ロックスター、志磨遼平の孤高に至る物語。自叙伝『ぼくだけはブルー』で何を描いたのか

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2024年09月24日 18:10  CINRA.NET

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Text by 山口こすも
Text by 今川彩香

志磨遼平の初めての自叙伝『ぼくだけはブルー』が9月24日、出版された。

ライブやレコーディングのたびにメンバーが入れ替わるバンド、ドレスコーズを率いる志磨。2006年、毛皮のマリーズでデビューして一躍脚光を浴びるも、2011年に日本武道館公演をもって解散。翌年にドレスコーズを結成し、2年後には志磨以外の初期メンバーが全員脱退、現在のかたちに至っている。

自叙伝では1982年、和歌山県に生まれてから、ドレスコーズ初期メンバーが脱退したのち、志磨が初めてソロプロジェクトとして手がけたアルバム『1』までの道程を描く。その主題を「『なぜひとりになってしまうのか』あるいは『なぜひとりになりたがるのか』」とする志磨。それは一体どういうことなのか? 執筆への思いや、込めた意図や策略など、たっぷり語ってもらった。

—出版社の編集の方から自叙伝の企画を打診されたとき、はじめは丁重にお断りされたということでした。

志磨:何かを成し遂げた人が自伝を書くならまだしも、自分はまだ何も成し遂げてはいないと思うので。本にまとめることで一つ、自分の人生に区切りがついてしまうのではないかというのが、怖かったんですかね。

言ってしまえば自伝なんてものは、もうやるべきことをやり尽くして、なにもやることがなくなった人が暇つぶしに出すようなものなんじゃないかと。自分がそのように思われるのが嫌だったんですね。

志磨遼平(しま りょうへい)
1982年、和歌山県出身。作詞作曲家・文筆家・俳優。2003年「毛皮のマリーズ」結成。日本のロックンロール・ムーブメントを牽引し、2011年、日本武道館公演をもって解散。翌2012年「ドレスコーズ」結成。2014年以降はライブやレコーディングのたびにメンバーが入れ替わる流動的なバンドとして活動中。2018年には初の音楽監督作品『三文オペラ』(ブレヒト原作・KAAT)上演。さらに菅田将暉やももいろクローバーZ、上坂すみれ、KOHHといった幅広いジャンルのアーティストとのコラボレーションも行なっている。また、連載コラム等の文筆活動のほか、俳優として映画『溺れるナイフ』『零落』などにも出演している。

—最初にお断りしたときは、「まだいまじゃない」という気持ちだった。

志磨:そうですね。「いやいやいやいや」って、謙遜して。でも向こうも「いやいやいやいや」って(笑)。「面白い本になるよ」って、熱心に説得してくださって。

まあ、ミュージシャンの自伝も読むのは好きなので……読む分にはね。もともと本が好きなので、面白い本を1冊つくるという気持ちで引き受ければいいのかもしれないと思い始めたところに、「美輪明宏さんが対談を受けてくださるかも」という話があったり、僕がずっと憧れていたデザイナーの羽良多平吉さんが装丁を手がけてくださることになったり。いよいよ退路を絶たれて……頑張るしかないと。うん、そういう感じでしたね。

—退路を絶たれて(笑)。面白いものを書こうという考え方で臨まれたんですね。

志磨:そうですね。ファンの人はきっと読んでくださるとしても、そうではない方々が手に取る本だと思えば、面白い読み物であればいいだけだし。そういうものが本屋さんに1冊増えると考えればいいかな、と切り替えました。

—おっしゃっていたように、装丁はデザイナーの羽良多平吉さんが手がけられました。憧れのおひとだったんですね。

志磨:それこそ、僕が20歳くらいの頃、古本屋で買った本を読むぐらいしかやることがなかったとき。自分が手に取る本で、綺麗なデザインの本はだいたい羽良多さんがつくられたものだったんです。僕もいつか、ミュージシャンとしてね、本が出せるようになったら絶対に羽良多さんにお願いしようと思っていました。

志磨遼平自叙伝『ぼくだけはブルー』(シンコーミュージック・エンタテイメント)表紙

—イラストは志磨さんが描かれたそうですね。羽良多さんとは、どんなやり取りをされましたか?

志磨:(羽良多さんが)「君が描いた絵を送ってください」と。何年か前に書いたイラストがあったので、「これなんかどうでしょう」と送ったところ、「うん、65点」って(笑)。「どんどん描いて! 90点を目指しましょう」と、羽良多先生の特別授業が始まったのですが、自分としてはあれより気に入る絵がなかなか描けず、及第点の最初の絵が採用となりまして。

—羽良多さんが装丁デザインを手がけた自叙伝が実現して、いかがですか?

志磨:そうですね。何て言えばいいのか。恥を捨ててじゃないですけど、この本をつくろうと決めたことの、十分すぎる対価をいただいたような感じというか。信じられないぐらいの、果報者でございます。

ーそして、美輪明宏さんとの対談も収録されていますね。「毛皮のマリーズ」というバンド名は、美輪さんと寺山修司さんの舞台『毛皮のマリー』から名付けられたということで「お名前を返納する」という命題がありました。対談は、いかがでしたか。

志磨:いまだにお会いできたことが信じられない……。現人神のような、生き仏のような、会っていても、会っている実感がないというか……。本当に緊張して、声も震えて、僕はどんどん声が小さくなっていって。「あなた、いつもそんな小さな声で話してるの? もったいないわよ」って言われてしまいました。

僕が感動で声を詰まらせるたびに「もっと大きな声で」って優しくおっしゃって。そのご指摘で大きな声を出すので、そのたび一応は夢から覚めるんですけど、しばらくするとまた声が詰まってしまう。意識が遠のくたびに呼び戻されて、何とか、何とか対談を終えたという。

こっちもファンですからね。美輪さんのご本もたいていは目を通していますので、お話しされるエピソードも出だしだけでなんの話か予想がつくんですね。好きなバンドのライブに行って、イントロだけで「わーっ!」と盛り上がるように。「きた! 森蘭丸の話だ!」と心の中でいちいち感動していました。

—会員限定のWEBサイト『the dresscodes magazine』のコラムでは、この本の主題は「『なぜひとりになってしまうのか』あるいは『なぜひとりになりたがるのか』」ということだと、はっきりとおっしゃっていました。その主題は最初から決まっていたのでしょうか?

志磨:はい、最初から。ともするとただただ自分の昔話を語る人みたいになるおそれがあるので、本に通底するテーマが必要だなと。そして、どこからどこまで話そうか、ということ。いまこの時点、42歳まですべて書き切るのか。それとも、どこかの時点で区切りをつけるか。

ちょうど1〜2年前に、プライマル・スクリーム(※)のボビー・ギレスピーのふっとい自伝が出まして、それが初めての大ヒットアルバム『スクリーマデリカ』を出したところで終わるんですね。僕はそのあとのアルバムが好きなんですよ。そこで終わるんか〜い! っていう感じもいいなと思いまして。

ちょうどいいことに、今年は『1』というアルバム——つまり、僕がとうとう1人になったアルバムからちょうど10年ということもあって、じゃあ僕も2014年までを区切りとしようと。そう決めたとき、自ずとテーマも決まった気がしまして。つまり「なぜひとりになったのか」という、その答えらしきものが見つかるまで書こう、という感じでした。

ーそんな主題とも通じるかと思いますが、自叙伝を執筆する際に、思い浮かべた読者の姿のようなものはありましたか。

志磨:いままでの僕の活動をよく知ってくださってる方や、自分のつくるものを好んでくださる方はもちろんですけど——この本を書き始めるにあたっては、そうでない方も手に取る可能性を想像して書いた方が、気は楽ですので。

どういう人が面白く読み終えてくれるかなと考えると、自分と似たような境遇であるとか、ひとところにじっとしていられないような性質の人——それは、場所でも対人関係でも同じで、長く、一つの場所にとどまることができないということ。

何て言うのかな……自分が縛られる感じ、と言いますか。僕はそれがどうも生理的に耐えられないみたいで。君は日本人だからとか、君は男だからとか、僕はどうでもいいんですね。それが何であろうと。「君はここでじっとしてなさい」という圧力にどうしたって耐えられないんです。それが自分でつくったバンドであれそうなんですね、僕は。だから、うん。

例えば、本のなかにも何度も出てきますけど、毛皮のマリーズがアルバムを出すたび、ファンの方々からなんと言われてきたか。「こんなの毛皮のマリーズじゃない」って必ず言われてきたんです。そういうふうにしか歩みを進められないんですね、僕は。

そういう人、いらっしゃるかしら、ほかにも。そういう人がいたら、「わかる、わかる」と読んでくださればいいなと思っております。

—『ぼくだけはブルー』を読んでいて、例えば1人であるということが寂しかったり、つらかったりする人がいたとして、そこに寄り添うような、仲間がいるような気持ちになるのではないかとも感じました。1人であることって、人間の根源的な悩みだと思うので……。

志磨:僕なんかは意外と、1人であることを、つらいとか寂しいと思わないところがあって。こうして1人でいるのが自分は楽なんだろうと。1人なら何をやってもいいし、いつやめてもいい。その状態がすごく自然で。そんなことを言うと、冷たい人だと言われそう——斉藤由貴みたいになりますけど(笑)。

バンドを長く続けられないだとか、コロコロとメンバーが変わるだとか、そういうことを繰り返してると、人間的にものすごい「欠陥」があるんじゃないか、あの人は、と思われていると思うんですけど(笑)。それに対して、僕はこういうふうに思っています、というのを書いたつもりですね。うん。そうそう。

同じように、「欠陥」があると周囲から思われている方が、これを読んで「そうそうそう!」っていうふうに思ってもらえれば。その人に寄り添うだとか、救うだとか、そんなおこがましいつもりではなく、いわゆる「あるある」みたいなね、そういう感じですね。それぐらいの気持ちです。「ひとりぼっちあるある」みたいな。

—経験から申し上げますと、救われる側は勝手に救われます。

志磨:そうそう。そうなればもちろんね、願ってもないこと。

—今回のような執筆と、歌詞を書くというのは、やっぱり全然違う動きなのでしょうか。

志磨:そうですね。歌詞には必ず伴奏が付きますので、ことばに頼らずとも伝わる部分が多いというか。すでにムードっちゅうもんがありますので、音楽には。

日常でもあるじゃないですか。すでにムードができあがっていて、あとは一言添えるだけ、というような。気まずいムードが流れたあとに「ちょっと話いいかな」みたいな。もうそれだけで、あ、これ絶対怒られるやんっていう感じとか(笑)。あるいは、ロマンチックなムードが流れたあとの愛の告白であるとか。そういう、ムードに付け足すだけのことばが歌詞なので。

だから、文章はまだ全然わからないですね。どういうふうに書けばいいのか。歌詞ほど自由自在にはまだ操れない、というところです。一旦書き上げたものを読み返すたびにほころびが見つかって、それをちまちま直してるうちに、また別の箇所が気になって、いつまでたっても終わらないという感じでした。

—自分のいろんなところを言葉にする、つまり、かたちに表してしまうのは怖いと、個人的には思っていて。その思いからの質問ですが、自分の人生を言語化する苦しみもあったのではないかと思っていて。志磨さんにとって、それはどういう作業でしたか。

志磨:いえ、苦しみはさほどなくて。僕にとっては、人生の言語化というより人生の編集なんですね。

僕の人生から不要な部分を取り除き——不要というのは、嫌な思い出ということではなく。嫌な思い出を隠すということではなくて、よりドラマティックに! ですね。ロックを志した者の人生として、あるべきエピソードだけ残す。

つまり、最低なエピソードと最高のエピソードだけを残し、普通のエピソードを削っていく。僕は普通じゃないって思いたいわけですから。そうやって編集していくと、自分の人生がたいそう面白いものに見えてくる。

これは何て言うのかな、まったくつらい作業ではなく、むしろとても面白い、うん。何だか自分がすごい人に思えてきたぞっていうことなので。なので、とても楽しく、書き上げたという。とんでもない、とんでもないことですけど(笑)。

—『ぼくだけはブルー』では「証言」として、周囲の方が志磨さんをどう見てきたかというコラムも掲載されていますね。例えば、ご両親、「毛皮のマリーズ」メンバーであり友人である越川和磨さん、初期のマリーズメイニア……。特に『1』リリース当時のファンの証言は衝撃的で、『the dresscodes magazine』で募集していた際には「私への暴言罵倒などが含まれる表現も歓迎いたします」って書いてありましたね(笑)。

志磨:誘導してますよね(笑)。それは僕の悪い癖でもあり、僕の創作の特徴でもありますけど、この本を編集する視点で、そういう意見がここに挟まるとすごく面白いなと思って。僕への罵り、誹謗中傷であるとか——とにかく否定的な意見が並んだページがあれば、本として締まるなあ、と。そういう思いでした。

—策略だったんですね。そして、厳しい意見も含めて掲載されていらっしゃいました。

志磨:これは投稿してくださった皆さんの名誉のためにも言っておかなきゃならないのですが、ほとんどの投稿の文末は「しかし、志磨遼平は私にとっていまも素晴らしい存在である」というふうに締めくくられていました。僕が、そこを省いています。

—省いていらっしゃったんですか!

志磨:はい。それも一応、お伝えはしましたよ。すごく悪意のある抜粋をしますけど、どうかその意図を汲みとって、お許しくださいと。皆さん快く許可してくださって。一番ひどいところを抜粋してあるだけで、その前後にはすごく愛のある文章が隠れているんですけど。そんなん載せたところでね、面白くなりませんから。

—証言があることで、物語を立体的に捉えることができたように感じました。ご本人からしたら、身近な人から見た自分の像っていうのを確認することって、あまりない機会ですよね。

志磨:そう、盗聴でもしないかぎりそんな機会はない。(証言者への)インタビューの場に僕は立ち会ってませんので、いわゆる欠席裁判のかたちというか。だからあとから読むのがすごく面白かった。

僕の主観的なエピソードに、客観的な「証言」が加わったことで、テクスチャーというか、質感、実感が伴ったような印象を受けました。答え合わせというか、僕の供述に嘘がないかどうかの事実確認というか。

—こう見えてるんだ! といった驚きはありましたか?

志磨:いや、自分でも自覚しているところが多かったですね。僕が人の話を聞かないとか(笑)。「わかりました!」って言ってわかってない、とか。

小学校のときの通知表を思い出しますね。先生からのコメント。志磨くんは真面目に授業を受けているようで、まったく話を聞いていない、いつも上の空でそわそわしている、集中力がないと。わかってないなあ、集中力はあるんですよね。授業が面白くなかっただけ。

—同級生から「志磨さん」と呼ばれていた小学生時代ですね。

志磨:そうそう、そうです。同級生から敬語を使われていたという。

—先ほども触れましたが、『ぼくだけはブルー』では幼少期の記述もあって、とても面白く読ませていただきました。

志磨:そのあたりは難しかったですね。「ミュージシャンの自伝、幼少期のところ飛ばして読みがち」ってありませんか。音楽にまつわるエピソードが出てくるところまで飛ばして読んじゃう。

「俺が生まれた街は……」とか「俺のおふくろは……」みたいなパートは、よっぽどじゃないと興味が持てない。だから、幼少期の記述をどれぐらい膨らませるかは悩みながら書きました。

—『ぼくだけはブルー』の最終章あたり、ドレスコーズの初期メンバーが全員脱退するところの記述で、幼少期の自分と変わっていなかった、地続きであったというような文章もありました。そういうふうにつながっていくのかと、厚みを感じました。

志磨:そう。それが本当に、(メンバー全員脱退の)当時の実感で。バンドを始めるまでは誰にも心を開かない内気な子どもだった自分が、あれよあれよと別人のようになって、性格もずいぶん陽気で社交的になったもんだと思っていたのですが。ところがどっこい、幼少期の頃から何ひとつ変わってないじゃないかってことを初期メンバーといると痛感しまして。なので、小さい頃の話をしておかないと、のちのちその話につながらないんです。

どうしても逃れられない運命というんでしょうか。かと言って、それが不幸というわけではないし、トラウマというほどでもないんですけど……。どうも僕の性格、性質みたいなものが、幼少期の時点で決まったんだなというのが。

—『ぼくだけはブルー』というタイトルは、小学生時代、志磨さんだけが青いランドセルを選んだことと、高校入学時に1人だけ髪の毛が青かったことからきていますよね。

志磨:それもそうですし、憂鬱の「ブルー」ともかかっています。なぜか、僕だけ——僕は人見知りの気もあるので——みんながワーッと盛り上がっていると、なぜか塞ぎ込んで1人で落ち込んでしまうっていう。最初は別のタイトルも考えていたんですけど、書いてるうちにふと『ぼくだけはブルー』っていうのは、いいかもしれないと思ったんです。
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