「いろんなことを忘れないでいてほしいと思ってこの映画を撮った」『あんのこと』入江悠監督【インタビュー】

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2024年06月06日 08:10  エンタメOVO

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入江悠監督 (C)エンタメOVO

 売春や麻薬の常習犯である21歳の香川杏(河合優実)は、人情味あふれる刑事の多々羅(佐藤二朗)と出会い、多々羅や彼の友人でジャーナリストの桐野(稲垣吾郎)の助けを借りながら更生の道を歩み始める。ところが突然のコロナ禍によって3人はすれ違い、それぞれが孤独と不安に直面していく。入江悠監督が自らの脚本を映画化した『あんのこと』が6月7日(金)から全国公開される。公開を前に入江監督に話を聞いた。




−まず、この映画の着想はどこから得たのでしょうか。

 ある新聞記事が基になっています。それは杏のモデルになった女の子の半生みたいな話でした。それとは別に、刑事による性加害みたいな問題があって、その二つがつながっていることに気付いて、これを脚本にしてみようかなと思いました。もう一つは、コロナ禍を体験して、僕自身があの時に感じたことを残しておきたいという思いがありました。その二つのことが頭にあって脚本を書き始めました。

−これまで撮ってきたさまざまな映画とこの映画に何か違いはありましたか。

 最初はあまり考えていなかったのですが、作っていく中で、本当にあったことを描く責任感みたいなことに気付いて、これは大変なことをやっているなと思ったんです。今までやってきたのは、自分の脳内で考えてきたキャラクターであり、事件だったんですけど、今回はモデルになる人がいて、河合優実さんが演じた人と佐藤二朗さんが演じた人には物理的に会えない状況だったので、問い合わせることもできない。だから、モデルになった人に敬意を払いつつ、こちらで想像しなければならない部分もあって、失礼があってはいけないみたいな気持ちも抱きつつ撮影をした感じです。実在の人物に対する責任感みたいなことは、これまで感じたことはなかったので、それが大きな違いでした。

−この映画にはドキュメンタリータッチに見えるところがありました。先ほどコロナの影響とおっしゃいましたけど、現実を捉えるという意識は多分にあったのでしょうか。

 それはかなりありました。自分が生きている世界と地続きで描いていくというか、フィクションとして、自分で考えたことはできるだけ少なく、記録していくような気持ちで撮ろうと思いました。

−売春、麻薬、貧困、DV、毒親など、さまざまな問題が描かれていました。それは現実に即して描くという意図があったのと、杏を描くにはそうした要素が不可欠だったということでしょうか。

 もともと記事に書かれていたことなので、本当に起きていたことに自分が何かを足そうということはありませんでした。記事には、その後の彼女がそうしたものを断ち切って、もう一度自分で学校に通い出す、踏み出していく過程が書かれていたので、映画としても、では彼女がどうやってそれらを断ち切って、前に進もうとしたのかを描ければいいと思いました。

−最初は、杏が置かれている絶望的な状況を見てやるせなさを感じる。次に彼女が立ち直っていく過程で多少の希望が見える。けれども最後は…となる展開が非常に切なかったです。

 そうですね。単なるフィクションであればラストを変えてもいいんですけど、スタート地点が現実に起きたことを記録しておきたいというのがモチベーションだったので…。撮りながら僕もつらかったですが、でもこれこそが、僕たちがあの事件に気付かなかったということなんだと思いながら撮っていました。苦しいシーンもいっぱいありましたが、彼女にとって、少しでも幸せな瞬間があってほしいと願いながら撮っていました。

−杏役の河合優実さん。ある意味とても難しい役だったと思いますが、時折彼女が見せる笑顔が印象的でした。今注目の俳優ですが、彼女はいかがでしたか。

 役柄に対して取り組む姿勢がすごく真摯(しんし)です。そこがちょっと尋常ではないというか。だから、こうした実在の人物を演じるときに、僕なんかが想像できないぐらい丁寧にアプローチをして、ふっと出てきた表情や笑顔がすごく光るんです。そこにうそがないというか、本当に杏はこの瞬間笑っただろうなというふうに見えるというか。そういう意味では、これからすごい俳優になると思います。僕が演出しなくても、彼女が脚本を読んで、「杏ってこういう子だったんだ」と想像しながら演じていました。ご本人は「何か一緒に歩いているような感じ」と言っていましたけど、本当に杏が隣にいるような感じでした。

−刑事役の佐藤二朗さん。彼は杏にとってはある意味恩人ですが、他の人にはひどいこともするみたいな、人間の多面性が出ていたと思うんですけど、彼はいかがでしたか。

 佐藤さんもすごく繊細な方でした。なるべく演技を抑制して、やり過ぎないように、杏に寄り添っていくというのを、すごく心掛けていらっしゃるなと思いました。撮影中に一番いろんなことを話したのは佐藤さんかもしれません。「この刑事はどういうことをするんだろう」とか、「たばこをポイ捨てする芝居をやってみようと思うけど、どう思う」とか、そういうディスカッションをたくさんしました。

−記者役の稲垣吾郎さん。彼の役も、仕事と情のはざまで悩むような役でしたが、彼がカラオケを歌うところが面白かったです。

 カラオケの場面は、この3人の関係性が一番いい時だったので、その高揚感が出ればと思って作りました。ブルーハーツの曲を僕が選んで、歌ってもらったんですけど、すごく面白かったです。稲垣さんが一生懸命歌ってくれている。あまりうま過ぎずに歌うところがいかにも一般人という感じがしてよかった。なじんでいていいんですよね。生活感があって。

−この3人のアンサンブルが印象的でしたが、演出していてどんな感じでしたか。

 楽しそうでしたね。ラーメン屋のシーンとかもそうですけど、社会的に置かれた環境も違うし、職業も違うんだけど、たまたま出会った3人の距離がだんだんと近くなっていくという。ご本人たちも 楽しんでいる感じでした。撮っていて、こちらもすごく幸せな気持ちになりました。

−その分、その後に起きることとのギャップが大きくて、余計にやるせなさを感じたんですけれども…。

 そうですね。そこはもう本当に現実にコロナ禍の時に僕らが体験したことだと思うんですけど、人と会ってはいけないとか、近づいてはいけないみたいなことを急に要請されて、分断されていくみたいなことがあって。やっぱり1人になってしまうと、すごく孤立してしまうというか、悩みごとも気軽に相談できないし。その空気感は、自分もコロナ禍の2020年を思い出しながら撮っていて、実際に映画の中でも、どんどん杏が孤立してくので、 あそこはやっぱり苦しかったです。

−これから映画を見る読者に向けて一言お願いします。

 僕は、いろんなことを忘れないでいてほしいと思っています。それはこういう事件だけではなく、自分の身近なことでもいいと思うんです。この前はこうできなかったけど、次はこうしようみたいなことを忘れないでいたら、少しは未来がよくなるんじゃないかなと。そういうことをこの映画を見て思っていただけたらうれしいです。それこそ、隣人が困っていたら、声を掛けるでもいいんですけど、そういうふうに思えたらいいなと。やっぱり現実を忘れさせるだけが映画の使命ではないので。

(取材・文・写真/田中雄二)


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