西田敏行さん、死の直前まで奔走「役者風情が」抗議されても演劇人を守り続けた“リーダーの顔”

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2024年12月25日 11:00  週刊女性PRIME

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週刊女性PRIME

2024年10月17日に亡くなった西田敏行さん

 2024年10月17日、西田敏行さんが虚血性心疾患で、東京都内の自宅で死去した。76歳だった。

「1970年に劇団青年座に入った西田さんは、その愛嬌のあるキャラクターでたちまち人気役者に。日本テレビ系のドラマ『西遊記』や『池中玄太80キロ』に出演。1981年には『もしもピアノが弾けたなら』で歌手としても評価されるなどマルチに活躍しました。代表作の映画『釣りバカ日誌』は、22年間続く人気シリーズになりました」(スポーツ紙記者、以下同)  

 日本を代表する名優だった西田さんだが、50歳を過ぎたころから体調を崩しがちに。晩年は手足のしびれにより杖や車椅子を用いての移動も見られた。

「12月6日公開の映画『ドクターX FINAL』が遺作になりました。報道によると、亡くなった当日も出演予定だったドラマの打ち合わせが入っていたそうです。最後まで演技に情熱を注いでいた方でした」

 芝居以外に西田さんが精力的に取り組んでいたのが、日本俳優連合(以下、日俳連)の理事長としての仕事だった。

「西田さんなら信頼できる」

 日俳連の副理事長を務めている声優の池水通洋氏は、このように語る。

「日俳連は俳優や声優など演技人の権利を守り、地位の向上を目的とした団体。西田さんは、2008年から亡くなるまで理事長を務めて、演者全体のために貢献してくださいました

 西田さんが理事長に選ばれたのは、周囲の推薦によるものだった。

先代の理事長だった里見浩太朗さんの後任を探していた際、西田さんに近しい人から“あの人なら信頼できる”と意見が出たんです。それまで私は接点がありませんでしたが、彼の温かい人柄はお聞きしていました。それでご本人にお願いしたんです」(池水さん、以下同)

 理事長のオファーに対して西田さんは「それもいいかもなぁ〜」と、承諾。理事長就任後は、スポンサーや制作サイドの意向に逆らえない国内の演者の立場を改善するため、海外の俳優団体とも意見交換をするなどの活動を続けていた。

 打ち合わせ時の西田さんからは、演技中とは異なる一面も垣間見えたという。

「映画やドラマでは表情豊かな西田さんですが、打ち合わせの場では、とても寡黙。熟考しながら慎重に言葉を選んで語る姿が印象的でした

後任決定に「よかった」安堵の表情

 自身の活動と並行しながら俳優たちの仕事と生活を守っていた西田さん。2020年に新型コロナウイルスの感染拡大により、映像作品の撮影や舞台公演の中止が余儀なくされた際は、政府に向けて本人名義で声明を発表。仕事のキャンセルが横行し、十分な補償を受け取れない演者たちの現状に、

《文化と芸能界を支える俳優へご配慮下さいますよう要望いたします》

 と、訴えるも……。

「日俳連の事務所には“役者風情が何を言うか”といった、抗議の電話やメールが殺到しました。それでも西田さんは意見を曲げず。本当に頼もしい方でした」

 池水さんが最後に西田さんと会ったのは、亡くなった月と同じ10月だった。

「以前から、体調不良と多忙を理由に理事長の退任を申し出ていて、その日は後任を決める打ち合わせだったんです。後任が無事決まった際は“よかった、よかった”と安堵の表情を浮かべていました。役者としてはもちろん、最後まで演者や団体のことを思う素晴らしいリーダーでした

 西田さんの遺志は、これからも受け継がれていく─。

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