「喪失は簡単に整理できない」――母親の「私」と自殺してまもない息子の対話/『理由のない場所』書評

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2024年06月04日 09:20  日刊SPA!

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イーユン・リー 著/篠森ゆりこ 訳『理由のない場所』(河出書房新社)
 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
 渡せなくなってしまった本がある。本屋をやっていると、注文品を受け取りに来ないお客さんがよくいるため、渡さずに終わってしまった本が頻繁に生まれる。しかし今回はそうではなかった。初めてのかたちの「渡せない」だった。
 その人は週に1回草野球をしている。仏教についての造詣が深いもよう。80歳になった兄弟がいるらしい。煙草が好き。毎年、秋になると拾ってきた銀杏をたくさんくれる(正直に言うと、食べきれなくて少し困っている)。そして、毎年4月に刊行される野球のルールブックを私に注文してくれる。だから週に1回の練習日に渡しに行った。その人はいなくなっていた。つい最近まで私のピッチング練習の球を受けていたその人が、急にこの世からいなくなってしまった。

 イーユン・リー著『理由のない場所』(河出書房新社)は、著者自身の長男の死をきっかけに書かれた作品だ。物語の語り手である母は、いなくなってしまった長男と「対話」をする。それは時間と場所を超越した営みであり、おそらく、身近な者を亡くした経験のある者なら似たようなことをしたことがあるのではないだろうか。現実を受け入れるための時間。あるいは、受け入れないでいるための時間。いずれにせよそこに正解はなく、どうやっても「いなくなってしまった」という事実を変えることはできない。最も欲しい正解である「ここにいてほしい」は手に入らない。
 だから今回この本を選んだのだ、というわけではない。この本の筋立てや構造を、私はすっかり忘れていたのだ。いつも通り担当編集に次の書評本候補を訊かれ、そういえば単行本で読もうと思っていたのに文庫になっちゃったな、いい機会だから読もうかな……という流れでこの本になったのだ。

 私たちが本を読む理由をあえて2つにわけてみるならば、それはこれまでに経験したことを再確認するための読書と、これから起こりうることに備えるための読書である、と言うことができるのかもしれない。
 前者には共感があり、それゆえの救いを私たちは得ることになる。同じ経験をしている者が自分のほかにもいるということ、書かれていることが「わかる」ということ、そしてそれは自分のこの経験が他者にもわかってもらえるかもしれないということ。そのような希望を私たちは得るのだろう。
 一方、後者には本を読んだ時点での共感や救いはないのかもしれない。きっと「わかる」と思うことのほうが少ないだろう。しかしだからといって意味がないわけではなく、いつかのための準備となる読書なのだ。

 母と長男の「対話」は、結局のところ母の想像上の営みでしかない。きっと長男はこう言うだろう。この問いかけには返答しないだろう。これまで築き上げてきた関係性と記憶を頼りにして、その「対話」は続けられる。ゆえにそれを読む私たち=他者は、その多くを理解できない。
 読前の私はわかるのではないかと思っていた。身近な者がいなくなってしまったことをうまく整理しきれていない今ならば(偶然に導かれたような気もするし)、何かヒントになるものがあるのではないか、つまり経験を再確認するための読書になるのではないか、と思っていた。だがそこに描かれていたのは、喪失がもたらす痛みと苦悩の渦中に投げ込まれ、他者=読者に対して取り繕うこともできない「母=著者」だった。整理などされていなかった。整理しようともがき、同時に整理したくないともがく者が、ただそこにいるだけだった。

 私が「わからなかった」のは、長男を亡くした母と、草野球のチームメイトを亡くした私のあいだに、喪失(の痛み)の軽重の違いがあるからではない。そこに比較を持ち込んでしまうのはナンセンスだ。重要なのは、喪失は簡単に整理できるわけではないということと、その整理しきれなさを他者にわかってもらえなくてもいいということ、この2つなのではないだろうか。
 もちろん、「わかる」という者もいるだろう。著者の分身としての「母」の、一種の現実逃避とも言える「対話」を知っている者にとっては、本書は救いになりうる。同時に、「わからなかった」者にとっても、突拍子がなかったり辻褄が合わなかったりする現実逃避の存在(を知ること)は、いつかの自分を救うことになる。

 来年もルールブックは注文することにした。毎年たいした改訂もなく、草野球で厳密にルールブックに則って試合をするわけでもなく(そもそも試合ができる人数がいないし)、果たして毎年ちゃんと読んでいたのかすらわからない。いや、妙に細かいところにこだわる人だったから、律儀に読んでいたのかも。じゃあ私もちゃんと読むことにしようかな。でも正直言うと面倒だから、やっぱり読むのはお任せしたいかも。私の役目は仕入れるところまで。あと、ピッチング練習のとき、実はちょっと球速を抑えてました。本気で投げたら死んじゃうかも……と思って。余計なお世話でしたね。すみません。でも最近力の入れ方がわかったから、やっぱり捕れないかもしれないですよ。もう1か月以上もブランクがあるわけだし……

評者/関口竜平
1993年2月26日生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。著書『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』(大月書店)。将来の夢は首位打者(草野球)。特技は二度寝

―[書店員の書評]―

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