“58歳で発達障害” 通告のフリーライター「診断結果を伝えたら、音信不通になった友人たちも」

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2024年10月10日 09:21  日刊SPA!

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桑原カズヒサ氏(60歳)
孔子の言葉である「論語」の一節に「40歳で迷うことがなくなり、50歳で天命を知り、60歳で他人の言葉を謙虚に受け止められるようになり」とあるが、58歳にして発達障害診断を受け、迷いの最中にいるフリーライターの桑原カズヒサ氏(60歳)に話を聞いた。
◆小学校の通知表には6年間「落ち着きがない」

 桑原氏は1963年に広島県の山奥に生まれ育ち、“昭和”らしく、体罰は当たり前の環境で育つ。小学校の通知表には、6年間「落ち着きがない」と書かれ続けた。

「落ち着きがないという自覚はなかったです。授業中は、教科書やノート、机にまで落書きをするような子でした。クラスメイトには、自分にも描いて欲しいと言われるくらいでした。給食では量が食べられず、偏食も酷かったので、昼休みは教室に居残って食べていました」

 桑原氏本人の認識は「大人しくて目立たない、臆病な子」だったが、現実は違ったようだ。

「後ろの席の子に話しかけたりして、よほど落ち着きがなく迷惑だったのでしょう。雪の日に裸足で、グラウンドで走ってくるように先生に言われました。今だったら、虐待ですよね」

 そんな桑原氏は、中学校卒業後に、クラスメイトの女の子から「あなたのあだ名は躁うつ病だったんだよ!」と言われたこともあった。

「小・中・高校時代は親しい友だちがおらず、誰とも会話がかみ合いませんでした。だけど、『躁』だと言われるのだから、いきなり好きなことを一方的に話すなどあったのでしょうね」と振り返る。

◆大学を卒業後に不安障害と診断される

 大学入学を機に、東京の阿佐ヶ谷のアパートでの1人暮らしが始まった。

「高校までと違って、大学では単位さえ取れば卒業できるので、逆にコミュニケーションを取らずにすんで楽でした。4年生の時に就職活動をしましたが、リクルートスーツで身を固めた集団を見ただけで怖くなって逃げだしました。バブル崩壊前で売り手市場だったにも関わらず、就職はしませんでした」

 卒業後は、大手出版社に就職した知人の紹介で、出版業界にフリーランスのライターとして出入りし活躍するようになる。また、広告製作者としても、収入を得た。

「30代から40代にかけて、売上は600万円くらいでした。広告の仕事も多く、食うには困りませんでした」

 しかし、40代の終わりごろから、将来への不安から、心身症のような症状が出始めた。

「熱が下がらないので内科を受診しましたが、どこも悪くない。胸と背中が張り付いたように感じ、苦しい。過換気症候群のような症状が出る。眠れない・倦怠感が酷いなどの症状がありました」

 内科的な問題ではないと言われ、初めて精神科病院を受診した。

「20代の頃より不眠などの症状がありましたが、当時はカジュアルに精神科病院を受診できるような時代ではなかった。10年間くらいは、整体師に相談していました。それが、精神科病院への受診が遅れた理由です」

 診断結果は「不安障害」だった。14年もの間、その精神科病院に通った。

◆新型コロナウィルスの蔓延で失職し生活に困窮

仕事面では、順調だった桑原氏だったが、2019年末からの新型コロナウィルスの流行で生活が一変した。外出自粛要請の影響もあり、広告業界は広告費を抑えるようになる。桑原氏は、取引先を失い生活に困窮するようになった。

「今でも食事は1日2食です。某コンビニエンスストアのカレーは、3食で100均ショップのカレーよりも安いんです。今は、そのカレーばかり食べています」

 桑原氏は、多くの物が並んでいると、選ばなければいけないという焦りや情報量の多さから、パニックを起こすという。それなので、食材を買いに行けるお店は限られている。そんな中で、通院していた精神科病院の医師が引退し、転院をよぎなくされた。

◆大学病院で下った発達障害診断

 転院先の大学病院では、初診時は、1時間以上かけた、医師の問診とチェックリストの記入が待っていた。2回目の診察で下ったのは、自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠如多動症(ADHD)の併発という結果だった。

「『はあ?』と思いましたよ。僕は、発達障害というと、イーロン・マスク氏のようなギフテッドにしか下らない診断というイメージを持っていました。だから、『僕の才能は何ですか?』と聞くと、カウンセラーが『30年も書いているんだから、あなたの才能は文章です』と渋々答えてくれました」

 そんな桑原氏に医師は手厳しかった。

「『生活が大変なんです』と言ったら『これからどうするんですか?』と聞かれました。『どうしましょうかね?』と答えると『さすがADHDですね。計画性ないね!』と言われました」

 桑原氏の幼少期には、発達障害という概念自体がなかった。発達障害者支援法が日本で施行されたのは2005年だ。まだ新しい概念だ。桑原氏は驚きから、長年一緒に仕事をしてきたデザイナーに知らせたが、彼女に驚きはなかったという。

「“外出先の道端であっても地面にバッグの中身を全部放り出して財布を探す”、“独り言を言いながら駅のホームを歩き回る”、“仕事中、カッとなるとパソコンを叩き壊す”、“会話していると文脈を無視して急に話題を変える”など、自分の特性を列挙されました」

 今、振り返ると、発達障害の特性だと思えるものは思い当たるという。

「飲み会やカラオケ、キャバクラなんかも、1回目は誘われるんです。だけど、2回目以降は誘われなくなる。何かその場に合わないことを言っていたんでしょうね。20〜30人の集団がとにかく恐怖でした。コミュニケーションが苦手で、雑談ができません」

◆発達障害の診断を受けただけで自分は変わらないのに

 桑原氏は、発達障害の診断が下ったこと自体よりも、周囲の友人・知人に話したら、離れて行かれたことがつらかったという。

「10年くらいの付き合いがある男性の友人がいました。診断が下ったことを伝えると、LINEは未読になり、音信不通になりました。他にも数人、音信不通になった人がいます。発達障害診断を受ける前後で、僕自身は変わっていないのに…。恨みはないですが、寂しいです」

 そんな桑原氏を「熟年離婚された人みたいに落ち込んでいる」と言う人もいた。だけど、幸いなことに理解してくれる友人・知人もいた。

「今も発達障害診断を受け入れられているかといったら、受け入れている最中です。頭では分かっていても、心がついていかない。だけど、今後は、理解してくれた友人・知人たちのためにも、本を出版するなど、ポジティブなことを知らせたい。

生まれてきた時代や場所・環境って、個人ではどうにもならない要因ですよね。昭和時代を美化するつもりはありませんが、昔は『規格外』の人間にも寛容だったからこそ、僕は食べていけていた。ラッキーだったと思っています」

 時代の流れにより、「個性」が「障害」と言われることも、その逆もあり得ることだ。個性なのか、障害なのかのラインは、時代や環境の変化による流動的なものなのではないか。

<取材・文/田口ゆう>

【田口ゆう】
ライター。webサイト「あいである広場」の編集長でもあり、社会的マイノリティ(障がい者、ひきこもり、性的マイノリティ、少数民族など)とその支援者や家族たちの生の声を取材し、お役立ち情報を発信している。著書に『認知症が見る世界 現役ヘルパーが描く介護現場の真実』(原作、吉田美紀子・漫画、バンブーコミックス エッセイセレクション)がある。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1

このニュースに関するつぶやき

  • 「発達障害」だと、知人や友人に告知する理由はなんですかね?! 別に告知する必要がないのでは? 必要性があるとしたら、便宜をはかってほしい時だけだよね?
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