると病気が治る」と考えられ、ドラマの伊周は出家したフリでしたが、史実の伊周は本当に出家したようです。つまり、それほど自分は「本当に重病だ」と主張していたのです。

 一条天皇(塩野瑛久さん)の中宮(正室)である定子(高畑充希さん)の私邸・二条北宮(『枕草子』では「二条の宮」)は、当時では一種の治外法権が確立された場所でした。しかしその「ルール」を、花山院(本郷奏多さん)を襲撃したことなどの罪に問われ、地方への降格人事という名目での流罪を命じられた伊周・隆家(竜星涼さん)兄弟が悪用し、検非違使の手を逃れるため、定子の二条北宮に潜伏したことは、これまでもお話したとおりです。

 比較的早期に諦め、地方に下向していった隆家に比べ、伊周は妹・定子の夫、つまり「身内」にあたる天皇に同情されようと、粘りに粘った挙げ句、よけいに天皇や世間から軽蔑されてしまったのでした。先述のとおり、重病を理由に太宰府へは下向できないと言い出した伊周ですが、自分の母・貴子も病気だから、共に下向したいと一条天皇に申し出た記録が実資の日記『小右記』には本当に見られます(長徳2年(996年)5月4日条)。

 その翌日の5月5日、伊周が母親連れで二条北宮を出ていったと思ったら、現在の京都市西京区の大原野石作町あたりの山中にあったと考えられる「石作寺(いしづくりでら)」で彼らが発見され、そこに検非違使たちが現れて一条天皇による「母氏不可」――つまり高階貴子を太宰府まで連れて行くことは許さないという勅命を伝え、母子を引き離したのでした。

 ドラマの貴子は病ではなさそうですが、同時代の記録で見る貴子は重い病だったようです。伊周は母親のことが本当に気がかりだったようですね。一条天皇もさすがに慈悲をかけ、伊周が病気を理由に任国・太宰府ではなく、播磨国(現在の兵庫県西南部)に逗留することを許しています。前回も少しお話しましたが、本来なら「出雲権守」として任国・出雲(現在の島根県)に下向させたはずの伊周の弟・隆家についても、但馬国(現在の兵庫県北部)に滞在することを認めましたが、こうした背景があったがゆえの話でした。

 ドラマでも定子の二条北宮が燃上するシーンがありましたが、実際にこの年(長徳2年)の6月8日、二条北宮は(おそらく付け火によって)焼亡しており、救出された定子は懐妊中の身であるにもかかわらず、母方の縁故にあたる高階成忠(定子の祖父)、高階明順(定子の叔父)たちの邸や、かつて世話になった役人の平惟仲(ドラマでは佐古井隆之さん)の邸などを(厄介払いされるように)転々とせざるを得なくなったのでした。こうした一幕は、定子にまつわるネガティブな記述を省略しがちな『枕草子』にも少し描かれていますね。

 そうした中、伊周、定子たちの母・貴子の病は重くなる一方でした。伊周は母親の病状悪化を理由に、この年(長徳2年)の10月、ひそかに播磨国から上京し、またもや定子のもとに潜伏しました。これが密告によって判明し、10月10日、激怒した一条天皇の勅命により、伊周は太宰府まで送られたのです。

 余談ですが、前回のドラマの伊周には諦めの悪さに加え、重度のマザコン属性まで発現していましたね。「マザコン男」とは、大石静先生にとっては男性をもっとも格好悪く、情けなく見せうる要素なのだろうか……と思って見ていました。

 こういう悲惨な日々の中で、史実でも『枕草子』の執筆は開始されたとされます。ドラマでは御所が火事で焼け、抑うつ状態の定子を慰めるため、まひろのアドバイスを受けた清少納言(ファーストサマーウイカさん)が『枕草子』の執筆を始め、文学の力によって定子の心が慰められるという描かれ方でしたね。

『枕草子』には「長徳の変」以前の中宮定子の栄華の日々も記されているのですが、定子の没落が決定した長徳2年(996年)頃から、寛弘5年(1008年)頃にかけて成立したと考えられています。

 ドラマにも少し出てきましたが、内大臣時代の伊周が一条天皇と定子に見事な料紙を献上し、天皇はこれに司馬遷の歴史書『史記』を書き写すと言ったのに対し、定子は清少納言に「何を書いたらよいか」と質問したので、清少納言は「枕にこそは侍(はべ)らめ」と回答した……というのは実際に『枕草子』の「跋文」(ばつぶん、現在のあとがきに相当)に出てくるやり取りです。

 しかし、この「枕」の語句の解釈はかなり分かれるんですね。『史記』のよみがなである「しき」のことを「敷物」すなわち「枕」という風に連想したシャレのような回答をドラマでは採用していたようですが、実際にそういう学説もあります。

 あるいはすでに当時、「枕草子」という語句が「備忘録」という意味合いで使われる普通名詞だったという学説もあって、この場合は、古代中国の男性中心の歴史といえる『史記』に対し、一条天皇の御代の記録を、女性の目から記した備忘録=『枕草子』を残しましょうと呼びかけたという解釈になります。史実の清少納言ならば、後者のような気がします。

 書かれた経緯はともかく、実際の『枕草子』も、華やかなりし時代の思い出や四季折々の美しさを描くことで、定子の傷心を癒やすために使われたと考えられるのですが、長保2年(1000年)12月16日、定子はお産の末に亡くなってしまっています。しかしその後、一人の皇子・敦康親王をふくむ定子の3人の遺児たちは道長の手で引き取られ、道長の愛娘・彰子(見上愛さん)が彼らの母代わりとなって育てているのです。

 そう聞くと、前回までのドラマでは定子が出家し、もう天皇とは会えなくなったという描かれ方だったので、「あれっ」と思う読者もいるでしょうが、一条天皇が「ルール」を曲げて定子を呼び戻したので2人は再会し、その後、定子は子どもを立て続けに授かっていくことになるのです。

 ゆえに『枕草子』が想定した第一読者は、ある時期からは定子ではなく、道長そして彰子だったのですね。清少納言は「亡き定子さまのお子様がたを、どうか粗略には扱わないでください」と『枕草子』を通じ、道長たちに訴えていたのだと考えられます。ドラマはともかく、定子の実家である「中関白家」を追い落とした張本人は道長ですから……。

 ちなみにドラマの清少納言演じるファーストサマーウイカさんが、達筆を披露して「春はあけぼの」などと実際に書いていましたが、その書き出しであまりにも有名な「第一段」から『枕草子』が描かれたというわけでもなさそうです。

 以前から、さまざまな写本が『枕草子』には存在し、また本ごとに段落が前後し、「内容も異なる」とお話をしてきましたが、昭和の時代に4つの写本の系統に大きく分類されるという研究がまとまりました。その4つの写本にも、内容ごとにまとめた「類纂型」と、清少納言がインスピレーションの赴くままに書いていったという体裁の「雑纂型」の2種類が存在していますが、専門的になりすぎるので今回はこのくらいにしておきましょう。

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