平成ギャルがトレンドになっている昨今。見た目だけではなく精神性にも注目が集まり、ポジティブに自分らしさを貫くマインドが支持されているという。そうした再ブームで気になるのは、かつて渋谷センター街を賑わせていたギャルたちの今だ。10代・20代を謳歌していた彼女たちは、年齢を重ねてどのような女性になっているのだろう。
今回登場するのは、モデル/DJの山城奈々さん(36歳)。中学時代にはファッション誌の専属モデル、高校時代にはギャルサー(ギャルサークル)の2代目代表としてメディアに出演していた。一時期はタレントとして活動していたが、19歳で芸能界を引退。しばらく表舞台から姿を消していた。
それから15年以上が経ち、山城さんは再びモデル業に復帰。昨今では有名ブランドのファッションショーへの出演、グラフィックデザイナー、DJなど、幅広い分野で活動している。とはいえ、療養のためにしばらく休業していた時期も。実はがんを患っていたという。山城さんはがんをどのように乗り越えてきたのだろうか……。
◆エリート一家で育てられた少女をギャルに変えた“2つの出会い”
センター街の前で待ち合わせしていると、オールブラックのモード系ファッションに身を包んだ山城さんが現れた。スラッとした高身長の凛とした出で立ちは、混雑した渋谷の街でも目立つほどにオーラがある。
中学生の頃からモデルとして活動してきたという。そんな彼女もまた現在の風貌からは想像できないが、かつては渋谷109に通う“ガングロギャル”だった。
だが、はじめから“ギャルマインド”を持っているタイプではなかったそうだ。父は芸術家、母は医療系で働くエリート一家で厳しく育てられ、学校ではなかなかクラスに馴染めなかった。どこにいても息苦しく、ひたすら漫画ばかり描いていたという。
「本質は陰なタイプなんです。コミュニケーションがとれなくていじめられてました。男子にもモテてませんでしたね。学校にも家にも居場所がないから、鬱々としていた小学生時代を過ごしてて……死にたいなってぐらい」
そんな山城さんを変えたのは、のちに親友となる同級生との出会いだった。
「ある日、声をかけてくれた子がいたんです。『いつも1人じゃん!友だちがいないならうちのグループくれば?』って」
この日からふたりは急速に仲良くなった。どうやら親友はヤンキー家族の元で育ってきたという。エリート一家で育てられてきた山城さんとは性格も育ってきた環境も正反対だった。家族に従ってきた山城さんにとって、自分の好きなように生きる親友の姿はまぶしく見えた。
そんな親友に刺激を受け、性格が少しずつ明るくなっていった頃。ギャルを目指す決定打となる出会いがあった。
「『MAGICAL EXPRESS (海の見える街)』という曲を聴いたんです。もう……衝撃を受けました。それからトランスミュージックにハマって。どんな人がこういう音楽を聞いてるんだろうと調べてみたら“ギャル”なんですよね。それで私もこういう人たちになるって決めて」
10歳以上離れた姉ふたりの影響でギャルにはもともと関心はあったが、親友とトランスによって、ついにそのスイッチが入った。そしてこの二つの出会いが、現在に至るまでの彼女の人生にも影響を与えていくことになる。
◆ギャルに厳しい世間の目…苦情の手紙や唾を吐かれたことも
自己主張は悪いことじゃない、好きなファッションをしたい、もっと自由に生きたい……そう考えるようになった山城さんは、地元・埼玉から渋谷へと通うようになりどんどん派手になっていった。しかし、そんな彼女に厳格な両親が黙っているわけがない。
「親とは言い合いばっかりでしたよ。特に父は私の変化にかなり動揺してました。でも喧嘩しても意味がないので。冷静になって『何が嫌なのか説明してください』って返してました」
“ギャル=不良”として認知されていた時代。今となっては“個性”として好意的に受け止めてもらえるギャルカルチャーだが、当時は冷ややかな目で見る人も多かった。親だけではなく、近所の大人も、学校の先生も、山城さんには厳しかったという。
「今はギャルが肯定的に見られてますけど、それってすごいことですよ!昔はセンター街を歩いてたら唾とか吐かれてましたし、家のポストに『なんで歩いてるんですか?』って書かれた手紙が入っていたこともありました。あの頃はクラブなんて行ったら不良だと言われていましたから」
それでも自分の軸を曲げることはなかった。もう誰にも縛られない、私は好きなように生きる、山城さんの意志は強かった。
そんななか、109の下でスカウトされてモデルとしてデビューを果たす。すると、周囲の対応は変わったという。
「モデルとしてお金を稼ぐようになると誰も何も言わなくなったんです。それで幼心に、大人は仕事で成功すれば何も言わなくなるんだって捻くれてしまって(笑)。自分の道を突き進むためには自分で稼げばいいんだと思いました」
中学2年生にして自分で稼ぐことの意義を知った山城さんは、モデル業に勤しんだ。
◆当時の夢は“スーパーフリーター”
そしてさらなる転機が。地元の先輩からこれから新しくできるというギャルサーに勧誘されたのだ。有名ギャルサーの妹分サークルということで、山城さんも乗り気になり「やるやる!」と即答で加入を決めた。
モデルとして、というよりも、“ギャル”として、有名になりたかったという。ギャルブームの中で、顔と名前を少しでも覚えてもらうために、メイクはあえて薄くして色味や服装で個性を出していたのだとか。ブルー、ホワイト、ピンク……などテーマカラーを決めたコーディネートにしていた。憧れはパリス・ヒルトンとバービーだ。
高身長のスタイルに、個性的なファッション。山城さんは渋谷でも目立っていたようで、念願だったギャル雑誌『egg』のストリートスナップにも出演。山城流ファッションは瞬く間に話題となり、「前略プロフ(前略プロフィール)」やブログのアクセス数も急上昇し、ギャルとしての知名度はどんどん上がっていった。
そんな山城さんの当時の夢は“スーパーフリーター”。
「会社員に向かないなって思ってたんです。中学生の頃なんて三者面談で将来について聞かれたら、え〜〜スーパーフリーター?とか答えてたんですよ。今思えば、個人事業主!?って感じですけど(笑)。母親からは『やだあ〜やめてよ〜』って言われてましたし、先生も『はあ……』って呆れてましたね」
それでも山城さんはかなり本気だった。実際にその後、山城さんは大きな飛躍を遂げていく。
◆ギャルを卒業して芸能界へ
ギャルサーの先輩たちは、山城さんの活躍に目をつけ二代目代表に指名、さらに知人からは、プロデュース業を営む会社を運営しないかと話を持ちかけられていたという。ギャルとして有名になりたい彼女はどちらも承諾。忙しい日々が始まった。
ギャルサーのイベント運営、商品企画、メディアの密着取材、雑誌の撮影、番組出演……学業に回せる時間はほとんどない。埼玉のとある高校に通っていたが、仕事を優先して定時制の学校へと転校することにした。とにかくギャル業が楽しかったのだ。
ギャルとして活躍していた山城さんだが、高校卒業とともにギャルファッションはきっぱりやめた。「ギャルは18歳まで」とはじめから決めていたのだとか。
その後、タレントとなりしばらく活動するが、19歳で芸能界を引退。華やかな世界の裏側には想像以上の過酷さがあった。
「番組はいくつか決まってたんですけどギャルの格好をやめたら流れちゃいましたね。そのあと知人の紹介でタレント事務所に所属したんですけど、当時の芸能界は辛いことが多くてメンタルが病んじゃって。さすがにそんなことできないなと思うこともあったんですよ。それで1年ちょっとで辞めちゃいました」
それからしばらくは芸能界から離れた。その間は数年ほど仕事をしながら貯金し、その資金でグラフィックデザインの専門学校に入学した。そこで学んだ知識を活かし、グラフィックデザイナーとしても活動するようになる。
気がつけば芸能界引退から8年が経っていた。20代後半となった山城さんはこれからの人生について考えていた。
これからどう生きていこうか、やり残したことはないか……考えた末にもう一度モデルになりたいと思ったという。
その頃にはモード系ファッションを好むようになっていた山城さん。それならランウェイを歩くモデルになってみようと考えた。思い立ったらすぐに行動。するととんとん拍子でランウェイの出演が決まっていく。
Mame Kurogouchi、Maison MIHARA YASUHIROなどの有名ブランドのファッションショーにも出演。再びモデルとしての夢を叶えていく山城さん。
まさに順風満帆な生活。しかし、悲劇は突然訪れた。
◆突然のがん宣告。医師には「きみは治らないかもしれない」
「がんと宣告されたんです。子宮を全摘してくださいって言われて……」
婦人科系の検査で異常が見つかり手術したところ、なんと子宮頸がんが発覚したという。
当時まだ33歳。医師の申し訳なさそうな様子から嫌な予感はしたが、まさか、がんとは。思わず笑ってしまったという。振り返ってみれば、今まで激しい人生だった、普通を求めても普通にはなれなかった……そんなことが頭をよぎる。
その日は大好きなトランスを聴いて帰った。
「あー……みたいな。すぐには言葉がでませんでした。でも悲しいよりも乗り越えなきゃっていう気持ちの方が大きかったですね。で、その時に『そうだ私ギャルだったわ!』って。あのときの自分でいれば大丈夫、絶対治してみせる、と思いました」
それからの行動力は凄まじかった。すぐにSNSでがんを患う人たちと繋がりをもち、情報を得た。治験があると知れば、すぐに遠方の病院まで行って受けた。
しかしそれでも結果は同じだった。
「がん友だちに教えてもらった治験があって、石川県の病院まで月に1回受けに行ったんです。そこでも『きみは治らないかもしれないから子宮全摘になるだろう』って言われましたね。でも人間の血液って3ヶ月に1回入れ替わるから薬が効くだろうなと思ったんです。それでエビデンスを徹底的に調べて全部やりました」
そして現在、なんと2年以上寛解を保っているという。
「3、4回の治験で治ったんです。先生からは『君はもってるね』って言われました。心の持ちようが大事なんですよね」
さらにこう続けた。
「これはギャルじゃなかったら絶対乗り越えられなかった。あのとき声をかけてくれた親友のおかげでギャルになれたので、本当に感謝しかないです」
病気を乗り越えてからは、時間がどれだけ有限か思い知らされたという。死に刻々と近づいているのだからこれからは好きなことだけに専念しよう。そうした思いが様々な活動にチャレンジしようとする原動力になっているようだ。現在はDJとしても活動を始めた。
半生を振り返った山城さんは、最後にこれからの人生についてこう語る。
「無駄な時間を過ごすのはもったいない。色々先回りしてやって、やりたいことを詰め込んでます。ワインも好きだし、音楽も好きだし、好きな人たちと好きなように過ごしながら、頑張り続けられる環境があればそれでいいなと思います。健康第一なので」
<取材・文/奈都樹、撮影/長谷英史>
―[“ギャル”のその後]―
【奈都樹】
1994年生まれ。リアルサウンド編集部に所属後、現在はフリーライターに。『リアルサウンド』『日刊サイゾー』などで執筆。またnoteでは、クォーターライフクライシスの渦中にいる20代の声を集めたインタビューサイト『小さな生活の声』を運営している。