ベテランプレーヤーの矜持
〜彼らが「現役」にこだわるワケ
第8回:米倉恒貴(ジェフユナイテッド千葉)/前編
「本当に、今年のジェフはすごくいいチームなんです。今年というか去年も、ですけど。みんなにジェフを見てくれって言いたくなるくらいまとまった誇れるチームだし、その一員としてプレーできていることを幸せに思います。
慶行さん(小林監督)、コーチングスタッフが日々全力で向き合ってくれているのもわかるし、僕たち選手はそれを感じて、結果で応えたいと全力で戦えている。ファン・サポーターのみなさんも毎試合、すごくいい雰囲気を作り出してくれていますしね。
だからこそ、このチームで昇格したい。自分でも驚くほどそれを毎日、毎日、願ってシーズンを進んできた気がします。残念ながら僕自身はケガを繰り返して、なかなかピッチに立てていないんですけど、とにかく今はチームのために、少しでも力になることを、と思っています」
2019年夏、古巣に復帰し、6シーズン目を戦っている米倉恒貴に、今年のジェフユナイテッド千葉について尋ねると、清々しいまでに言いきった。正直、驚いた、というのが率直な感想だ。
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本人も自覚しているとおり、若い頃から生粋の"負けず嫌い"で知られた米倉だ。2014年から5年半にわたって在籍したガンバ大阪時代も逆境を反骨心に変えて立ち向かい、ミラクルを起こす姿を繰り返し見てきた。
その彼が、自身はピッチに立てていない状況にもかかわらず、心からチームの勝利を願い、「チームのためにできることを」と言う。そこに、どんな心境の変化があったのかと尋ねると「驚きますよね」とイタズラっぽく笑った。
「ピッチに立てずとも『力になれれば』なんて、本来、ベテラン選手の逃げ言葉ですから。僕は、正直、好きじゃない。プロである以上、プレーで示し、引っ張らなければいけないと思っているし、だからこそ、ケガさえなければ、と思う気持ちも正直あります。
でも結局、それも自分の実力だから。若い頃は、それをわかっていても、自分が試合に出られない状況に『ああ、つまんねぇ!』ってなることもあったし、自分が試合に出られていないのにチームが勝つことにどこか複雑な感情を覚えていたりしたけど、今は違う。これは周りの仲間、若い選手に教えられたことでもあります。だって、本当にみんながチームのために黙々と戦い続けているから。
メンバーに入れなかったとしても、チャンスがくることを想定して絶対に準備を怠らないし、それぞれが自分の持ち場でチームのための戦いを続けている。だから今年のジェフは、大きなケガ人が出てしまったなかでもブレずに戦ってこられたし、だからこのチームで、昇格したいんだと思う。今はそれしか考えてないです」
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2007年、生まれ育った地元のクラブ、千葉で始まったプロキャリアを語る前に、それ以前のキャリアを少し辿ってみる。「相当の努力家だった」と自負するアマチュア時代だ。
「子どもの頃から両親にも指導者にもずっと努力が大事だと言われて育ったせいか、『努力に勝る才能はなし』という言葉を心から信じていました。何より自分には天才と呼ばれる選手のような巧さはないと自覚していたからこそ、練習するしかないと思っていました」
なかでも、中学生時代に所属したFC千葉なのはなジュニアユースでは、人生が変わったと言いきれるほど刺激的で濃密な時間を過ごした。
「なのはなはもともとジュニアチームしかなかったのに、僕らが中学生になるタイミングで、(チームを率いる)渡邊和典監督がジュニアユースチームを作ってくれたんです。メンバー的には地元の集まりみたいなチームだったんですけど、渡邊監督にはいつも『プロになるために』という話をされていたことで、プロサッカー選手になることを、より現実的に意識するようになった。
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(渡邊監督は)もうめちゃめちゃ厳しくて、めちゃめちゃ怒られましたけど、無名のチームが高円宮杯全日本ユース選手権(U−15)で3位になれたのも、自信に変わった出来事でした。今になって思えば、人として大事にすべきことを含めて、ピッチの内外で教えられたことのすべてが今の自分の礎になっている気がします」
それは、小学生時代から八千代高校時代まで同じチームで育った幼馴染み、山崎亮平(栃木シティFC)の存在も含めてだ。今でこそ「あいつの才能に嫉妬していたと本人にも伝えられるくらい大人になった」と笑う米倉だが、当時はそれを認められず、ライバル心を燃やし、成長の糧にした。
「高校時代までいろんないい選手は見てきたし、ましてや高校時代にU−19日本代表に初めて選ばれたときも、秋(倉田/ガンバ大阪)とか香川真司(セレッソ大阪)、遠藤康(ベガルタ仙台)ら、サッカーIQが高くて、何をやらせても巧すぎる! という選手はたくさん見てきました。
でも、僕がずっとライバルだと思っていたのは山崎だけ。あいつの才能がいつも羨ましくてたまらなかった。だからその時代、時代で、あいつに何本もアシストしてきたんですけど、あいつに活躍されるのが嫌で、ボールを送り込むたびに『外せ!』って思っていました(笑)。天才だから決めちゃうんですけど。
もちろん頭では、彼が決めてくれるから僕にアシストがつくということも理解していましたけど、それも認めたくなくて『うわぁー! また決めやがった!』と思ってました。でもだから、本当に誰にも負けないくらい練習したし、才能には練習量で抗うしかないと、ひたすらサッカーと向き合えたんだと思います」
そんな彼が高校サッカー選手権でベスト4、大会優秀選手という栄冠を引っ提げて千葉への加入を決めたのは、3年生時の練習参加がきっかけだ。2005年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)における初タイトルをはじめ、2006年にも同大会で連覇するなど、当時イビチャ・オシム監督のもと、目を見張る躍進を続けていた千葉に放り込まれても「全然できる」と思えたことに背中を押されたという。もっとも、その自信は正式にその一員となってすぐに打ち砕かれたが。
「数日間だけパッと入ってプレーする分には、フィジカルも含めて全然やれるなって思ったんです。でもいざ、加入してみたら『あれ?』と。羽生(直剛)さんとか、勇人さん(佐藤/千葉クラブユナイテッドオフィサー)、山岸智さんや水野晃樹さん(いわてグルージャ盛岡)、水本裕貴さんら日本代表選手はタッチひとつ取っても全然違ったし、『これがプロか』と思うようなプレーの連続で、マジで頑張らないとすぐにキャリアが終わるという危機感しかなかった。
当時のジェフにはジェフ千葉リザーブズというセカンドチームがあって、若い新加入選手はたくさん入ってくるけど、リザーブズに行ったあと、契約満了になる選手もいたので、そうならないためにはどうするのかってことばかり考えていました」
結果、周りと同じことをしていても生き残っていくことはできないと、中学・高校時代のように練習に明け暮れたという。チーム練習が午後からの日も、午前中からひとりグラウンドに出て、繰り返しボールを蹴った。
「正直、そんなふうに自主トレをすることを快く思っていない選手もいることは気づいていましたけど、子どもの頃から練習をすることでしか成長できない、巧い選手に対抗するには練習量で上回るしかない、と自覚していたので、やるしかないと。そういう状況って苦しいし、悔しいんですけど、でもだから、やる。ただただ周りの選手にも、自分が置かれている状況にも負けたくないから、やるんです。
当時は、地元のジェフで活躍を続けて、引退できたらいいなとも思っていて、そのためには相当活躍しなきゃいけないという自覚もありましたしね。大分トリニータの金崎夢生(現ヴェルスパ大分)やセレッソの香川、乾貴士(現清水エスパルス)ら、近い世代が活躍しているのに、自分はなかなか試合に絡めない時間が続いてザワザワした気持ちもありましたけど、それも全部、練習することでどうにかしようと思っていました」
その頃、憧れたのは2008年からの3年間と、2012〜2013年をともに戦った谷澤達也や、千葉のレジェンドのひとりで現在トップチームのヘッドコーチを務める坂本將貴だ。それぞれの"色"で千葉を牽引する彼らの姿は「生涯・千葉」を志していた米倉にとって指標になった。
「坂本さんは30代に差し掛かったくらいの年齢で、どうすればあんなふうに30代になっても必要とされる選手でいられるのか、と思ってよく観察していました。また、谷澤さんは......オフではマジで適当な選手だったのに(笑)、オンになるとめちゃめちゃサッカーに注ぐし、何よりスタジアムをひとつにする力を持っていたんです。サポーターのみなさんもひっくるめて、みんなで喜ぶ空気を作り出す姿を見て『最高だな。ああいう存在になりたいな』っていつも思っていました」
(つづく)◆米倉恒貴が古巣・ジェフでの戦いにかける熱き想い>>
米倉恒貴(よねくら・こうき)
1988年5月17日生まれ。千葉県出身。ジェフユナイテッド千葉所属。八千代高卒業後、2007年に千葉入り。当初は中盤でプレーし、5年目にレギュラーとして定着。2013年からサイドバックに転向。正確なクロスでチームの攻撃をけん引した。2014年にガンバ大阪へ完全移籍。三冠獲得に貢献し、2015年には日本代表にも選出された。そして2019年夏、古巣の千葉へ復帰。チームのJ1復帰のために力を尽くしている。