三木道三「一生一緒に〜」の“女編”が大ヒット…RSP元メンバーが今だから話せる“当時の本音”

0

2024年09月25日 09:20  女子SPA!

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

女子SPA!

Sakiさん
 2007年の夏、とある曲が女性たちの心を掴みました。三木道三「Lifetime Respect」のアンサーソング、「Lifetime Respect -女編-」です。

 女性目線で歌った等身大のラブソングを、当時有線やラジオで耳にした人も多いでしょう。大ヒットソングの歌い手であるボーカル&ダンスユニット「RSP」は、その年の歌番組で最優秀新人賞を獲得。2013年に解散するまで、多くの女性たちの支持を得ました。

 しかし、華やかな世界の裏側には苦労がつきもの。RSPの元ボーカルSakiさん(Instagram:@saki8mt)は、当時の自分を振り返り「劣等感と、自己否定と疎外感の塊だった」と告白します。

 解散後、「RSPのSakiであることを忘れてほしかった」と一度は表舞台を去った彼女。今だから話せる“あの頃の本音”と、今の生き方に至るまでを教えてくれました。

◆デビュー当時から抱えていた悩み

 2006年12月、RSPのメンバーとしてデビューしたSakiさん。デビュー当初から、劣等感や疎外感を持っていたといいます。

「初期のRSPはボーカル2人、ダンサー4人の6人編成。だからボーカルは横並びで、同じ立ち位置だと思うじゃないですか。でも1stシングルから、私はぽんっと後ろに下げられたんです。多分、それが劣等感の始まりだったかもしれません。

『なんで自分じゃないんだろう。ふたり同じ立ち位置じゃないんだな』と。他のメンバーが全員関西出身で、私だけ福岡出身だったことも疎外感の原因かな。CDの担当ディレクターさんも、私たちの担当の人も関西人。メンバー自体がオーディションで集まっているから、年齢もバラバラ。いちばん下のメンバーとは8歳も違っていました」

 ソニー・ミュージックから鳴り物入りでデビューしたにもかかわらず、1stシングルの売上は芳しくない結果に。「何か絶対に売れるものがないと生き残れない」と当時のプロデューサーが考案したのが、ソニーが得意としていたサンプリング(※楽曲や音源の一部を切り出し、それを新たな楽曲の一部として用いる手法)を用いた楽曲リリースでした。

「関西から生まれたグループだから、関西弁のサンプリングだったら売れる確率が上がるだろうって。たくさんの候補曲の中から『Lifetime Respect』が選ばれて、私たち自身も『めっちゃいいやん!』ってワクワクしました。ただ私とAiちゃん、どちらが曲の世界観に合ったボーカルかと言われると、やっぱり関西で生まれ育ったAiちゃんだった。ヒットを機にRSPはAiちゃんを中心に進んでいって。私は諦めを経て立ち位置を受け入れつつも、自分とチームのバランスの中でもがいていました」

 RSPで活動した年月を振り返り、Sakiさんは「私もAiちゃんもお互いに苦しかった」と口にします。

◆女性ボーカルふたりが背負ったプレッシャー

「当時は似たようなガールズグループがたくさんいたから、差別化を図るためには“ちょっと不器用な関西弁の女の子”を押し出していくほうが、おもしろくて正解なのかなとわかっていました。元カレの話だったり、ペットの話だったり、家事が苦手な女の子の話だったり。基本はAiちゃんをメインにした世界観。でも私と彼女は、育ってきた環境も性格もまったく違う。あまりにも自分の内面とは違う楽曲なこともあって、インタビューでも何を答えたらいいかわからなかった。だけど、大人たちの期待やプレッシャーを一身に背負っていたAiちゃんも、すごくしんどかったはずです」

Sakiさんの目には「本当にまっすぐでピュアな人」に映っていたという相方のAiさん。グループ内での自分の軸を見つけられず、Sakiさんは次第に自分の存在価値がわからなくなっていったと言います。

「劣等感や自己否定の感情を抱えていると、自分自身がどこか醜く思えて、素直な感覚が鈍ってしまって。そして、その素直な感覚さえも、周りを含めた色々なことを考えてしまうと、表に出せないジレンマがありました。そんな中で、自分を上手く表現できなくなっていったのかもしれません」

 そしていつしか、「Aiちゃんを支える役割として存在しよう」と思うようになっていきます。

「自分が何をしたらいいのかわからなくなってしまい、Aiちゃんがやりたいことを一緒にやろうと思いながら活動していました。一方で、私個人がやりたいこと……たとえば大好きなジャズの要素を入れたいと考えても、『この情熱は共有できないだろう』って感覚があった。でも、それを直接言えないし、上手く伝えられない。決して不仲ではなかったけど、『いつか“離婚”するから頑張ろう』って意識を持っていたから走り抜けられましたね」

 グループを取り巻く“大人の事情”やしがらみ、自己否定に劣等感。外側からも内側からも襲ってくるそれに、「歌ったり喋ったりしようとしても、体が拒否して喉がキュッと締まるときがあった」のだとか。何度も悩み、苦しみ、喜びを分かち合った果てで解散を迎えたとき、Sakiさんは「救われる出来事があった」と明かします。

◆「完成された理解者」解散後にわかった相方の想い

「音楽としては不完全燃焼で終わってしまいましたが、最後に救われたというか、浄化できたことがあるんです。解散後、Aiちゃんはすぐにソロ活動を始めて、私とのことを書いた『Y字道(わかれみち)』という曲を出しました。歌の中で私のことを“完成された理解者”と表現してくれて。私がそうであろうとしていたこと、彼女のいちばんの理解者であろうとしていたことを、わかってくれていた」

 RSPの中で自分の軸を見つけられず、長く苦しんだSakiさん。しかし苦楽を共にした相方からのメッセージに、「人を理解して支えていくのも、私のひとつの特質だった」と気付かされたといいます。そのことが、解散後の生き方に影響を与えました。

◆RSP解散後、大阪のジャズレストランでのバイト風景

「解散後、私は“RSPのSaki”であることを忘れたかったし、みんなにも忘れてほしかった。フラットな自分に戻りたくて、どこにも所属せず表に出るのを一度やめようと決めました。

来るべき時のために頑張ろう。そう思って大阪に移り、ジャズレストランでバイトをしながらライブハウスにも遊びに行くうちに、自分でもジャズライブをするようになっていきました。そんなとき、ボイストレーニングの講師にならないかと声がかかりました。一度は断ったんですが、講師になればプロを目指す子の力になれて、“RSP時代に自分の周りにいてほしかった大人”になれるんじゃないかと考えたんです」

 精神的に追い詰められていたとき、信頼できて何でも喋れる大人を自身が見つけられていたら、違っていたのではないか。バラバラに集まったグループだからこそ、メンバーの悩みをフラットに受け止めてくれて、対処してくれる役割を担った大人が必要だったのではないか。つらさを経験した身だからこそ、ボイトレで若い才能を支えられると感じたSakiさんは、講師としての道を歩み始めます。

◆コロナ禍でライブ配信をスタート

「講師として教えるうちに、ボイトレの奥深さに気付いたんです。そこで、言語聴覚士や心理カウンセラーなど、専門家の方に話を聞いたり、解剖学などの本を読み漁ったりしました。心・頭・体は別々のようでいて、じつは全部つながっている。そして、つながっていると認識することが、生きる上で大事になる。それをもっとボイストレーニングに活かせないかと思いました。

そこで、“ボイスフィットネス”と名付けて一般向けのフィットネスとしてやりたい! って思うようになって。それで稼いだお金で、40歳の誕生日までに名刺代わりになるアルバム作ろうと考えました」

 ところが新しい夢を見つけ動き出した矢先に、新型コロナウイルスの感染拡大が訪れます。思うように活動できなくなり、音楽業界の先輩の誘いで始めたのがライブ配信でした。歌ったり雑談したり、リスナーとの交流に楽しみを見出したSakiさんでしたが、当初は「RSPのSaki」であることを公表せずにいたそうです。

「何者でもない、ありのままのSakiとしてやりたかったんです。RSPのことを話したり、当時の楽曲を歌ったりも、めったにしませんでした。その姿を見て離れていった人もいたけど、配信を続けるうちにありのままの私を応援してくれる人が増えていって。

そこで自信がついて、『もう話してもいいかな』と思えるようになりました。やっぱり自分を作ってきた経歴のひとつで、過去も私自身の一部だから。RSPがあったから今の自分がいるって、今は心の底から思えています」

◆ライブ配信の力で思い出を乗り越える

 ライバーとして着実にファンをつけたSakiさん。クラウドファンディングで資金を募り、2021年12月18日、40歳の誕生日に念願のミニアルバム『Hourglass』をリリースしました。

「どこかに所属したり、スポンサーをつけて誰かにお金を出してもらうと自由がない。メジャー時代、散々何かの縛りの中で生きてきたので、それをいったん全部取っ払いたかった。自由な自分から、何が出てくるのかを知りたくて。40歳の誕生日に何とか間に合いました。クラファンが成功したのは、ライブ配信の力が大きいですね。ソロの、ありのままの私を応援してくれるリスナーさんたちに自信をもらい、自己肯定感もすごく高まりました。昔では想像できないくらい、今は『誰かに何かを言われても平気』という自信が生まれたかな」

 ライバーマネジメント事務所の「HOV LIVE」に所属し、2022年8月には活動拠点を再び東京へ。そこにはどのような心境の変化があったのでしょうか。

「RSP時代に対してコンプレックスやトラウマがあったように、東京に対しても同じ思いがあって。自分の中では、“失敗した場所”のような気持ちを持っていました。それを、もう一度塗り直したくなったんです。今の私ならどこに行っても大丈夫だって」

◆RSPの活動が与えてくれたこと

 上京後は大きな会場のステージに立ったり、全国生演奏ツアーをしたりと、多彩な顔を持つ“音楽活動家”として精力的に活動しているSakiさんですが、「もっと自分の質を上げていきたい」と意気込みます。

「音楽は人に伝染していく波動で、可能性やパワーが秘められているものだからこそ、歌う人の状態がすごく大事です。でもライバー活動は、ドキュメンタリーのように苦しみも喜びもリスナーさんとリアルタイムで分かち合います。だからこそ嘘がつけないし、ごまかすと心と体のバランスを崩す引き金にもなりかねない。その状態のままでは、プラスのエネルギーは生まれません。私は落ち込むとき『太く、深く、短く!』を実践し、正直な状態を心掛けています。

同時に、人としてもっと成長していきたい。競争社会の中でも自分らしくいられて、持っている才能が自然に輝ける状態でいること、そして自分のフェーズに合わせてしなやかに動くことを、これからも怖がらずにやっていきたいです。きっと皆もそれぞれなにかと戦っていると思うからこそ、私は皆と日々エールの交換をして、ずっと健康に笑って過ごしたいんです。Sakiという人間がそういう純粋な想いで歌っていることを、これからもいろんな人に届けられたらいいな」

 輝かしくも苦しい過去を乗り越え、ありのままの自分で生きられる場所を見つけたSakiさん。激動の人生について、最後にこう締めくくってくれました。

「自分のやっていることや、己の弱さから逃げた時期もあったし、認められない時期もあった。けど時間をかけて、良いところとそうじゃなかったところを認めて向き合ってきました。もちろん、まだまだ向き合わないといけない部分もあると思います。RSP時代の経験は、私が私にしかできない生き方をしていくための、人生の下積みだったんだろうな。今は笑ってそう言えますね」

<取材・撮影・文/倉本菜生>

【倉本菜生】
福岡県出身。フリーライター。龍谷大学大学院在籍中。キャバ嬢・ホステスとして11年勤務。コスプレやポールダンスなど、サブカル・アングラ文化にも精通。Twitter:

    ニュース設定