EURO名場面 日本人の欧州サッカー熱がピークに 2004年ポルトガル大会はサッカー観が一変した名勝負も

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2024年06月12日 07:30  webスポルティーバ

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愛しのユーロ(3)〜2004年

 6月14日(現地時間)、ドイツ対スコットランドで幕を開けるEURO2024(欧州選手権)。日本が初出場した1998年のフランスW杯以降、サッカー観戦のために欧州を旅する日本人の数はうなぎ上りに増えていくなか、そのピークのひとつがEURO2004だった。日本と縁もゆかりもない国どうしが対戦するポルトガルのスタジアムに、多くの日本人が駆けつけた――。

※                  ※                   ※ 

 ポルトガルを舞台に行なわれたEURO2004は、日韓共催W杯後に初めて開催されるビッグトーナメントだった。

 1998年のフランスW杯の前あたりから高まっていた日本人の欧州サッカーへの観戦意欲は、自国開催のW杯を経ても変わらず旺盛で、EURO2004の現場には多くの日本人観戦者が駆けつけた。オランダ、ベルギーの共催大会だったEURO2000の時より、若干、年齢層は上がった気がした。サッカー観戦と同時に、旅情を満喫しようとする洒落た感じの熟年カップルに、現地でよく遭遇した。

 ポルトガルはスペインと国境を接するイベリア半島の国だが、少々奥まった、日本からは行きにくい場所にある。サッカーファンも、それまではスペイン止まりの人が大半だったはずだ。リスボンやポルトはサッカー都市としての強弱、大小の関係において、マドリードやバルセロナを筆頭とするスペインの各都市に比べて劣っていた。筆者もリスボンやポルトを、試合の重要度が高いチャンピオンズリーグの観戦で訪れることはあったが、国内リーグ戦を観ることは少なかった。

 そのポルトガルとスペインは、EURO2004の招致活動でライバル関係にあった。両国の一騎打ちとなったが、「スペインはポルトガルに負けるはずがないと、油断していたようだ」と語ったのはポルトガルのベテラン記者。スペインにとってはまさかの敗戦だった。

 両国の関係は、2002年日韓共催W杯で、大小関係において勝る日本が、招致活動で劣勢に追い込まれる姿に似ていた。共催という形で手を打つことになった日本に対し、スペインは共催さえもかなわなかった。そのポルトガルとスペイン両国は、サッカーの神の悪戯か、抽選の結果、グループリーグを同組で戦うことになった。

【ライバルを制して狂喜乱舞】

 舞台はスポルティングの本拠地、ジョゼ・アルバラーデ。リスボンの地下鉄、カンポ・グランデ駅の目の前に立つ新装のスタジアムに、筆者も野次馬根性丸出しで駆けつけた。ポルトガルサポーターとスペインサポーターがやり合うそのド真ん中に入り込み、せっせとシャッターを押した。とはいえ、危ないという感じではなかった。最前線でやり合う両軍サポーターには笑顔があった。殺気と言うより、お祭り的な要素が勝っていた。

 驚かされたのは、ポルトガルがスペインを1−0で下した試合後だった。リスボンの繁華街を南北に延びるリベルダーデ大通りに多くのポルトガル人が繰り出し、狂喜乱舞していた。車の箱乗りは当たり前。トラックの荷台に乗り込み、気勢を上げる人もいた。この光景を見て想起したのは2年前の大田(テジョン)だった。韓国がイタリアを破った決勝トーナメント1回戦の試合後の光景と、それは完全に一致していた。

 日韓W杯では、その直前に日本が宮城でトルコに敗れていたことも熱狂に拍車をかけた。韓国は日本が逃したベスト8入りを決め、我が世の春を謳歌したくなる気分だったのだろう。

 もちろん、韓国でもポルトガルでも、箱乗りは道路交通法違反である。だが、それを咎めたり、実力行使に出る警官は、大田にも、リスボンにもいなかった。この臨機応変な寛容さ。日本では絶対に見ることはできないだろう。

 ポルトガルとスペインの関係を歴史的に見れば、攻めた側はスペインで、攻められた側はポルトガルになる。この点も日本と韓国に似ている。だが、ポルトガルが攻め込まれるたびに援軍を送った国がある。イングランドだ。イングランド人サポーターを嫌がる国が大半を占めるなか、ポルトガルは彼らを暖かく歓待した。

 当時のポルトの監督、ジョゼ・モウリーニョも親英派のひとりだったと思われる。EURO2004の直前に行なわれた2003−04シーズンのチャンピオンズリーグで優勝したモウリーニョに、快進撃を続けるシーズン中に話を聞くと、ポルトの成績のみならず、EURO2004に臨むポルトガル代表も「好成績を挙げるに違いない。期待してくれ」と、アピールした。「ポルトガル代表監督の座は狙わないのか」と尋ねれば「まずイングランドに渡ろうと考えている」と、述べている。

【ふたつの名勝負】

 リスボンのダ・ルスで行なわれた準々決勝。ポルトガルの前に立ちはだかったのがイングランドだった。この一戦が、大会で1、2を争う名勝負になろうとは、想像だにしなかった。

 2−2から延長、PK戦に及んだ大接戦。光ったのはポルトガル代表監督、ルイス・フェリペ・スコラーリの采配だった。ブラジル人監督とは思えぬ戦術的交代を鮮やかに決め、イングランドをじわじわ追い詰める姿に、何より心を動かされることになった。出番を失っていたマヌエル・ルイ・コスタが終盤、ピッチに姿を現すと、スタンドは万雷の拍手に包まれたものだ。

 試合後、リベルダーデ大通りはスペインに勝った日以上のお祭り騒ぎだった。明け方まで狂喜乱舞は続いた。

 この大会でもうひとつ名勝負を挙げるなら、アベイロで行なわれたグループリーグの一戦、チェコ対オランダになる。

 キックオフから前半の終盤までオランダが展開したサッカーは、目を見張るような超ハイレベルで、急傾斜のサッカー専用スタジアムからの眺めによく映えた。アリエン・ロッベンがキレッキレのプレーで連続アシストを決め、2−0とした時、オランダの勝利は9割方、堅いと思われた。だが、そこからチェコが3点を連取し、2−3でタイムアップの笛を聞くことになる。オランダが守備的に後ろを固める作戦に転じるや、形勢が一変する展開に、守る怖さを思い知らされることになった。

 囲碁将棋を彷彿させるその一部始終は、眺望抜群のスタンドから手に取るように伝わってきた。自らの"サッカー学"を向上させる試合にもなった。何を隠そう、この試合の前後でサッカーの見え方は大きく変わった。

 筆者は試合後、ポルトに移動し、リベイラ地区という観光名所のレストランで夕飯を食べたのだが、そこには各国サポーターも集合していて、まさしくインターナショナルな人種のるつぼと化していた。

 惜しい試合を落としたばかりのオランダファンの姿もあった。さぞがっかりしているかと思いきや、チェコ人を見つけると近寄り、陽気に酒を汲みかわしている。人のよさを丸出しにしていたわけだが、大事な試合に敗れる気質の一端を、そこに見る気がした。

【予想外のギリシャ優勝】

 対照的に、他国の人と群れようとしなかったのはドイツ人。まさに万国旗揺らめくなかで、自国民だけで固まろうとする姿は、少しばかり異様に映った。

 その2年後、ドイツはW杯を開催した。組織委員長のフランツ・ベッケンバウワーは「このW杯をドイツ人の好ましくないイメージを払拭する大会にしたい」と述べた。ドイツ人は自身の不人気を自覚するがゆえに、他国のファンと交わろうとしなかったようだ。自国開催の2006年W杯の話をすれば、ドイツ人は作り笑顔ではないかと疑りたくなるほど、フレンドリーに接してきた。

 それはともかく、EURO2004を語る際、決勝で開催国ポルトガルを下して優勝したギリシャを外すことはできない。そのサッカーを「守備的だ」と言う人は少なくなかった。実際、ギリシャはどの試合でもたいてい、押し込まれていた。しかし、そのサッカーは本当に守備的だったのか。

 ギリシャ人は日本人には言われたくないと思ったはずだ。4−2−2−2で戦う当時の日本代表、ジーコジャパンに比べたら、4−3−3で通したギリシャのほうがはるかに攻撃的だった。ギリシャの押される時間が長かった理由は、引いて構えたと言うより、相手との戦力差に起因する。

 振り返れば、EURO2004は何と言ってもスタジアムがよかった。2年前に開催された日韓共催W杯の日本側のスタジアムといやでも比較することになった。ホスピタリティしかり。ポルトガル人は欧州一と言いたくなるほど優しかった。お迎えする精神に富んでいた。旅も快適そのものだった。食事も、欧州のどの国の料理よりも日本人の口に合った。筆者は大会期間中、イワシの塩焼きを100匹は食べている。

 もう一度行きたい大会の一番手にランクされるだろう。ポルトガルが共催国のひとつに名を連ねる2030年のW杯が待ち遠しい限りだ。

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