朝ドラ『虎に翼』で最大の発明といえる重要フレーズ。プロデューサーによる“定義”にも注目

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2024年06月23日 09:00  女子SPA!

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『虎に翼』(NHK総合、午前8時放送)の主人公・猪爪寅子(伊藤沙莉)は、社会への違和感として「はて」と疑問を浮かべる。

 それに比例して、寅子の周囲の女性たちは、感情を表に出さない「スンッ」状態を強いられている。この「スンッ」が俳優の演技レベルではどんなことを表現しているのか。

 イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、本作の最大の発明ともいえる「スンッ」に注目しながら、ドラマのテーマと密接に関わるこのフレーズの定義を考える。

◆女性の感情を表す「スンッ」

『虎に翼』が描く戦前の日本では、外で働く男性に対して女性は内助の功を求められ、献身的な慎ましさを徹底しなければならなかった。本音を外にもらすことなどもってのほか。法律上、「無能力者」とされた時代でもあった。

 女性たちは、無(オフ)の感情を社会的に強いられる。本作ではそれにちゃんと名前がついている。ズバリ、「スンッ」。これは、脚本家の吉田恵里子が編み出した感情表現で、社会に疑問を投げかける寅子の「はて」とともに、この「スンッ」がテーマに関わる重要なフレーズだ。

 そのため当時の女性たちは、感情をひた隠しにして、内面的にも外面的にも「スンッ」が常態化する。第1週第2回では、早くも象徴的な場面が描かれた。寅子の兄・猪爪直道(上川周作)と寅子の親友・花江(森田望智)が結婚することになるのだが、その祝宴の席で寅子の母・猪爪はる(石田ゆり子)など、女性たちは男性を立てるためにろくに自分の意見を言わない。

◆「スンッ」の実践者は男性?

 この場面の状態について、尾野真千子のナレーションが「この通り、スンッ」と説明する。寅子は「私、あの顔苦手だわぁ」とぼやく。戦前に自由を体現したモガ(モダンガール)的資質がある彼女からしたら、女性たちの「スンッ」もまた「はて」の対象となる。

 寅子が法律を学ぶために通う明律大学女子部の学友たちもそれぞれに悩める「スンッ」の女性たち。それを寅子の必殺「はて」がひとつひとつ丁寧に解きほぐす。

 いつまでもほぐれないのは、男性たちだろう。女性に「スンッ」を強いる立場の彼らがその実、「スンッ」の実践者みたいに見える瞬間もある。寅子と本科で同級生になる花岡悟(岩田剛典)が極めつけ。

◆寅子の「スンッ」を吹き払う存在

 最初こそジェントリーな人物に見えたが、実際は上辺のレディファースト精神で取り繕っていただけ。第4週第18回、ハイキング中に事件は起きる。「男と同様に勉学に励む君たちを、僕は最大限敬い、尊重している。特別だと認めてるだろ」と語気を強めた花岡に対して寅子がキレる。言葉による「はて」を通り越し、物理的に彼を小突き……。

 足を滑らせた花岡が崖から落下する。画面上、なかなか下へ落下していかずに、宙を泳ぐかのような花岡は、大口を開けて「あぁぁ〜」と叫んでいるが、表情全体は無そのもの。彼の感情はどこへやら、まさに「スンッ」の落下を見事なアクション場面として岩田剛典が表現していた気がしないでもない。

 男性の存在が寅子から「スンッ」の状態を吹き払うこともある。戦後、家族を養うために司法省の事務官になった寅子だが、どうも自分の気持ちを押し殺してしまう。なぜだか以前のような調子で相手に「はて」を突きつけられない。そんなとき、寅子を再起させるのが、明律大学の恩師で法学者の穂高重親(小林薫)だ。

◆「スンッ」からの「はて」のセットプレー

 司法省で頻繁に顔を合わせるようになった第10週第49回のこと。審議会の休憩時間、穂高が寅子を呼び止めて、自分が法学の世界に引き込んでしまったからお詫びに家庭教師の仕事をあっせんしようとする。

 確かにいい話かもしれない。でも寅子の「スンッ」はこの瞬間に「カチン」に変わる。自分は好きでこの世界にいるんだ。それを今さら。冗談じゃない。穂高のトンチンカンな提案に対して寅子は、「はて」を連打する。

 よし、本来の寅子に戻ったぞ。「スンッ」からの「はて」のセットプレーのような場面は、あまりにも清々しい瞬間だった。戦前の「はて」から戦後の「スンッ」に揺り戻された寅子が、ほんとうの意味で「スンッ」から解放されたのだ。

◆「スンッ」の定義

 そもそもこの「スンッ」とは、明確に定義されているものなのだろうか? 第2回の「スンッ」初登場から見続けていれば、それが明確には定義仕切れない、とても複雑な感情であることは明白である。

 それでも本作の石澤かおるプロデューサーが一応の定義を解説してくれている。曰く、「そうせざるを得ないときがあるけれど、そんな自分が悲しくもある」という感情を成分とする表現なのだと(『NEWS PICKS』インタビューより引用)。

 この定義らしき感情を理解するなら、これは葛藤そのものであり、葛藤を経て駆り立てられるストラッグル(闘争)を温存した状態でもある。だから寅子の場合、「スンッ」に陥ったところから、「はて」の違和感を突きつける、何かきっかけが必要だった。

 それが穂高だったが、伊藤の演技レベルで考えても、「はて」のアウトプットを通じて「スンッ」をチャージ(温存)しているように見える。

 定義が明確ではないからこそ、伊藤の演技がそれを補足する。「スンッ」からの解放運動が視聴者の心に息づくとき、定義はもっと明確になるのではないだろうか?

<文/加賀谷健>

【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu
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