太田りゆ×田中佑美 パリ五輪アスリート対談 前編
パリ五輪が終了して約4カ月。あらためてその記録を振り返ってみると、偶然にも多くの共通点があるふたりの選手がいた。それが自転車競技トラックのケイリンとスプリントに出場した太田りゆと、陸上100mハードルの田中佑美だ。ふたりはともに8月7日に競技初日を迎え、9日に戦いを終えている。しかも初戦は2組目に登場しともに5着で敗者復活戦へ。さらにそこを勝ち上がり、ともに準決勝で敗退した。現在はそれぞれの次なる目標に向けて歩み始めたふたりに、当時の記憶をたどってもらった。
【SNSのフォロワーが増加】
――パリ五輪が終了して時間が経ちました。太田選手は代表を引退してガールズケイリンに専念し、田中選手は次の目標に向けてスタートしています。まずはパリ五輪を終えてからの周囲の反響を教えてください。
太田 私はケイリンの敗者復活戦で、審判のミスで一周多く走ったんですが、その反響が大きかったです。1着でゴールしたことは自分でもわかっていましたが、残り1周を告げる打鐘が鳴ったから、私が間違っているのかと。
田中 止まるわけにはいきませんよね。
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太田 そう。2着までに入らないと勝ち上がれないから、無我夢中でもう1周走りました。
田中 それに比べたら、私はほとんど何もないです(笑)。ただSNSのフォロワーが増えました。もともと2万人だったのが、8万人になりました。それが自分の中で体感として感じた一番の変化ですね。
太田 私もインスタがめちゃめちゃ増えました。数では及びませんが、1万5000人くらい増えましたね。
――翻って、オリンピックへの出場権獲得についてですが、田中選手は出場枠40名のうち、ワールドランキング39番目で出場権を獲得。太田選手も代表選出の決定まで不安な日々を過ごしたかと思います。選考期間中、一番厳しかった時期はいつ頃ですか。
太田 選考に関して、2023年の世界選手権と、2024年のネーションズカップ2大会を重視すると言われていました。私は世界選手権で日本勢のなかで一番成績がよかったので有利だなと感じていました。ただオリンピック出場が決まりそうという感覚を持つと、前回大会で出場できなかったトラウマが襲ってきて、ビビッてしまいました。それでネーションズカップ第1戦のオーストラリア大会(2024年2月)が絶望的に苦しかったです(ケイリン18位、スプリント17位)。第2戦の香港大会(3月)はまだよかったので(ケイリン9位、スプリント17位)、オーストラリア大会前の1月が一番ドキドキしていました。
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田中 私の場合は、標準記録を超えるか、ワールドランキングで40番以内に入るか、どちらかを満たすのが条件でした。記録は目指していたんですが、そこだけにベットするのはリスクが高いなと思ったので、転戦をしてポイントを稼ぐという戦略で積極的に試合に出場していました。例年であれば、1210点くらいポイントを持っていれば、40番以内に入るだろうと見積もっていて、日本選手権の前までに1233点獲得していたんですが、ポイントランキングを確認したら38番くらいだったんです。そういう段階で日本選手権を迎えて......。(出場権を)手に入れたつもりでいたけど、スルッと抜けていくかもしれないというギャップを感じた瞬間が一番きつかったです。
――そしてふたりとも見事に出場権を獲得しました。その時の状況を教えてください。
太田 発表の日は、全員が(練習場の)伊豆ベロドロームのピット内に座って、(日本自転車競技連盟選手強化スーパーバイザーの)中野浩一さんがひとりずつ名前を読み上げていきました。女子短距離のメンバーが最後に呼ばれたんですが、私はその中でも一番最後。大丈夫だとは思いつつ、名前を呼ばれるまではドキドキでした。呼ばれた時にはホッとしましたね。
田中 私の場合は、ワールドアスレティックス(世界陸連)のホームページでランキングを随時更新していて、この日に最新情報を更新しますというのが決まっていました。私も関係者もそのサイトを見続けていたんですけど、とうとう寝るまで更新されませんでした。ふと夜中、目が覚めた時に検索したら39番でした。
――やはりうれしかったですよね。
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田中 最初はよかったですね。そこから「大丈夫かな」というターンに入りました。わかりますか?
太田 選ばれた時の「よしっ」という気持ちは一瞬で、今度はオリンピックという事実が襲ってくる。
田中 うれしさは本当に一瞬です。1日とかではなくて、「うん」くらいの気持ち。出場権を与えられてしまった。次に何をしようと。
【ポジティブに捉えた敗者復活戦】
――それはやはり当事者でないとわからない感覚ですね。パリ五輪ではともに大会の終盤にかけて競技が行なわれました。パリ五輪の開会式や盛り上がりをどう感じていましたか。
田中 私は開会式を一切見ていないですね。まだ日本にいましたし、練習もあったので、深夜に起きて見るのは厳しいなと思って寝ていました(笑)。感覚としては、まだテレビの中の世界でしたね。
太田 私はフランスの事前合宿地にいて、みんなでそろってホテルで開会式を見ました。日本代表団が出てきたところで、テレビの前でみんなで写真を撮りました(笑)
――太田選手はケイリンとスプリントに出場し、まずはケイリンからでした。田中選手は100mハードルの予選。それぞれどんな気持ちを持って臨みましたか。前夜の思い出などあれば教えてください。
太田 前夜は特に緊張することもなく、その日の心境をノートに書いたりして、結構冷静でした。夜中に何回か目が覚めましたけど、「そりゃあ明日はオリンピックなんだし、ドキドキして眠れなくて当たり前だよな。目をつむっておこう」と思っていました。嫌な緊張感はなかったですね。
田中 私はすやすや寝てましたね(笑)。「明日オリンピックだ!」という感じではなくて、「明日はこれとこれをするぞ。おやすみ」という感じでした。周りの目や、失敗したらどうしようということはほとんど思わずに、ひたすら自分のレースで何をするかに集中していました。
――そして田中選手は100mハードルの予選2組目で5着(12.90)となり、敗者復活戦に回り、同じく太田選手もケイリン1回戦2組目で5着となり敗者復活戦に回りました。いったんは敗れた時の気持ちは、どんなものだったのでしょうか。
太田 動きはよかったですし、脚の感じもよかったので、敗者復活戦では絶対に大丈夫と思ってスタートラインにつきました。今まで日本代表としてレースをしてきたなかで、一番覚悟が決まっていたし、自信もありました。落ち込むようなことはなく、なんなら翌日の準決勝、決勝のことを考えたら、敗者復活戦を走れたほうがラッキーくらいに思っていました。チーム内では「もう一回遊べるドン」(ゲーム『太鼓の達人』のセリフ)とか言っていました(笑)。
田中 予選を走る前は、敗者復活戦に回るのは嫌だったんですよ。予選で落ちたら(調子が)よくないということなので、「もう1本打ちのめされにいくの?」と。でも実際は私も悪くなかったんですよね。自分の中でオリンピックのテーマが「攻め続けること」だったので、そこはいったんクリアしたし、体の状態も悪くない、だったらもう1回チャンスがあることはいいことだよねというふうに考えて、やることを明確にした状態で敗者復活戦に臨みました。
――お互いに敗者復活戦をとても前向きに捉えていたんですね。
対談 中編に続く>>
【Profile】
太田りゆ(おおた・りゆ)
1994年8月17日生まれ、埼玉県出身。中学・高校と陸上競技の中距離選手として活躍し、大学時に競輪学校の試験を受けて合格。2016年に入学すると在学中にナショナルチームから声がかかり、2017年2月のアジア選手権大会のチームスプリントに出場し3位となる。その後も数々の国際大会に出場して結果を残し、2022年、2023年のアジア選手権女子スプリントで連覇を達成。パリ五輪では女子ケイリン日本勢歴代最高の9位となった。ガールズケイリンでも活躍し、いくつかのビッグレースで決勝を走るなど、屈指の実力を誇っている。
田中佑美(たなか・ゆみ)
1998年12月15日生まれ、大阪府出身。中学から100mハードルを始め、関西大学第一高校ではインターハイを連覇し、第9回世界ユース選手権に日本代表として出場する。立命館大学では関西インカレ4連覇、2019年には日本インカレ優勝。2021年4月より富士通に所属し、2022年の日本選手権で3位、2023年世界選手権(ブダペスト)日本代表、2023年のアジア大会で銅メダルを獲得する。パリ五輪では準決勝に進出。