人口512人の村に移住した47歳女性。「スーパーもコンビニもない山村」に6年住んでわかった“自身の変化”

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2024年06月12日 16:20  女子SPA!

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店主の坂本裕子さん。「オオカミ印の里山ごはん」の前で
 東京都と山梨県の境にある「丹波山村」という村の名前を聞いたことがあるでしょうか。日本百名山である雲取山や大菩薩嶺の山々に四方を囲まれ、東京・多摩川の源流である丹波川が中心部に流れる、緑豊かな山村地域です。

 最寄り駅であるJR奥多摩駅へは、バスを使って約1時間。人口は512人(令和6年6月1日時点)、町内にはスーパーもコンビニもありませんが、その自然環境に魅せられて、週末ともなればキャンパーやバイクライダーなどがひっきりなしに村を訪れます。

 近年では若者の移住も増加しており、『田舎暮らしの本』(宝島社)が発行する「2024年度版 住みたい田舎ベストランキング」では、「村」カテゴリーで総合部門1位となりました。

 そんな丹波山村に単身で移住し、食堂を立ち上げた一人の女性がいます。名前は、坂本裕子さん(47歳)。元々、神奈川県内の一般企業で翻訳関連の仕事に従事していた坂本さんは、一体なぜ村に移り住むことになったのでしょうか。

◆自分の店を持つのが夢だった

 2024年のゴールデンウィーク最終日。村中心にある役場から5分ほど歩いた場所にある食堂「オオカミ印の里山ごはん」店内は、村内外から訪れる多くの客で賑わっていました。

 この日提供していたのは「生姜焼き定食」「唐揚げ定食」などの定食数種類と週替わりのカレー、村で獲れたジビエを活用した「タバラーメン」など。いずれのメニューにも、村で獲れた旬の食材が活用されています。

 キッチンで1人忙しく包丁を刻みながらも、客と談笑するのが店主の坂本さんです。2018年、神奈川県厚木市から丹波山村へ移住し、3年間「地域おこし協力隊」として活動したのち、2022年に店をオープンしました。

 坂本さんが生まれ育ったのは厚木市内の上荻野地域。丹波山村同様、辺りを森林に囲まれた自然豊かな地区です。のどかな場所で生まれ育ったため田舎への憧れはなかったものの、「自分のお店を持ちたい」という願望は小さな頃から持っていたと坂本さんは話します。

坂本:「元々おばあちゃんが駄菓子屋さんをやっていたり、幼稚園時代に先生が紙で作ったハンバーガーをお客さんに振舞うという遊びがあって、すごく楽しかったんです。それで『お店屋さんをやりたい』という気持ちはずっとあったんですが、『自分にはできるわけがない、夢は夢だ』と思っていました」

 小さな頃から目標を持ち、そこに向かって突き進む行動力を持っていた坂本さん。短期大学卒業後は、ワーキングホリデーのため、カナダへと渡ります。

坂本:「短大を出た2000年当時は、俗に言う就職氷河期だったんです。周囲の同級生が就活を頑張っている中、自分は『就職はしない』と決め、バイトに精を出していました。人とは違う道を常に選んでしまう、あまのじゃくな性格なんでしょうね」

 最終的には就労ビザが習得できず、29歳で帰国。その後は、厚木市内の民間企業で電子計測器などのマニュアル翻訳に派遣社員として約11年関わりました。2008年、「リーマンショック」による世界同時不況が発生、その余波で社内では派遣社員が契約を切られる「派遣切り」が起こりますが、「坂本さんは残して」という声が一部であったほど、社内でも慕われる存在だったそうです。

◆元夫の言葉に苦しんだ日々

 社会人として順調な日々を過ごしていた坂本さんでしたが、転機となったのは自身の離婚でした。38歳の時、長年友人だった男性と結婚。しかし、入籍前後から夫の態度は急変していきました。

坂本:「入籍前後のタイミングで、1回すごく怒鳴られた時があったんです。その時は『機嫌悪いのかな』と思ったんですが、その後もことあるごとに怒鳴られて。自分の所有物が思うように動かないのが気に入らない、という感覚だったんだと思います」

 謝ると以前も同じことを言っていたと詰められ、謝らなければ態度が変わるまで叱咤を受ける――そのような日々を繰り返す中、坂本さんの精神状態は次第に悪化していきました。一方、事情を知らない友人からは「いい旦那さん」と声をかけられることもあり、周囲には自身の状況を伝えられずにいたといいます。

 ある時、思い切って妹に状況を打ち明けてみたところ、話はすぐに両親へと伝わり「今すぐ離婚して帰ってこい」と猛説得を受けます。友人宅に居候しながら別居生活を続け、結婚から1年足らずで離婚。別れた後も元夫の顔や、夫に責められた言葉が頭にちらつき、「自分の存在が人に迷惑をかけている」という思いから、ストレス性の目まいに悩まされる日々が続いたとのことでした。

◆「仕事辞めよ」ある日突然、浮かんだ思い

 離婚から約1年が経ち、症状も落ち着きつつあったある朝のこと。自転車を漕いで会社に向かう中、ふと「仕事辞めよ」という思いが坂本さんの頭に浮かんできたといいます。

坂本:「このまま会社に勤めれていれば、あと20年ぐらいは働ける。でも自分は本当にそれをやりたいんだろうか、と思ったんです。1年後にも考えが変わらなければ辞めようと決め、実際変わらなかったので、退職を決断しました」

 退職後の仕事について考える中で地域おこし協力隊という制度を知り、地方移住への関心が高まったという坂本さん。募集要項に掲げられていた業務内容の自由度が高かったことから、目に留まったのが丹波山村でした。面接では「発酵食品を使った地域おこしをしたい」とアピールし、無事採用へ。18年春、3年間の任期つき隊員として移住を果たします。

 移住1年目は、丹波山村産の在来種野菜を使ったピクルス作りに邁進。2年目になると東京・神楽坂のアンテナショップ(現在は閉店)に食品を卸すようになり、その縁で、飲食店を間借り出店したことが、出店に向け背中を押しました。

坂本:「素人だったので、メニューを1から組み立てるのはすごく大変でした。それでもお客さんから『東京は何でもあるけど、普通のご飯を食べられたのは久しぶりだった』と声をかけてもらえて。『そうか、普通のご飯でいいんだったらできるかもしれない』と、その時の経験で自信がついたんです」

 そこから本腰を入れて物件探しをスタート。音響用部品工場の跡地を借り、村民の協力も得ながら、約1年かけてペンキ塗りや床磨きなどの補修工事を行いました。村からの補助金には頼らず、会社員時代の貯金も使って、開店までにかけた費用は総額で500万円ほど。

 周囲からは「こんなに人が少ないところでやるのか」と驚かれたそうですが、「要はどこを取るかだと思います。私は『発酵食品で地域おこしをしたい』という思いが初めにあったので、他の場所でやることは考えられませんでした」と話します。

 こうして2022年春、「オオカミ印の里山ごはん」が正式にオープン。ランチ営業を基本とし、週に2日(金曜・土曜)は夜間の時間帯にも営業を行います。村にかつてスナックなどはありましたが、開店当時、夜間営業を行っているお店は他にありませんでした。

 開店から2年以上が経つ今、お客は常連が約3割、新規が約7割。客同士が仲良くなり、店で食卓を囲むこともあるといいます。

◆結婚、子育て……周囲と自分を比べなくなった

 移住して6年が過ぎ、今では精神状態や考え方も大きく変わりました。

坂本:「周囲の同世代は旦那さんと普通に恋愛して結婚して、30代後半ともなれば家を買っていたり、子育てに忙しかったり。私も同じことがやりたかっただけなのになぜできないのかと、離婚後は人と自分を比べてひがんでばかりいました。丹波山村の人たちはすごく優しくて、普段は気を遣っていても、困っている時は絶対にかけつけてくれるんです。村に来てからは『自分の存在が人に迷惑をかけている』という妄想が解け、自己肯定感を取り戻すことができました」

 開店2周年記念のイベントを開けば、頼まれなくても写真集を作って後日持参する客がいるほど、常連からも慕われている坂本さん。本来の明るくポジティブなキャラクターが村内外の人々を惹きつけ、そこからファンの輪が広がっていく――そんな好循環が生まれていることは、小さな村で商売が成り立つ秘訣に直結していると感じました。

【松岡瑛理】
一橋大学大学院社会学研究科修了。『サンデー毎日』『週刊朝日』などの記者を経て、24年6月より『SPA!』編集部へ。小学校時代、人口約550人の長野県下伊那郡売木村に1年間山村留学をした経験があり、地方の話題に関心がある。Xアカウント:@osomatu_san

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