経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回は株式会社マイカルの業績について紹介したいと思います。
マイカルと言われてもピンと来ないかもしれません。かつての「ビブレ」や「サティ」を運営していた企業です。いずれもダイエーやヨーカドーとは異なる個性的な総合スーパー(GMS)で、特にビブレは若者に支持されました。バブル期には当時最大級のショッピングモール「マイカルタウン」を開業し、小売日本一の座を狙っていたほどです。しかし90年代後半から綻びが見え始め業績は急降下、イオンに吸収合併されて企業としては消滅しました。成功続きから失敗に転じたマイカルの歴史を振り返りたいと思います。
◆総合スーパー「ニチイ」が前身
マイカルは総合スーパーの「ニチイ」が前身です。ニチイは1963年に関西の衣料商店の4社が合併して誕生しました。発足時の規模は13店舗・年商27億円です。66年から食品・日用雑貨の取り扱いを始め、総合スーパー(GMS)となりました。当時はダイエーなどのGMSが急成長していた時代であり、ニチイも同様に店舗数を増やしました。
1970年には70店舗を達成。年商1,000億円を達成した72年には129店舗になりました。74、75年とそれぞれ大阪証券取引所、東京証券取引所の第2部に上場し、76年には一部上場に鞍替えしました。ちなみに他業態の開発も行っており、78年にはスポーツクラブ事業の株式会社ピープル(現:コナミスポーツ)を設立しています。
◆新しい“個性派”GMSで差別化を図る
1982年にニチイの初代社長が亡くなり、後任に小林敏峯氏が就任しました。小林氏は「ヤングマインド」「大衆」「カジュアル」「アメニティ」の4語に由来する企業哲学「YM-CAL」を制定し、後にこれが読みやすい「MYCAL」に変化しました。新たな企業哲学通り、ニチイはそれまでとは異なる“個性派”GMSへと生まれ変わることになります。
手始めに行ったのが82年の「天神ビブレ」開業です。もともと76年に出店したニチイ天神店でしたが、当初ターゲットとしていた30〜40代の客層が少なく、ヤング層が多かったため新業態店ビブレとしてリニューアルしました。ビブレでは従来型GMSのように単なる安売りをするのではなく、若者向けに特化し、ブランドに力を入れるなど質も重視しました。
衣類品コーナーを旧店舗から大幅に縮小したほか、スポーツ用品やオーディオを取り扱い、若者受けを狙いました。旧ニチイ店の年間売上高が40億円台であったのに対し、天神ビブレのそれは86年度に97.8億円と倍増。天神店の成功例に倣い、ニチイはビブレへの転換と新規出店を各地で進めます。
また、84年には新業態店「サティ」を開業しました。サティは「生活百貨店」をテーマに、従来の安売りではなく質にこだわったGMSと位置づけ、ダイエーやヨーカドーといった従来型GMSとの差別化を図りました。実態として通常のGMSと大きく変わりませんが、成長期ということもありサティは各地で勢力を拡大しました。「マイカル宣言」によりグループ名をマイカルに変更した88年以降はニチイからサティ・ビブレへの業態転換を加速、後にサティは同社店舗の8割を占めるようになりました。
◆「マイカルタウン」で大型投資を行う
個性派GMSに飽き足らず、マイカルは次に大型ショッピングモール「マイカルタウン」で勝負に出ます。1号店は米軍跡地を活用して1989年に開業した横浜の「マイカル本牧」です。総投資額は400億円。敷地面積は3万3千平米と当時最大級で、映画館やフィットネスクラブ、銀行・郵便局などもありました。
初年度は年間1,600万人が来場するなど成功したようですが、バブル崩壊でテナントが次々撤退し、すぐに衰退しました。最寄駅からバスで10分以上かかるなど立地が悪いことや、90年代に「みなとみらい21」の開発が進み横浜のレジャースポットが充実したこともマイカル本牧が失敗した要因です。
しかし何故かその後の投資も止まらず、マイカルはサティとマイカルタウンの新規出店を継続しました。1995年から99年にかけては桑名、明石、小樽など国内だけでなく中国の大連にもマイカルタウンを出店しています。初期投資額650億円を投じた小樽店は「ヒルトン小樽」と隣接する大規模モールですが、本牧店と同じく失敗し、後にホテルと共に経営破綻しました。立地の悪さという根本的な原因もさることながら、消費者のニーズをつかめなかったことがマイカルタウンの失敗につながったと言われています。不景気下で消費者が安さを求めているにもかかわらず、商品・売場構成に関してバブル期以前のやり方を継続していたようです。
◆負債増大で手が回らなくなり…
マイカルの売上高は2000年に1兆円を達成するなど規模は拡大し続けていました。しかしマイカルタウンを主とする莫大な投資額に見合った収益を得られず、負債はどんどん膨らみました。1989年2月期末時点で1,566億円だった有利子負債は2001年2月期には1兆1,200億円にも拡大しています。
この間にマイカルは負債を減らすべく、事業ではなく市場から資金を確保しようとしました。95年から97年に行ったのがEB債(他社転換可能債)の購入です。大量にEB債を購入したものの、不景気でEB債の指定銘柄である銀行株が下落し続けており、むしろ多額の損失を被りました。設立した海外企業に金融商品を買わせる不正「飛ばし」で損失隠しを図ったものの98年には明るみになり、マイカルは信用を失いました。
EB債の他に、店舗物件の「証券化」による資金の確保も行いました。証券化の対象となったのは差入保証金からボイラーやダクトに至るまで店舗設備の様々な部分です。証券化で1,000億円近くを流動化し、98年2月期の決算はなんとか黒字化を達成しました。証券化自体は悪くありませんが、事業の改善には何の影響ももたらしませんでした。このようにマイカルは事業の失敗を資本市場でごまかそうとしたのです。
◆愚策だった「身の丈に合わない」投資
あの手この手で足掻こうとするも前述の通り有利子負債は1兆円を突破し、ついに手が回らない状態になりました。2001年9月には民事再生法を申請。民事再生のスポンサーがイオンに決定したことで何とか持ち直しました。しかし経営権はイオンへと移ります。
2003年にイオンはマイカルを完全子会社化し、2010年には約90店舗あった「サティ」の廃止とイオンへの変更を決定しました。翌11年にはイオンリテールに吸収されて法人としても消滅しました。現在では旧サティの全てがイオンに変わっています。ビブレはほとんどが閉店し、マイカルタウンも多くが規模縮小を経てイオンモールとなっています。
マイカルの失敗はひとえに言えば「身の丈に合わない」投資を行ったことに起因します。ビブレ、サティとGMSを成功させたものの、マイカルタウンのような大型モールを開発した経験はありませんでした。本牧の1店舗ならまだしも、本牧店の失敗が明らかとなっている段階で同じ業態を展開したのは愚策というほかありません。新規事業が上手くいかなければ撤退する……当たり前の判断ができなかったためマイカルは消え去ったのです。
<TEXT/山口伸>
【山口伸】
経済・テクノロジー・不動産分野のライター。企業分析や都市開発の記事を執筆する。取得した資格は簿記、ファイナンシャルプランナー。趣味は経済関係の本や決算書を読むこと。 Twitter:@shin_yamaguchi_