──栗山英樹が北海道日本ハムファイターズの指揮官の座から退き、退任会見を行なったのが2021年11月1日。その1カ月後、第5回WBCに挑む日本代表の監督に就任することが発表された。しかし、まだコロナ禍にあり、思うように強化は進まなかった(2022年3月に予定された強化試合は中止)。2022年11月の強化試合で、侍ジャパンの監督として初めての采配を振った。栗山が当時を振り返る。
* * * *
新刊書籍『栗山英樹の思考 若者たちを世界一に導いた名監督の言葉』(ぴあ刊)より本文を抜粋してお届けします。
【一度は断った侍ジャパン監督】
ファイターズの監督を退いてすぐに、侍ジャパンの監督就任のオファーをいただきました。ファイターズの監督のあとに何をするか、当時はあまり具体的には考えていなかったように思います。先のことを考えられる状態ではなかったですね。
前任の監督から2位で受け取ったバトンを次に渡すのに、「この状態では申し訳ない」「ある程度、勝てるチーム状態にしないと」という思いばかりがあって。その頃にあったのは、自分自身に対するいら立ち、ふがいなさ......悔しさよりもそれらのほうが強かった。
|
|
退任することに対しては納得していたんですが、「こんなふうに負け続けてやめないといけないのか」「自分の責任を果たせなかった」という悔しい思いがありました。「今回の経験を何かでうまく生かさないと」とも思っていた。
しかし、退任から1年後くらいにオファーをもらっていたら、受けられなかったかもしれません。ブランクができていたら、この悔しさが薄まっていたかもしれない。監督をやめて間がなかったから、決断できたように思います。
一緒に戦った選手たちにも言われました。「侍ジャパンの監督なんていうしんどい仕事をよく引き受けましたよね」と。冷静に考えると、自分のなかで消化できていない思い、悔しさがその原動力になったのだと思います。
ただ、はじめは「侍ジャパンの監督は私にはできません」とお断りしました。「私は適任ではないのでは」という思いからです。
私は現役時代、ジャパンに選ばれたこともありませんし、日の丸をつけてプレーした経験自体がない。そんな人間に務まるポジションではないのではないか、「本当に私でいいんですか」と。
|
|
でもその一方で、「このままで終わっていいのか」「苦しい経験を若い人に返さないと」という思いが自分にあり、日本代表監督のオファーをお受けすることにしました。
やはり正直にいうと、私のなかには悔しさが充満していた。自分でファイターズの監督をやめると決めたものの、「何にもできなかった」「誰のためにもなれなかった」「やらなきゃいけないことができなかった」という悔しさがあったのです。
私は積極的に動きたいタイプの人間なのですが、各球団の選手や監督に会いたくてもコロナ禍では思うようにいきませんでした。できれば、一緒に戦いたい選手ひとりひとりに会って、WBCへの思いやコンディションについて話をしたかった。でも、2022年11月の強化試合までは表立って動くことができませんでした。
そんななかで、深く物事を考える習慣が身についたように思います。そういう意味では大きな1年間でした。
【メンバーの活躍を一番楽しめているのは自分】
──2023年3月に開催されたWBCで世界一になった選手たちはそれぞれ、自分の戦いの場に戻っていった。ダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)は2024年5月に日米通算200勝を達成。アメリカとの決勝戦で先発登板を果たした今永昇太は2023年シーズン後にシカゴ・カブスと5年契約を結び、2024年に15勝を挙げた。
|
|
大谷はロサンゼルス・エンゼルスの最終年となった2023年に、投手として10勝、打者として日本人初の本塁打王を獲得。9月に二度目となる右ヒジの手術を行なったが、2024年はロサンゼルス・ドジャースで史上初の「50−50」(50本塁打・50盗塁)を記録。さらに自身初のポストシーズンに出場し、悲願のワールドシリーズ制覇も成し遂げた。
* * * *
侍ジャパンメンバーの、その後の活躍を一番楽しめているのは私かもしれません。翔平はもちろん、ダルビッシュも吉田正尚もラーズ・ヌートバーもメジャーリーグですばらしい活躍をしてくれています。
2024年に移籍した今永と松井裕樹(東北楽天ゴールデンイーグルス→パドレス)もそうですね。今永ともヌートバーとも話をしましたが、みんな、「WBCの体験が大きかった」と言っています。
2023年シーズン開幕前のWBCに出てもらうにあたって、みんなに無理をさせたことは間違いない。それでも出場してくれたことが彼らの力になり、野球界のためになったのだとすれば本当にうれしく思います。
侍ジャパンのメンバーとしてともに戦った期間は決して長くはなかったですが、10年間一緒だったファイターズの選手たちと同じくらいの濃さがあったように思います。かけがえのない仲間です。
監督の私よりも、選手たちのほうがプレッシャーを感じていただろうと思います。「自分のせいで負けたらどうしよう」と誰もが思ったはず。準決勝のメキシコ戦で先発マウンドに上がった佐々木朗希も、決勝で投げた今永もそう。彼らは苦しいところで踏ん張り、難関を乗り越えていった。
あれを経験したことで、さらに大きな勝負にいった時に自分らしくプレーができるようになったのもかもしれません。滑るボールに悩まされた松井も、それを克服してメジャーで頑張っています。
苦しみながらも苦労して準備したことを大きな舞台で試した、その経験が彼らの人生に役立っているとしたら、これほどすばらしいことはありません。
【勉強しない者はついていけなくなる】
──侍ジャパンの監督の任期を終えた栗山は2024年1月、ファイターズのチーフ・ベースボール・オフィサーに就任した。創設50年目を迎える球団の基盤強化・発展と、チームの編成強化を推進するために新設されたポストだ。現在は球団運営とチーム編成の両方の役割を担っている。
* * * *
私はWBCであらためて、野球の勉強をすることができたと考えています。「このくらいのレベルの選手でないと世界では戦えない」ということがわかりました。秋のドラフト会議に向けてアマチュア選手を中心に見ていますが、そのラインが頭のなかにあります。
前回の侍ジャパンのメンバーには、ドラフト1位で指名された選手もいれば、ドラフト下位入団の選手も、育成出身の選手もいました。プロ野球への入り方はいろいろだけど、目指すべきは「ここだ!」というのが明確になりました。
160キロのストレートを投げる投手もいれば、ロングヒッターもいる。守備や小技が上手い選手や足のスペシャリストなど、いろいろなタイプの選手がいました。
10年後、「2023年の侍ジャパンの試合を見て、こういう選手になろうと思いました」という選手が出てきてくれればと期待しています。
この春、メジャーリーグを視察してきました。野球が変わっていることを痛感しています。もうデータではなく、サイエンスの時代になっています。
毎日、アナリストのレポートを見ていますが、これまでのモノサシではもう測れなくなっていると感じます。だから、私たちの頭も一度、真っ白にする必要がある。
自分の体験はもちろん大切ですが、それだけでは見誤ることがあります。サイエンスの力を使って出せるデータを使いながら、自分の経験も加味しながら、物事を冷静に見なければなりません。
WBCで優勝したから、私のことを専門家だとか目利きだとか思っている人がいるかもしれません。でも、そんなことはありません。これはまったく謙遜ではなく、心からそう思います。
野球はどんどん変わっているので、勉強しない者はついていけなくなるという現実が目の前にあることを実感しています。もう、ひとりの天才がすべてをやる時代ではありません。
サイエンスが導き出す答えに、私たちの経験からくるもの、覚悟を超えた感性のようなものを加えて判断をする必要がある、と強く感じています。それぞれをしっかりと分けながら、判断する際には、それらをうまく利用することが求められているのです。
栗山英樹(くりやま・ひでき)/1961年生まれ。東京都出身。創価高、東京学芸大学を経て、84年にドラフト外で内野手としてヤクルトに入団。89年にはゴールデングラブ賞を獲得するなど活躍したが、1990年にケガや病気が重なり引退。引退後は野球解説者、スポーツジャーナリストに転身した。2011年11月、日本ハムの監督に就任。翌年、監督1年目でパ・リーグ制覇。2016年には2度目のリーグ制覇、そして日本一に導いた。2021年まで日ハムの監督を10年務めた後、2022年から日本代表監督に就任。2023年3月のWBCでは、決勝で米国を破り世界一に輝いた