NBAレジェンズ連載28:チャールズ・バークリー
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第28回は、1990年代のNBAでマイケル・ジョーダンとは異なる輝きを放ち、人気を誇ったチャールズ・バークリーを紹介する。
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【高校3年の試合で開かれた強豪校への道】
NBAのスーパースターだった現役時代も、TNTのスタジオコメンテーターとして活躍している現在も、チャールズ・バークリーは常にストレートに本音を口にする。
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有名なのが1991年の「オレはロールモデルではない」というコメント。その理由は、アスリートが若者の模範となるべき行動の責任を負う必要はなく、親と教師が担うべき、という持論からきているが、思ったことを常に言葉で表現し続ける人物であり続けている。
「もしバスケットボール選手になっていなかったら、オレは恐らく刑務所に入っていただろう」と言うバークリーは、アラバマ州リーズで生まれ育った。リーズ高でバスケットボールをしていたが、ジュニア(日本の高2)の時にヴァーシティ(一軍)チームに入ることができなかった。その当時は身長178cm、体重100kgだったが、しかしシニア(高3)になる前の夏に身長が193cmまで伸びたこともあり一軍メンバー入りを果たすと、19.1点、17.9リバウンドと活躍した。
NCAAディビジョン1の強豪大学はバークリーに興味を持っていなかったが、アラバマ州選手権の準決勝で高校オールアメリカンに選ばれていたボビー・リー・ハートを相手に26得点をマーク。この試合を見ていたオーバーン大のソニー・スミスヘッドコーチは、この試合でのプレーに感銘を受けたことでバークリーを勧誘。自宅から150km弱にキャンパスがあったことも決め手となり、バークリーはオーバーン大への入学を決断した。
大学時代のバークリーは198cm(登録上。実際は193cmくらい)とパワーフォワード(PF)としては小さく、その一方で体重が135kg近くまで増加。しかし、フィジカルの強さに加え、高い身体能力と機敏さも兼備した類稀な選手になっていく。ディフェンシブ・リバウンドを奪うと、そのままボールをプッシュし、豪快なダンクを叩き込むプレーは、バークリーがすばらしい才能を持った選手であることの象徴的なプレーだった。アメリカでは"The Round Mound of Rebound"(リバウンドの丸い塊) というニックネームをもらったが、日本のNBAファンの間では、「Sir Charles(サー・チャールズ)」「Flying Refrigerator(空飛ぶ冷蔵庫)」として親しまれた。
バークリーは3年生時の1983−84シーズンに平均15.1得点、9.5リバウンド、2.1アシスト、1.8ブロックショット、FG成功率63.8%を記録。1回戦敗退となったものの、オーバーン大史上初となるNCAAトーナメント(全米大学選手権)出場の原動力となり、サウスイースタン・カンファレンスでは年間最優秀選手に輝いた。NBAにアーリーエントリーしたバークリーは、1984年のドラフト1巡目5位でフィラデルフィア・76ersから指名された。
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【NBAのスター街道を上っていったが......】
1983年にNBAチャンピオンになった76ersには、ジュリアス・アービング、モーゼス・マローンという大ベテランがいた。特にマローンの存在は、バークリーがNBAでキャリアを構築していくうえで大きな意味があった。
バークリーは、身近なベテランを手本にして、大学時代に苦労した体重管理、試合に向けた適切な準備、体調を整えることの大事さを学びながら、1年目に平均14得点、8.6リバウンドをマークし、即戦力に。ルーキーシーズン後の夏のワークアウトをマローンと一緒に行ない、プレー全体のレベルアップを図ると、2年目のシーズンは平均20得点、12.8リバウンドまで数字を伸ばし、76ersの中心選手へと飛躍していく。
3年目の1989-90シーズンのバークリーは平均25.2得点、11.5リバウンド、FG成功率60%の数字を残した。MVPの投票で1位票の数は最も多かったが、合計の得票ポイントでマジック・ジョンソン(ロサンゼルス・レイカーズ)に届かず2位。しかし、大黒柱として76ersが53勝29敗の成績を残す原動力となり、プレーオフでは1回戦を突破し、カンファレンス準決勝進出を果たす。翌1990-91シーズンも平均27.6点と活躍し、オールスターゲームでは17点、22リバウンドでMVPに選出。オールNBAファーストチームに4年連続で選ばれたが、プレーオフではカンファレンス準決勝で再びマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズに敗れた。
開幕直後、ジョンソンがHIV感染で引退するというニュースが世界を駆け巡った1991−92シーズン、バークリーは、チームメートのビリー・カニングハムの許可を得て、ジョンソンがレイカーズで背負っていた背番号32をつけてプレーした(バークリーは34番だった)。しかし、孤軍奮闘するも報われず。76ersが35勝47敗でプレーオフ進出を逃したことでチームに対する不満が蓄積し、シーズン終了後に首脳陣にトレードを要求するにまで至った。
ドリームチームの一員としてバルセロナ五輪のアメリカ大陸予選を戦ったあとの1992年7月17日、ジェフ・ホーナセック、ティム・ペリー、アンドリュー・ラングとの1対3の交換トレードで、フェニックス・サンズへ移籍したのである。
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「フィラデルフィアで持っていたすべてを捧げたが、そこでは勝てないとわかっていた。フェニックスへの移籍は、自分が最高レベルで競争するために必要だった」
こう語ったバークリーは、ジョンソン、ラリー・バード、ジョーダンらと一緒にプレーしたバルセロナ五輪で金メダルを獲得。そして新天地で迎えた1992−93シーズン、司令塔のケビン・ジョンソン、シューティングガードとして台頭したダン・マーリー、ベテランのダニー・エインジとトム・チェンバースらが存在感を発揮した総合力の高いチームを牽引。62勝20敗とNBA最高成績を残す要因になったことで、バークリーはレギュラーシーズンのMVPに選出された。
プレーオフではロサンゼルス・レイカーズとの1回戦が2連敗からの3連勝、シアトル・スーパーソニックスとのカンファレンス決勝が4勝3敗と厳しい戦いを勝ち抜いていく。バークリーは、特にソニックスとの第7戦では44点、24リバウンドと大爆発するなど、NBAファイナル進出の原動力になった。
【NBA王座に最も迫った1993年】
NBAファイナルの相手はブルズ。3連覇を目指す王者に対し、サンズはホームコート・アドバンテージを持っていたが、ホームでの最初の2試合を接戦で落としてしまう。厳しい状況で迎えたシカゴでの第3戦でサンズは129対121という3度の延長戦までもつれた激戦に勝利したが、第4戦ではジョーダンが試合を完全に支配。バークリーが32点、12リバウンド、10アシストのトリプルダブルを達成したものの、ジョーダンはNBAファイナルでの自己最多となる55点を奪ってブルズを勝利に導いたのである。
バークリーの24点という活躍もあってサンズが第5戦を勝利したが、ホームでの第6戦は、4Q残り1分4秒で4点リードの局面からオフェンスの機会を得たものの、試合終了まで1点も奪うことができず、残り3.9秒にジョン・パクソンに逆転の3Pショットを決められて98対99で敗北。土壇場で逆転負けを喫し、シーズンを終えることになった。1993年はバークリーにとってNBAタイトルを獲得する絶好のチャンスだったが、オフコートでは大親友であるジョーダンの壁を打ち破れなかった。バークリーは、のちに、こう語っている。
「あれはオレがチャンピオンシップを獲得する最高のチャンスだった。いまだにそのことを考えることがある」
バークリーはその後もサンズの大黒柱として頂点を目指したものの、1994年と1995年のプレーオフでヒューストン・ロケッツに2年連続、ホームでの第7戦で敗北。1996年は1回戦でサンアントニオ・スパーズに敗れると、1996年8月のトレードでロケッツに移籍した。
ロケッツではアキーム・オラジュワンと強力なフロントラインを構成すると、1997年のプレーオフでカンファレンス決勝に進出する。33歳のバークリーはユタ・ジャズとのシリーズで平均16.2点、11リバウンドと奮闘したが、第6戦でジョン・ストックトンにブザービーターの3Pショットを決められてシーズンエンドになった。
その後は2年連続でプレーオフ1回戦敗退という結果に終わったバークリーは、1999年12月に左大腿四頭筋腱破裂という大ケガに見舞われ、2000年4月19日のバンクーバー(現メンフィス)グリズリーズ戦を最後に、現役を引退。最後の得点は、オフェンシブ・リバウンドを奪ってからのフィニッシュとバークリーらしいものだった。
「オレはこのゲームに自分が持っているもののすべてを出しきった。チャンピオンシップを獲得するヤツもいれば、優勝しないヤツもいる。しかし、オレは後悔することなんかひとつもない」
チャンピオンシップ獲得という悲願を達成できなかったバークリーだが、NBAの歴史に残る偉大な選手だったことは間違いない。
【Profile】チャールズ・バークリー(Charles Barkley)/1963年2月20日生まれ、アメリカ・アリゾナ州出身。1984年NBAドラフト1巡目5位指名。
●NBA所属歴:フィラデルフィア・76ers(1984-85〜1991-92)―フェニックス・サンズ(1992-93〜1995-96)―ヒューストン・ロケッツ(1996-97〜1999-2000)
●NBAファイナル進出1回(1993)/シーズンMVP1回(1993)/オールNBAファーストチーム5回(1988〜91、93)/オールスターMVP1回(1991)
●主なスタッツリーダー:リバウンド王1回(1987)
●五輪出場歴: 1992年バルセロナ大会(優勝)、1996年アトランタ大会(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)