歌手の森進一(77)が、27日放送のBS日テレ『歌謡プレミアム特別版 森進一“歌の喜び”2時間スペシャル』(後8:00)に出演する。
【番組カット】手を広げ…歌い上げる77歳・森進一 森自らが作詞作曲した「昭和・平成・令和を生きる」で幕を開ける。この曲の通り、昭和・平成・令和と歌い続けてきた森は、ほんのわずかなことで人生が変わると語り「こんな声で歌手にはなれないって言われて、それでもチャーリー石黒先生にスカウトされて歌手をやってみたんだけど、最初はなかなかうまくいかなかった」と振り返る。
プロとしてデビューしたものの、なかなか売れなかった森は、歌手をやめる決断をした。そんな森に師匠のチャーリー石黒が提供した曲が「盛り場ブルース」。そして、辞める前に少しでも稼ごうと、事務所から禁止されていたキャバレーまわりをして「盛り場ブルース」を歌ったところ、曲が大ヒット。これをきっかけに歌手を続けることとなった。
そして同時期に運命的な出会いを果たしたのが、森に数々の楽曲を提供した作曲家・作詞家の猪俣公章。酒好きで有名な猪俣だが、レコーディング中にも酒を飲んでいたので、森が怒って帰ってしまったこともあったという。番組では、チャーリー石黒と猪俣公章が森進一について語っている貴重なVTRを発掘。チャーリー石黒が「こいつは根性あるな」と感じた森のエピソードとは。
猪俣は、森が弟子入りした当時の思い出を語る。多くの歌手の中から森が発掘されたのも、ほんのわずかな偶然がキッカケだった。そのキッカケとは。今回は、猪俣が作曲したデビュー曲「女のためいき」と「おふくろさん」。そして、猪俣が亡くなった1993年の追悼コンサートで森が泣きながら熱唱した「さらば友よ」の映像を公開する。
さらに猪俣が森に紹介した演歌界の大御所が、古賀政男。実は古賀の誕生日は森と同じ11月18日と共通点もあり、よく可愛がってもらったという。しかし当初、森は古賀メロディーをなかなか歌いこなせなかった。古賀作曲の「人生の並木路」をレコーディングした時には、売れない時代に苦労をかけた妹のことを思い出し、途中から涙がこみ上げ、歌い終わるとしゃがみ込んでしまった。
森は「泣いてるところに古賀先生が来て、すみません、もう一回やらせてくださいと言ったら『森君、これでいいんだよ』って言ってくれたんですよ」とコメント。古賀は泣いてしゃがみこんだままの森に優しく声をかけ、一緒に泣いてくれたという。番組では、森進一が過去に古賀メロディーを歌った日本テレビに眠る秘蔵映像の中から「人生の並木路」と「酒は涙か溜息か」を公開。スタジオでは、古賀の代表曲である「影を慕いて」を熱唱する。
さらに、八代亜紀と歌った「おんな港町」、美空ひばりと歌った「男の純情」など、過去に森が数々の歌手と共演した秘蔵映像を放送。美空ひばりにも可愛がってもらっていた森が衝撃秘話を告白。ある年の正月、森は美空ひばりと一緒にいた浅丘ルリ子からの電話で、美空の自宅にすぐ来なさいという誘いを受ける。しかし、お酒を飲みながら自宅で麻雀を打っていた森が、美空の自宅を訪ねたのは誘いを受けた5時間後。謝った森だが、美空をさらに怒らせる失言をしてしまう。美空の芝居の映像を見ながら、森が放った失言とは。
数あるヒット曲の中で、フォーク歌手である吉田拓郎が手掛けた名曲が「襟裳岬」。当時、フォークシンガーとして人気を博していた吉田は「森進一か都はるみだったら曲を作ってもいい」と言っていたそうだ。その話を聞いたレコード会社の企画で「襟裳岬」が誕生。森は長い歌手人生を続ける中で、この曲にも救われたという。
母の死を乗り切ることができたのは「襟裳岬」を歌ったことだった。「前の年に母が自ら命を絶ち、『おふくろさん』も歌えず、なんで歌手になったんだと思うくらい落ち込んでいる時に、『日々の暮らしはいやでも やってくるけど 静かに笑ってしまおう』という歌詞が僕の心にグンときちゃって、なんとかこの歌を歌ったら乗り切れるかなって思って…歌えて良かったと思います」と明かす。母の死から森を立ち直らせた「襟裳岬」と大瀧詠一が作曲した「冬のリヴィエラ」を披露する。さらに、森の往年のヒット曲「年上の女」「それは恋」、そして情念の名曲「北の螢」の誕生秘話も公開される。