プログラミング・アドバイザーを務めている東京国際映画祭のアニメーション部門で、「日本アニメの新世代」というシンポジウムを行った。
登壇していただいたのは『クラユカバ』の塚原重義監督、『メイクアガール』の安田現象監督、『数分間のエールを』のぽぷりか監督の3人。
3人の監督はバックグラウンドこそそれぞれだが、短編作品やMVなどを手掛け、その評価を足がかりに今回、初めて長編作品挑戦したという共通点がある。今後、こうした潮流は強まるのではないか、という予感があり、2024年に公開された『クラユカバ』、『数分間のエールを』、2025年の公開を控えた『メイクアガール』を映画祭で上映することと、あわせて御三方のお話をうかがうシンポジウムをセッティングしたのだ。
このシンポジウムの様子は、いくつかのWeb媒体で記事になっている。また東京国際映画祭の公式youtubeに動画もアップされているので、具体的な気になる方はぜひ見てほしい。
今回は、このシンポジウムでモデレーターを務めながら、聞きながら、あれこれ想像した「アニメの未来」について記そうと思う。これは未来予想というより、今後のアニメを取り巻く状況の変化を見落とさないようにするためのチェックポイントの整理といったほうが正確。
まずシンポジウムに参加していただいた3監督のように、短編・MVから長編に挑戦する監督は増えていくのかどうか。僕は増えるだろうと考えている。
そもそもネット上でショート動画やMVの存在感は増している。そして、こうした発表の場の定着は作り手の増加を招く。ショート動画やMVでアニメを作るクリエイターの母数が増えれば、その中に長編を志向する人も増えるだろう。制作側はつねに新しい才能を探しているから、人が集まり活況を呈しているショート動画やMVの界隈にコミットすることも、これまで以上に増えるだろう。そのようなコンタクトから、長編制作を目指す例も出てくるはずだ。
どうして長編か。それは長編=映画が、個人作家の“味”を薄めずに広くポピュラリティを得ることができるメディアだからだ。アニメ産業的には映画よりも、TVアニメのほうが中心だし、さらにいうとその中でも原作付きの占める割合が多い。しかし、さまざまなスタッフに委ねる度合いが高いTVアニメでは、個人作家の“味”はどうしても薄まらざるを得ない。この点については、今回上映した3作品が、いずれも気心の知れたスタッフ、チームを中心に制作されたというのは、今後同種の企画が立てられるときに、結構重要なポイントであると思う。
そして原作付きとなると、そもそも個人作家を呼ぶ意味がさらに薄れてしまう。そう考えたときに「オリジナル脚本による映画」というのは、一番よい選択肢になる。
ただ一方で、長編は制作そのものが大変だし、それに見合う予算を確保することもハードルが高い。おいそれと長編が作れるわけではないことは、シンポジウムでも塚原監督から指摘があった。
そこで何が起こるかを考えてみると、長編を目標に定めつつも、まずはその過程として、15分以上40分内程度の中編に挑戦する、というケースが増えるのではないか。短い作品と長編の間を繋ぐ“ステップ”が設けられるのではないか、ということだ。こちらも塚原監督が指摘していたが、クラウドファンディングで集まる金額の規模感とも相性がいい。作られる映像は、パイロットフィルムでもよいのだが、独立した作品のほうがビジネスとしては取り回しがいい。イメージでいうと、読み切りを書いていた新人マンガ家が、短期集中連載に挑むようなものだ。
幸いサブスプリクションの配信サービスを含め、ネットにおける作品の流通はこうした規模の作品に向いている。そのため映画館にもTVにもうまくはまらない尺の作品もビジネスとして展開することは可能だ。こういった尺の作品が増えていけば、映画とTV以外のメジャーな流通経路が広がることになる。もちろんひとりのクリエイターのそういった作品を何本かまとめて映画館に(※ODSとして)かけるという方法もありうる。そういう実績の積み重ねれば、長編への挑戦という回路も開きやすくなるのではないだろうか。 ※舞台、ライブ、中継といった映画作品以外のコンテンツ
このようなことを考えてしまうのは実は、地上波放送におけるアニメの行方を考えることとと、裏表の関係にあるからだ。
現状、独占配信で地上波放送がないタイトルは、どうしても広がりづらく、ビジネス的にはペイしたとしても、作品の認知が低いままということが指摘されている。不特定多数に“ばらまく力”の強い地上波を使うことで、SNSなどを経由して、作品の認知があがり、グッズも含めた関連ビジネスも盛り上がることができる。
事実そのとおりではあるのだけれど、果たしてこのような状況がいつまで続くかについて、僕は疑問に思っているからだ。
2020年の国民生活時間調査の結果概要をみると、当時の30代(今なら40歳前後の世代に相当)はメディアの接触をみると、TV視聴が63%、インターネット利用が62%でほぼ拮抗している。この世代より上が「TVも見るけど、ネットもやる」という行動をとっていて、かつ当時の20代(今の30歳前後)よりも人口自体も多いのである。僕は、地上波の“ばらまく力”がネットの“共時性”を得て、作品のプラスになっているのは、現在のアラフォー以上の行動の影響が大きいのではないかと予測している。(詳細は過去に書いた記事を参照:「テレビ離れ」から考えるアニメの近未来「バズらせて知ってもらう」では通用しなくなる https://qjweb.jp/journal/51558/)
しかしそこから下の世代のメディアへの接触は、明らかにネット偏重なのである。地上波への接触が減れば当然、放送時間に合わせてネットで“バズる”ケースも減ってしまう。
そうなったとき、有料の配信サービスではなく、You tubeなどのメディアで流れるアニメが、一般層に一番届きやすい“アニメ”となる可能性はある。そのときが来るのか、それともしぶとくTVアニメ(か、それと同じフォーマットを採用したシリーズアニメ)が生き延びて、一番多くの人に届きやすい“アニメ”の座を守るのか。これから数年の間――アラフォー世代がアラフィフに近づいていく過程――で、そのあたりが見えてくるのではないかと考えている。
これは単に生活習慣あるいは、メディアの接触時間の変化ではない。こういう変化が起きたとき、『名探偵コナン』や『ドラえもん』、あるいは『サザエさん』といった“国民的”と呼ばれるアニメは生まれにくくなるのは確実だ。これらの作品は、TVの視聴率の高い時代にスタートし、かつプライムタイムや夕方枠で放送されることで“国民的”と呼びうるようになるベースを形作った。しかし、今はそのようなベースを形作れるような時間帯に放送されている作品はほんのわずかしかない。新番組が“国民的”と呼ばれる作品へと成長していく道は大変細く険しい(ヒット作は登場しうるだろう)。
インディペンデント系の作家による中・長編が制作される一方で、“国民的”と呼びうる作品が新たに生まれなくなる。果たしてそんな未来がやってくるのか。それともこの予想を覆すような何かがやってくるのか。2020年代のアニメの行く末を考えることに繋がった、シンポジウムだった。
[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。