《苦節30年→韓国で大ブレイク》歌心りえさん 声帯を痛め喉が血だらけに…“どん底”を救った家族の言葉

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2024年12月12日 11:01  web女性自身

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今、日本と韓国で絶大な人気を集める「歌心りえ」という人物をご存じだろうか。51歳の日本人歌手で、彼女の歌を知る人からは「ぜひ紅白特別枠に選ばれてほしい。それだけのパワーと実力がある」と、期待されるほどだ。



今年4〜5月に放送された韓国のケーブルテレビ番組『韓日歌王戦』。日韓のシンガーが7vs.7で激突する音楽番組で、歌心さんは日本代表の1人として出演した。



日本語で中島美嘉の『雪の華』やさだまさしの『道化師のソネット』などを披露すると、スタジオ中が歌心さんの声に感情を揺さぶられた。テレビには、韓国チームの若い歌手たちが、感動のあまり大粒の涙を流す姿も映し出されていたのだ。どれほどの歌声だったのかがわかろうというもの。



その様子は放送後、すぐに動画サイト(YouTube)にアップされ、感動の輪はさらに広がってゆく。



《国境を越えて人の心を動かす歌声と表現力に感動。本当に素敵な声。涙が止まらない》
《声にオーラがあり、引きつけられる。まるでおとぎ話の中で聴いているような心地よさ。唯一無二の人》
《日本でいちばんうまい歌手といっても過言じゃない》



韓国語、日本語を中心に称賛のコメントが数多く寄せられた。



もっとも反響の大きかった『雪の華』のカバー動画の視聴数は、12月現在、800万回を超えている。



こうして、彼女はあっという間に番組の主役となったのだ。『韓日歌王戦』は歌心さんの活躍もあり、最高視聴率が15.2%という異例の大ヒットを記録。韓国で、一般的な音楽番組の視聴率が数%ということをふまえると、その人気ぶりがうかがえる。



「これほどうまいのになぜ今まで知られていなかったのか」と言われることも多い歌心さん。この劇的ブレークまでには、じつに30年以上も歌い続けた日々があった。





■デビュー後まもなく、ポカリCMソング、冬ソナ挿入歌まで担当



「歌は幼いころから好きでしたが、歌手を志したのは高校生のころ。地元栃木でNHKの『のど自慢』が開催され、応募して出場しました。そのときステージで歌うことの喜びを知り、それがきっかけで歌手を目指すことにしたんです。



学生時代にはオーディション雑誌に応募をしたり、当時通っていた英語の専門学校の学園祭で歌を披露していましたね」(歌心さん、以下同)



1993年、とあるオーディションの最終選考に残るが惜しくも敗退。



「それでも諦めず、デモテープをレコード会社に送りました。そして1995年、姉とともに『Letit go』のメンバー『八塚りえ』としてワーナーミュージック・ジャパンからデビューしました」



デビューしてまもない1995年9月、歌心さんに早速大きなチャンスが訪れる。セカンドシングル『200倍の夢』が、なんとポカリスエットのCMタイアップ曲となったのだ。



「とても古い曲なのに、韓国のコンサートで披露するとすごく反響があって。CMに起用されたからなのか、たくさんの人が知っていてくださるのがうれしいです」



その後はソロ活動をする一方で、ピアノとチェロ、ボーカルによるクラシカルポップスユニット「September」を2004年に結成した。



「Septemberでは、当時、韓国ドラマにインスピレーションを得て、『冬のソナタ』『秋の童話』『夏の香り』や『私の頭の中の消しゴム』などの挿入歌の日本語バージョンをリリースしています。



有名作品を担当したことで、『韓国進出できるんじゃない!?』と期待していたんですが……オファーの連絡はゼロでした(笑)」



2008年には、音楽仲間であった夫と結婚。ライブハウスを併設したレストランを経営しており、歌心さんも現在まで、店のステージで歌いながら手伝いをしている。



「実はこのころまでは『Rie』という芸名で活動していました。しかしもっと印象に残る名前にしたいと思い、『歌は心』『心を伝える歌』をモットーに“歌心りえ”という名前に変えました」



「歌心りえ」として活動するようになってからも、ボイストレーナー、バックコーラス、イベント出演など歌に関わる仕事を続けてきたという。しかし、知名度が劇的にアップすることはなかった。



「2014年、41歳のときに娘を出産し、2年ほどは歌手としての活動を休んでいました。でも、お店で娘を抱っこしながら歌ったり、寝ている横で歌ったり……。そのときの音源を聴くと、娘の泣き声が入っています(笑)。 とにかく、歌うこと自体は続けていましたね。歌をやめようと思ったことはありませんでした」



しかし、2019年、歌と向き合う歌心さんに壁が立ちはだかるーー。



「声帯を痛めて声を失ったんです。そのときは数週間で治ったのですが、2年前に再び声帯を壊してしまいました。このときは、声が出ないばかりか喉が血だらけになるほどで。筆談しかできませんでした」



治療も激痛でとてもつらかった、とこぼす歌心さん。



「私が歌えない間に、お店でプロのミュージシャンたちが演奏するのを見て、『こんなにうまい人たちがいるのに、私なんて必要ないんじゃないか……』と初めて弱気になりました。“引退”の2文字も頭をよぎったのです」



どん底の状態を救ったのは、10歳の長女と夫だった。



「『お母さんの歌が大好きなの。その歌をまたみんなに届けて』と娘が励ましてくれたんです。また、私の落ち込みをしばらく見守っていた夫も『あなたには歌しかないでしょ』とそっと背中を押してくれました。ものすごくありがたかったですね」





■韓国でのブレーク前に歌い方を変えていた



「じつは声帯を壊す前、歌うと喉に引っかかる感覚があって『この歌い方を続けてはいられない』と感じていました。以来、それまでの力を込めた歌い方から、柔らかさも意識する歌い方に変えたんです。録音を繰り返し聴いて、改善に取り組みました」



そして昨年、韓国へ渡るきっかけが訪れる。



「韓日歌王戦に出場する前、日本でトロット・ガールズ・ジャパンというオーディションへのオファーがありました。一応歌手としてデビューしていたので、若手が多い場に参加するか最後まで迷ったのですが……。結局出てみることに。最年少は12歳で、ほかの出場者も若い人ばかり。もちろん私が最年長でした(笑)」



この挑戦により、歌心さんは見事日本代表に選出され、韓国で大ブレークすることになる。



「歌王戦の出演者はすばらしい方ばかりですし、正直、ここまで反響があるなんて驚きました。娘は『私のお母さんは歌心りえ』なの、と学校で自慢しているようでほほ笑ましいです。いっぽう、母や姉は『マスコミは、これまでを“無名時代”と言うけれど、私たちはりえを無名だと思ったことは一度もない』と変わらぬ愛で応援してくれています」



また、年齢にとらわれず挑戦する姿勢について、歌心さんは次のように語る。



「私は『たゆまざる前進』という言葉を大切にしています。人間だれしも、心のアンテナに触れる場面ってあると思うんです。それがどんなきっかけになるかわからないけれど、ふだんから目の前のことに向き合って、今あるチャンスは逃さない。やりたいと少しでも思ったら、取り組んでほしいです」



番組出演のあとは、韓国で彼女をクローズアップした番組も制作された。それを追うように、日本での番組出演も増えている。歌心さんは、この大ブレークにもかかわらず、常に自然体だ。



「ファンが増えていることはありがたいですが、直接お会いしていないので、どこか実感がわかないです。皆さんに直接会うべく、韓国でのソロコンサートや日本全国ツアーが当面の目標です。おばあちゃんになるまで歌っていたいし、長年の夢である『紅白歌合戦』にも出られるとうれしいですね」



肩肘張らず、ナチュラルな生き方、謙虚な姿勢が垣間見える歌心さん。それでいて、歌への飽くなき情熱は青い炎のようだ。それが続けられるのも家族のおかげ、と言い切る歌心さんの笑顔が印象的だった。



現在、51歳。心を揺さぶる歌声と、年齢を重ねてもなお挑戦を続ける彼女の姿は、多くの人々に勇気を与えてくれるに違いない。

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