遠藤一彦は1年遅れでプロ入りした江川卓を見て「ライバル心なんて芽生えていなかった」

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2024年10月11日 18:21  webスポルティーバ

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連載 怪物・江川卓伝〜大洋のエース・遠藤一彦が抱いた畏怖の念(前編)

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「向こうはライバルなんて思ってないんでしょうね。こっちの一方的な片想いですよ」

 江川卓のライバルと口にするのも憚(はばか)られる。自分とは天と地との差があると本気で感じている遠藤一彦の深奥に潜む思いは、じつに純粋だった。

 1980年代、怪物・江川に真っ向から立ち向かえるピッチャーをひとり挙げろと言われれば、真っ先に名前が浮かぶのが大洋のエース・遠藤である。切れ味鋭いフォークを武器に、83年から2年連続最多勝を獲得し、「江川のライバル」として名実ともに球界を代表するピッチャーへと上り詰めた。

【首都大学リーグ通算28勝】

 1977年のドラフトで大洋に3位指名された遠藤は「指名されるとは思ってなかったですから......」と謙遜ではなく、偽りのない様子で語る。

 首都リーグで通算28勝を挙げ、東海大のエースとして活躍していたものの、ストレートは130キロ台で、決め球のフォークもまだマスターしておらず、自己評価として「プロのレベルではない」と感じていた。

 そんな遠藤に江川について聞くと、こんなエピソードを教えてくれた。

「高校3年(学法石川・福島)の5月か6月頃に作新学院と練習試合が組まれていたのですが、雨で流れてしまいました。その時、もし試合をしていたら『生の江川を見た』とはしゃいでいたんでしょうね。とにかく、栃木で投げている選手のことが地方紙の全国版で名前が載るって、それだけですごいことです。異例のことだと思います」

 高校時代の江川と対戦、もしくは生で見たことで、のちの野球人生になんらかの影響を受けたプロ野球選手は数多くいる。西本聖、篠塚和典、中尾孝義、達川光男......江川と対峙したことで独自の野球観が生まれ、それに対抗すべくレベルアップを図っていく。

 しかし遠藤は、仮に作新学院の江川と対戦したとしても、「何も変わらなかったと思う」と断言する。それほどアマチュア時代の遠藤にとって江川は遠い存在であり、プロ野球の世界へ入るなど想像もしていなかったからだ。

「大学時代の球速はせいぜい135キロ程度。当時はスピードガンがなかったから、正確な数字はわからないけど、そんなボールでプロから指名されると思います? 首都大学リーグ通算28勝なんて、別にたいした記録ではないですから。江川は東京六大学で47勝しているわけでしょ。東京六大学と首都大学リーグの当時のレベルは、雲泥の差ですから。

 大学時代は江川とオープン戦でも当たらず、投げ合ったのは4年の明治神宮大会。対戦はあの一回きりですが、最初に江川の姿を見たのは大学2年の時です。あの体型を見たら、本当に"怪物"だなと思いましたよ。僕も身長は182センチですが、プロ入り当初の体重は63キロほどで、もやしみたいな選手でしたから」

 身長だけなら遠藤も負けていないが、体の厚みが違った。とくに下半身を比べると"月とスッポン"で、江川の馬尻と呼ばれた大きくがっしりとした下半身は、見る者を圧倒した。

【江川卓はやっぱり怪物だった】

 思いもせずプロ野球選手になった遠藤だったが、当時は決して華やかな世界ではなかった。

「プロに入りたての頃は、ピッチャー同士でわいわいというのはなかったですね。同期でドラフト1位のカド(門田富昭)は一軍にいて、結婚もしていたから寮ではなかったし......。ただ、作新で江川の控えだった大橋(延康)は寮にいて、年齢も同じだったからけっこう喋りました。当時の寮は等々力にあって、日石の寮の並びに建っていました。日石が鉄筋なのに、大洋の寮はモルタルでした。学生時代も鉄筋の寮にいたのですが、プロってこういうものかと......」

 仮にもプロである大洋の寮が、社会人の日本石油の寮よりも古く、さらに東海大の寮よりもみすぼらしかった。遠藤は呆れるというより「プロってそういうものか」と、納得せざるを得なかった。

「入団1年目、最初一軍に呼ばれた時は負け試合での中継ぎですね。要は経験を積ませるためです。その後、9月に先発して1勝を挙げて、すぐ『ファームに行け』です。ファームでは先発で回っていて、最多勝の防御率のタイトルがかかっていたための措置でした。

 それで2年目は12勝12敗。シーズン当初は先発でスタートしたのですが、7連勝したあとに肩が上がらなくなったんです。要するに、一軍のローテーションに体がついていけなかった。1カ月半ぐらい休養して一軍に戻ってきた時、長いイニングは苦しいだろうから、短いイニングを投げさせようと配慮してもらい、うしろを任される形になりました」

 遠藤は先発にこだわっていたわけではなく、投げさせてもらえればどこでもいいという気持ちでマウンドに上がっていた。80年代初頭までは、ローテーションはあったものの戦況によって先発投手がリリーフに回ったり、フル回転するピッチャーが各球団にひとりはいた。ただ遠藤はそれには当てはまらず、故障明けということでリリーフに配置された。

 その遠藤のプロ2年目の79年は、江川が巨人に入団した年だ。

「2年目に江川が1年遅れでプロ野球に入ってきました。江川はジャイアンツかっていう感じで。その年は投げ合うこともなかったですし、まだまだレベル差は歴然で、ライバル心なんてまだ芽生えていなかった。江川は1年目9勝、2年目16勝、3年目に20勝で2年連続最多勝って......やっぱり怪物じゃないですか。

 1年目にしても、1年間ブランクがあって、キャンプも自粛で、ペナルティとして合流したのは6月からなのに9勝ですよ。やっぱりすごいピッチャーだなって、あらためて思いました。ただ個人としては、82年の対決で初めて江川に投げ勝てたことで、自信がつきました。あの試合は本当に大きかった」

 遠藤は江川より1年早くプロ入りし、ルーキーイヤーこそ1勝しかしていないが、2年目には47試合に登板して12勝12敗8セーブ。新人王こそ逃したものの八面六臂(はちめんろっに値する活躍だった。

 プロ入り3年目の80年シーズンは、チーム事情でリリーフに専念したため5勝5敗16セーブ。一方、2年目の江川は16勝で最多勝。ここから江川の全盛期が始まり、翌81年は投手5冠(最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、最多完封)を含む20勝を達成。そして遠藤はこの年、シーズン途中から先発に復帰するも、8勝11敗2セーブに終わり、完全に後塵を拝する形となった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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