私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第27回
全5試合出場のいぶし銀が体感した「ドーハの悲劇」(4)
◆吉田光範が振り返る「ドーハの悲劇」(1)>>
◆吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話(2)>>
◆吉田光範がイラク戦で投入してほしかった選手(3)>>
アメリカW杯アジア最終予選、最後のイラク戦は後半9分にイラクが同点ゴールを決めて1−1となった。
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吉田光範は重たい体を引きずって、4戦目の韓国戦を累積警告による出場停止でリフレッシュした森保一をうまく使いながら、イラクの攻撃を防いでいた。我慢の時間が続くなか、チームを生き返らせたのが、中山雅史のゴールだった。
後半24分、吉田が「オフサイドっぽかった」という抜け出しからの得点で、日本が再び2−1とリードを奪った。
「ただ、安心はできなかったですね。イラクには余力があったので、勝ち越したけど、ここからが本当の勝負だと思いました」
吉田の予想どおり、イラクは捨て身になって勝ちにきていた。30分をすぎると、日本の選手たちの足が止まり出し、イラクの攻撃に対応できなくなりつつあった。ラモス瑠偉は何度もベンチに向かって北澤豪の名前を叫んで、選手交代を要求していた。
「その時間になると、イラクにやられている感がすごくて、相手の攻撃に反応できなくなっていたんです。このままじゃやられると思ったので、ラモスさんはミドルゾーンで攻守に貢献できるキーちゃん(北澤)の投入を要求していました。
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僕もキーちゃんに入ってほしかった。北朝鮮戦、韓国戦と勝った試合で、キーちゃんは攻守でものすごく効いていた。この状況を変えてくれるのは、キーちゃんしかいないと思っていました」
だが、オフトが選択したのは、北澤ではなく、武田修宏だった。
武田がどんな指示を受けていたのかわからなかったが、吉田はとにかく武田にはボールを追って、前でキープしてほしいと思った。
「武田は、韓国戦の終わりにも中山に代わって出てきたんです。その時、『前線でキープしてくれ』ってみんな言っていたし、オフトからもそういうメッセージを受けて入ったはずなのに、わけがわからないロングシュートとか打ったりして......。だから、この時も『大丈夫かな』と思いました。
そうしたら、もう(試合が)終わる寸前だったかな。武田はラモスさんからボールを受けると、そこで『キープ』って声がかかっているのに、(前に)ドリブルしていって中には人がいないのにクロスを上げたんです。
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僕らからすれば、チームのために前でキープして『1秒でも、2秒でも(時間を)削ってくれよ』って思っていたんですが......。最後の最後で、チーム全員の意識をひとつにできなかった」
武田のクロスは精度を欠いたため、中にいた三浦知良(カズ)には届かなかった。それでも、森保がすぐに詰めて相手ボールを回収し、そのミスを帳消しにした。
悲劇は、その1分後のロスタイムに起きた。
イラクのCK。吉田には、レフェリーが「あとワンプレー」と言ったことが聞こえた。
吉田はボールがセットされた際、時間がないので、そのまま蹴ってくると思っていた。だが、イラクが選択したのはショートコーナー。タイミングをずらして、中にクロスを入れてきた。
「その瞬間、パッとみんなを見た時、動きが止まっていたんです。本来ならボールの軌道を読んで動くはずなんですけど、(誰もが)動きがピタッと止まって、僕もボールを見てしまった。何とかヘディングしてボールに当たらないかなと思ったんですが、当たらずにボールが抜けていった。
あとは、『シゲ(松永成立)、頼む』と思ったんですが、もう見送るしかなかった。(相手のシュートが)入った瞬間は、『あぁ、終わった......』でした。実際にはまだ試合は終わっていなかったんですけど、もう何も考えられなかったです」
ほどなく試合終了の笛が鳴った。
試合は2−2のドローに終わり、得失点差で3位になった日本はアメリカ行きのチケットを逃した。
ラモスは頭を抱えてピッチに座り込み、柱谷哲二は両手で顔を覆って涙にくれた。失点の瞬間、ベンチ前で崩れ落ちた中山も涙が止まらなかった。
ピッチ上で動けずにいた選手たちに、オフトが一人ひとりに声をかけて回った。吉田は何を言われたのか、まったく覚えていないという。
ホテルに戻り、選手それぞれが各部屋に集まって飲み始めた。それまでは、一滴もアルコールを取らず、「アメリカに行くまでは」と我慢してきた。
吉田の部屋には、松永が訪れていた。松永は相手のシュートに反応できなかったことを悔やみ、涙を流して自分を責めた。その姿を見て、吉田も一緒に涙した。
「本当に、ただただ悔しかった。いつもどおり動けていたら、もっと何かできたはずなのに......。体力が、最後の5試合目はもたなかった。
あと一歩、二歩......あと10cmでも前に行けたら、アメリカに行けたかもしれない。そう思うと、僕らにはまだW杯に行けるだけの力がなかったのかもしれないですね」
その日から、吉田はイラク戦を自分のなかに封印した。
数年後、そのイラク戦を見返す機会があったという。日本代表は思ったほど悪くない――吉田はそう思った。
「試合はドローなんですけど、負けた感が強かったですし、イラクにかなり攻められて、自分は動けていないと思っていたんです。でも、映像を見返すと、(自分たちは)それほど悪くなかったですね。ただ、相当疲れているせいか、全体的に重かった。
最後のシーンは、見ていません。あのシーンだけは絶対に忘れないですし、忘れられない。だから、あえて見る必要はないかなと。ドーハで戦った選手は、あのシーンだけはきっと、一生忘れられないと思います」
吉田は「ドーハの悲劇」から2年後、33歳で現役を引退した。
その後、指導者となり、ジュビロ磐田のジュニアユース監督やトップチームのコーチ、ユースのコーチ、監督などを歴任し、今は地元の愛知県刈谷市で『ヨシダサッカースクール』を経営している。
ドーハの仲間たちも同様に、それぞれ解説者や、Jリーグの監督やコーチなどを務めている。ボランチとして共闘した森保は、日本代表の指揮官となった。2022年カタールW杯では、ドイツ、スペインを撃破して日本をベスト16に導いた。
「森保の活躍はうれしいですね。30年前、W杯出場を逃したカタールで開催されたW杯で、すばらしい戦いを見せてくれた。
現役時代は試合に向けて淡々と準備をして、プレーで結果を出していた。(誰も知らない)新参者があの代表チームでプレーするのは大変だったと思うけど、最終的に森保は欠かせない選手になりましたからね。
監督になっても淡々と準備をして戦い、すべての責任を負うという覚悟でやっているのを感じました。自分が監督という立場をいつ失うかわからないと言っていたので、今も昔もめちゃくちゃ戦っているなと思いました」
年明けのアジアカップでベスト8に敗れて批判を浴びたが、吉田は「森保は転んでもただでは起きない。次はいろいろと考えて、また結果を出していくと思うので、心配はしていない」と語る。
「僕らの時代、海外組は奥寺(康彦)さんしかいなくて、海外に行くと憧れの選手と試合ができるみたいな感じで、世界が非日常だったんです。でも今は、日本の選手が海外のトップレベルで普通にプレーしている。海外でのプレーが日常化し、無意識に同じレベルのサッカーができるようになっている。
(日頃から)そういう経験値があるから、ドイツやスペインにも勝てるようになったんだと思うんです。選手が海外で学び、成長していくなかで、僕ら指導者は、子どもたちがそこに向かうための基本的な技術を教え、世界と戦える準備ができるようにしていかなければいけないと思っています」
吉田は今、小学生を中心にサッカーを教えている。オフトのもとで学んだことはその後、指導者となるうえで非常に有益だった。
「オフトは、その選手の一番の強みを評価し、それを発揮できるポジションで使っていました。たとえば、森保だと、ポジショニングのよさに加えて、相手のボールを奪うこととかが得意なので、それを生かすために、どういう(選手との)組み合わせがいいのかを常に考えていました。
子どもたちは、得意なことを心地よくさせてあげるといいプレーをするので、それを周囲との組み合わせで、どう最大限に生かしてあげるのかというのは、オフトのやり方から学んだことですね」
人を生かし、チームを機能させるための指導は、今も、30年前も変わらない。
吉田に、最後に聞きたいことがひとつあった。ドーハで5試合をタフに戦った日本代表だが、森保が監督として率いる現日本代表と対戦したら、どっちが勝つのか。
「0−5とかじゃ、きかないんじゃないですか。もうボコボコにされますよ(笑)」
(文中敬称略/おわり)
吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。