ベテランモータースポーツジャーナリスト、ピーター・ナイガード氏が、F1で起こるさまざまな出来事、サーキットで目にしたエピソード等について、幅広い知見を反映させて記す連載コラム。今回は、イタリアGPで急きょデビューしたウイリアムズのフランコ・コラピントと周囲の反応、かつて予期せぬF1デビューを飾ったミハエル・シューマッハーやヤン・マグヌッセンのエピソードについてまとめた。
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■突如F1レースシートをつかんだコラピント
F1イタリアGPのプラクティスが始まる3日前までは、フランコ・コラピントは一般的にはあまり有名でないFIA F2ドライバーだった。しかし、ウイリアムズF1チーム代表ジェームズ・ボウルズがついにローガン・サージェントに我慢できなくなり、彼をレースドライバーの座から外すことを決めた後、状況が一変した。ボウルズは、リアム・ローソン、ミック・シューマッハー、フレデリック・ベスティなどの候補者を連れてくるのではなく、経験の少ないジュニアドライバー、コラピントを昇格させることを決めたのだ。
アルゼンチン出身21歳のコラピントは、現代F1において、最も経験が浅いままデビューしたF1ドライバーのひとりとなった。モンツァでのプラクティスの前に、彼がF1マシンで走る機会は、非常に限られていた。2023年11月にアブダビで実施されたヤングドライバーテストにおいて、彼はウイリアムズで65周を走行。その後は、今年のイギリスGPのFP1では再びウイリアムズから参加し、24周をこなしただけだ。
それでもコラピントはチームから全面的な支持を得ていた。
「ウイリアムズというチームは、ドライバーにマシンから最大限の力を引き出す方法を教え、教育するのがとてもうまいんだ」と、チームメイトのアレクサンダー・アルボンは語った。
「僕もできる限り彼をサポートするつもりだよ」
コラピントの突然のF1デビューについて、同じラテンアメリカ出身のセルジオ・ペレスは、次のようにコメントした。
「大きな挑戦になるだろうが、こういうチャンスが訪れたなら、とにかくそれをつかむしかない」
ランド・ノリスは「フランコは大きなプレッシャーにさらされるだろう。でも彼はそれにうまく対処する力がある、頭がいい人だと思う」
大部分のドライバーは、広範囲にわたるテストプログラムを完了した後に、F1デビューを果たす。とはいえ、コラピントよりももっと経験がないままにF1初レースに臨んだ例もいくつかある。
■ミハエル・シューマッハー:経験なしも、老獪なマネージャーがシートを確保
1991年8月、ジョーダンチームのファーストドライバー、ベルトラン・ガショーは、前年の年末にロンドンでタクシー運転手と喧嘩した件で、刑務所に収監された。チームオーナーのエディ・ジョーダンは、ベルギーGPで代役を果たすドライバーを急きょ探さなければならなくなった。
そのシートを狙うドライバーは大勢おり、当時メルセデスのスポーツカーチームのジュニアドライバーだったミハエル・シューマッハーはF1マシンを一度も運転したことがなかったため、有力候補ではなかった。メルセデスはシューマッハーをF1デビューさせるために15万ドルとも言われる多額の金を支払うと申し出たものの、ジョーダンは躊躇した。F1カレンダーで最も難しいコースのひとつ、スパ・フランコルシャンで、F1の経験が全くないドライバーをデビューさせるのはリスクが大きすぎると、当然ながらジョーダンは考えたのだ。
当時シューマッハーのマネージャーを務めたウィリー・ウエバーに対してジョーダンは、「シューマッハーはスパ・フランコルシャンのコースを知っているのか」と尋ねた。ウエバーはジョーダンを安心させようと、「もちろんだ。ミハエルはスパ・フランコルシャンに何度も行ったことがある!」と答えた。
確かにシューマッハーは何度かスパに行ったことがあったが、実際には行き先はすべて観客席だった。“ワイルド・ウィリー”は、そのことを“伝え忘れた”という。
しかし当時22歳のシューマッハーは、ベルギーGPでのデビュー戦で予選7番手という驚異的な結果を記録した。そして誰もが知るように、後に彼は7度の世界チャンピオンになった。
■ヤン・マグヌッセン:ハッキネンの代役で日本へ
現在ハースF1チームで走るケビン・マグヌッセンの父ヤンも、突然F1デビューのチャンスが訪れた。
1995年、22歳のヤンは、マクラーレン・メルセデスのテスト兼リザーブドライバーを務める一方、ドイツツーリングカー選手権DTMに参戦していた。
「F1のテストに2回ほど参加したことはあったが、レースに出場するという考えは、全く頭になかった」とヤンは当時のことについて語っている。
「だから1995年10月、ホッケンハイムでのDTM最終戦を前にして、スターティンググリッドにマクラーレンのボスのロン・デニスが現れた時にはとても驚いた。彼は非常にビジネスライクな人物なのに、その時は突然私の肩に腕を回して、長い時間、ただ私のそばに立っていた。彼が何も言わないものだから、私のなかでストレスがどんどん高まっていった。とにかく気まずかったんだ。最後に彼はやっと口を開くと、こう言った。『来週末のF1レースに出られるか?』とね」
「スタートの時間になり、彼はそれ以上何も言うことなく、立ち去った」
「僕は自分が出たすべてのレースに関して、何かしらのエピソードを覚えている。でもホッケンハイムでのあのDTMのレースは例外だ。あのレースについては何ひとつ覚えていない。ロン・デニスが言ったことで頭がいっぱいだったんだろうね」
DTMのレースが終わると、ヤン・マグヌッセンは、マクラーレンのミカ・ハッキネンが急性虫垂炎のため、翌週末に行われる日本でのパシフィックGPに出場できないのだと教えられた。
「マクラーレンは私のために、月曜日にシルバーストンを借りて、スタートやピットストップの練習をした。その後、飛行機に飛び乗って、日本に向かった」
会場は、ヤンがそれまで見たことがないTIサーキット英田だった。
「事前に、前年のレースが録画されたVHSテープをもらった。木曜日の夜にはトラックを歩いた。私が初のF1レースのために行った準備はそれだけだ」
「マクラーレンのテストでは、連続ではせいぜい4周しか走らなかったので、英田で83周も走らなければならないのは怖かった。でも結局、問題なく走り切った」
ヤンはF1デビュー戦を、チームメイトのマーク・ブランデルのすぐ後ろの10位でフィニッシュした。
■デビュー戦を見事に戦ったコラピント
現代F1においては、F1にデビューする若いドライバーにとって、体力面の準備を整えることも重要だ。
「フランコはたくさんのことを素早く学習していかなければならない。そして、おそらく何よりも重要なのは、身体面の問題だと思う」とアルボンは言う。
「カタールとシンガポールで、彼は驚くかもしれないね。驚かなかったとしても、慣れるのが大変だと気付くだろう」
コラピントは、デビュー戦のイタリアGPで良い仕事をし、予選18番手から決勝を12位でフィニッシュした。
「レースは身体面で厳しかった。今は少し疲れているし、痛みもある」とレース直後に彼は語った。
「でも、ポジティブな要素はたくさんあった。決勝前まで、ウイリアムズFW46で連続で走ったのは8周程度だったのに、今日は路面温度がとても高いなかで、53周を走りきったんだ」
「もちろん、改善すべき点はまだまだあるけれど、2週間後にまたマシンに乗ってレースをするのがとても楽しみだよ」