『光る君へ』公卿たちの注目と“政”だった彰子の出産、そして道長派と伊周派に分かれる宮廷

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2024年09月29日 15:02  日刊サイゾー

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一条天皇を演じる塩野瑛久(写真/Getty Imagesより)

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回の『光る君へ』「待ち望まれた日」では、一条天皇(塩野瑛久さん)の中宮・藤原彰子(見上愛さん)が敦成(あつひら)親王を出産するシーンが印象深かったですね。

 現在以上に、平安時代の女性は命がけでお産に挑まねばなりませんでした。ドラマでも大勢の僧侶や陰陽師たちのご祈祷によって、怨霊や物の怪(もののけ)の類が彰子の身体から引き剥がされ、巫女の女性の身体に代わりに取り憑いて暴れる様子が克明に描かれていましたね。ずいぶんと騒がしい中での出産で驚いた読者もおられるでしょうが、当時のお産は貴人になればなるほど、あのような「総力戦」になりがちでした。高い身分の者ほど敵は増える一方ですから、大勢の味方の念力によって、邪悪な思念を跳ね返し、無事出産にこぎつけるのです。

 ドラマでは『源氏物語』の作者として有名になりつつある藤式部ことまひろ(吉高由里子さん)に、道長(柄本佑さん)から彰子の初産の様子を記録するように依頼があり、それがきかっけとなり『紫式部日記』は描かれたということになっていましたね。

『紫式部日記』を含めさまざまな記録に、彰子の出産時に調伏された物の怪たちが「自分は誰それの霊である」という名乗りをあげた事実は見当たらないのですが、今は亡き一条天皇の皇后・定子(高畑充希さん)や、定子の母・高階貴子(板谷由夏さん)の霊などは確実に現れていたはずです。

 彰子の初産の翌年・寛弘6年(1009年)には、藤原伊周(三浦翔平さん)の叔母・高階光子(兵藤公美さん)が彰子と敦成親王を呪詛する事件を起こしたとされ、伊周もその罪に連座して、朝廷への出仕を禁止されました。伊周本人はわずか4カ月ほどで罪を赦されたものの、その翌年(寛弘7年)には失意のうちに亡くなっています。

 鎌倉時代に書かれた『古事談』という説話集によると、彰子が敦成親王を授かるまでは、昼は道長におもねっている公卿たちですが、夜はこっそり伊周のご機嫌伺いに彼の屋敷まで参上していたそうです。ところが、後に天皇に即位し、後一条天皇となられる敦成親王の誕生後は、伊周を訪問する者は絶えていなくなったそうで、伊周に残された現状打開策は呪詛くらいしかなくなっていたと考えられるかもしれません。

 彰子の初産のときに現れた物の怪の名乗りから、密かに伊周とその血縁の者は道長によってマークされており、彼らになにか怪しい行動が見られれば、すぐさま罰が下るようになっていたのでしょうね。貴人のお産にまつわるすべてが「政治」に結びついていた当時らしい展開です。

 中宮・彰子の最初の出産は、貴族たちから熱い注目を浴びていたビッグイベントでした。ドラマにも彰子が養い親として育てている、一条天皇が皇后・定子との間に授かった第一皇子・敦康親王(渡邉櫂さん)が登場していますが、親王は定子の兄である伊周(ドラマでは、道長と彰子を熱心に呪いつづけているよう描かれている)の甥にあたります。仮に彰子が一条天皇との間に皇位継承件のある皇子を授かれぬままだった場合、敦康親王が次なる帝になる可能性は高くなります。

 そうなれば伊周の天下が再び訪れるのですが、道長もそう簡単に諦めるとは思えず、宮廷は伊周派と道長派に二分され、内乱のようになることが予想されました。多くの公卿たちが彰子の初産に注目していたのは、彼女が皇子を授かり、道長政権を名実ともに盤石にできるかどうかが危惧されたからでしょう。定子の出産の記録が比較的乏しいのに対し、彰子の記録が非常に豊富なのは、まさに現在の宮廷の最高権力者である道長と、その一派の今後の命運が彰子というひとりの女性に託されていたからで、その期待の表れなのです。

 しかし彰子自身は初産から皇子を授かる幸運に恵まれたものの、義理の息子の敦康親王こそ、自分が腹を痛めて産んだ敦成親王より次の帝にふさわしいと強く主張し、道長を困らせるほどでした。しかし、敦康親王は叔父・伊周の死によって有力な後見人を失っていますから、そういう皇子はいくら先に生まれていたところで、別の有力な後ろ盾を持つ弟に帝位を譲るほかはありません。

 ドラマの彰子は、「(中宮さまに本当の)御子が生まれたら、私とは遊ばなくなるのでしょう」と心配する敦康親王にむかって「(私はあなたの)御心にそぐわぬことは決してございませぬ」と約束しており、2人の近すぎる距離は『源氏物語』における「禁断のカップル」藤壺の宮と光源氏を思わせる「何か」として描かれていたので興味深く拝見しました。

『源氏物語』に詳しくない方のために補足すると、光源氏は幼少時代によくしてくれた自分の義母・藤壺の宮に禁断の恋心を描き、執着しつづけるのです。史実でも彰子と敦康親王は仲睦まじかったものの、さすがにそれが『源氏物語』のストーリーに影響したとは考えにくいものはあります。しかし、ドラマではどうなるでしょうか。2人がそういう秘密の関係になるという超訳的展開にはならないことを祈ります。

 さてドラマの中盤では、敦成親王がすくすくと成長していることを祝う「五十日の賀」の儀式が描かれました。道長が「無礼講」と言ったので、男性陣はかなりハメを外して酔っ払い、セクハラめいた言動も多々見られましたね。

 藤原実資(秋山竜次さん)が女房の袖を手に、彼女が何枚重ね着をしているかをチェックしていたり(一条天皇が出していた倹約令をちゃんと守っているか確かめている)、藤原公任(町田啓太さん)が「若紫はおいでかな」と『源氏物語』作者の藤式部ことまひろに呼びかけたものの、彼女には「光源氏のような殿御もいないのに、若紫はおりません」などと返され、一本取られる様子が描かれた部分も『紫式部日記』には描かれています。さすがに『紫式部日記』では、公任に言葉で言い返すことはせず、そう思いながらも無視したということにはなっていますが……。

 日頃は気取って、偉そうにしている男性陣のウラの顔を暴いたのも、紫式部という作家らしいと思われてなりません。

 ドラマでは、道長とまひろの本当の関係を疑う者が徐々に増えつつある中、2人が仲良く祝賀の歌を詠みあっている様子を見せた直後、道長の正室である源倫子(黒木華さん)が顔色を変えてその場を立ち去り、その後を道長が追いかける様子も描かれました。

 これも実は『紫式部日記』に登場するエピソードなのですが、なぜ倫子が退席までしてしまったかの理由は今日まで明らかにされていません。泥酔した道長が彰子にむかって口走った「母上(=倫子)はいい夫を持ったなぁ」という自画自賛に不快を示したともいわれますが、それもどこか不自然ですね。やはり道長と紫式部の「関係」に嫉妬して不快を隠せず、退出したともいわれますし、『紫式部日記』の別の部分で、紫式部の局(つぼね)を深夜こっそり訪ねてきた道長を招き入れはしなかった……という匂わせ描写とあわせると、紫式部=道長妾説が囁かれるのも無理はないという気はします。日記の中で、清少納言(ドラマではファーストサマーウイカさん)や和泉式部(ドラマでは泉里香さん)などの人柄をケチョンケチョンにけなしている紫式部ですが、自分もけっこうゲスいことをやってしまっているのには苦笑するしかありません。

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