ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『メンタル管理』について語った。
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★今週のひと言「あの音楽と出合ったことが人生のターニングポイントに」
俺が現代の若者と接するときは基本的に音楽、ヒップホップを介してになるから、それ以外の若者にとって音楽がどーゆー位置を占めるのか俺にはわからないが、少なくとも20〜30年前、俺が学生時代を過ごした1990年代の少年少女にとって、音楽は好きも嫌いも関係なく全員に共通した一番の娯楽だった。
今では考えられないが、同時期にさまざまなジャンルの音楽でミリオンヒットが連発され、テレビのゴールデンタイムには民放各局でレギュラーで音楽番組が放送されていた。
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YouTubeがなかった時代だから皆テレビを見ていて、同じ音楽を半ば強制的に聴かされていた。
俺は10代の当時、漫画少年で漫画を描いていたし人一倍読んでもいたから一番の興味事は漫画だった。
それでも音楽もめちゃくちゃ聴いた。自分の部屋にテレビはなかったし、携帯電話もなかった時代だから、ひとりの娯楽としては漫画を読むかシコるかラジカセでラジオかCDを聴くぐらいしかなかった。
とはいえ、へそ曲がりな俺は流行歌に背を向け、少し背伸びした邦ロックを聴いていたので、基本的には同級生たちと音楽の話はできなかった。
また、当時はバンドブームもあって、中学生の頃に仲の良かった友達は皆何かしら楽器をいじっていたり、流行歌や、当時はやっていたビジュアル系やメロコアバンドのコピーバンドをやっていたのだが、洋楽ファンが邦楽ファンを見下すのと同じように、『ロッキング・オン・ジャパン』を読んでいた俺は、中学生に簡単にコピーできてしまうような流行歌を内心ばかにしてしまっていた。
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俺にとって音楽は聴くものであり、演るものではなかったのだ。
そんないくつもの勘違いや肥大した自意識から音楽と一定の距離を取っていた俺が、結局はそれも当時のはやりなのだが、Dragon Ashに端を発したミクスチャー(バンド音楽とラップの融合)ブームを受け、高校生活も終わりに差しかかる頃ついに日本語ラップにたどり着いた。妄走族と餓鬼レンジャーだった。
それがその後の俺の人生を一変させてしまった。
ロックバンドのナイーブでヒロイックな詞世界に夢中になっていた俺にとって、当時の日本語ラップのリリックの肌触りは圧倒的に生々しく、粗野で、俺の詞に対する価値観をひっくり返した。
そして一番大きいのが押韻の要素。
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それまでも熱心に邦ロックを探求してはいたが、リスペクトから逆に自ら敷居を高くしていて、演る側に回ることなんか考えもしなかったが、ラップ、もっと言うと、韻を踏むことは遊びのレベルで気軽にいつの間にか自分でもやるようになっていた。
その当時はリリックにもならないような断片的なダジャレと大差のない韻を考えてはなんのためにかメモをしていた程度だったが、そもそも発語感の気持ち良さを追求するための韻なので、自作の韻を口ずさむうちにそれは次第にラップのリリックとなっていったのだった。
そうして大学生の4年間、誰に聴かすわけでもない韻踏み遊びをしていた俺は、暇と出来心から大学卒業後すぐに漫画そっちのけで実際にクラブでマイクを握るようになり、今に至る。
こんなこと、この先何年やるつもりかもわからないし、始めた当時とは明らかに目的や興味も変わっているのだが、自分の書いたリリックに生かされてきたのは事実だ。
撮影/田中智久