「女子高生コンクリート詰め事件」実行犯の死亡で再注目。36年後の綾瀬に残る“事件の爪痕”

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2025年01月12日 09:10  日刊SPA!

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被害者が監禁されていた家/1989年03月31日撮影 
写真/産経新聞社
「まさに人の仮面を被った鬼畜の所業」(検察側の論告要旨から)
 今年1月で、36年目の冬をむかえた事件がある。俗に言う「女子高生コンクリート詰め殺人事件」だ。 今月6日、HBC(北海道放送)による本事件に関する独自の調査報道の記事が公開され、一時的に「女子高生コンクリート詰め殺人事件」というワードがX(旧Twitter)のトレンドにあがった。

 HBCの調査報道によると、後述する準主犯格Bと実行犯Dが死亡していたといい、その内容に風化の一途をたどっていた本事件が突如として注目されることになった。

 少年犯罪の代名詞とも言われているこの事件が発生したのは、筆者が生まれる14年も前のこと。ここでは、当時を知らない世代が現場の今とともに事件を振り返っていく。

◆凶悪な少年犯罪の全貌

 確定判決と検察側の冒頭陳述要旨などの裁判資料から、事件の詳細を紐解いてみる。

 刑事裁判の被告人となった少年は、主犯格のA(当時18歳)、準主犯格のB(当時17歳)、C(当時15-16歳)、D(当時16-17歳)の4人。少年らは、東京都足立区内の同じ中学校出身の先輩・後輩の関係にあり、事件当時は既に高校を中退していた。地元の綾瀬地域を中心とする暴力団を結成し、後に凄惨な現場と化すCの部屋をたまり場としていた。

 1988年11月25日午後8時頃、埼玉県三郷市内でアルバイトからの帰宅途中であった高校3年生のEさん(当時17歳)が、AとCによって誘拐された。

 少年らは、強姦などをするためにバイクで女性を探していたところ、三郷市内の交差点で自転車に乗ったEさんを発見。少年らは、その後を追い、CがEさんの乗った自転車を蹴飛ばして側溝に転倒させ立ち去った。直後、Aが偶然通り掛かったように装いながら、Eさんに対して「危ないから、送ってやる」などと言って、足立区内のホテルに連れ込んだ。その後、翌26日にAはEさんを少年らの溜まり場となっていたCの部屋へと連れて行ったという。

 そこでは筆舌に尽くしがたい、非人道的なことが行われ、翌89年1月4日までにEさんは死亡した。

 翌5日には、犯行の発覚を恐れて、A・B・CはEさんの遺体をドラム缶に入れるなどして、借りてきたトラックで江東区若洲まで運び、遺棄したとされている。

◆裁判は“異例の控訴”も

 東京家裁は少年らを逆送致決定、東京地検は殺人罪などで少年らを起訴し、89年7月に東京地裁で初公判が開かれた。

 裁判で、Aの弁護人は「殺意はないものの、このまま暴行し続ければ死ぬかもしれない」という未必的殺意を主張し、殺人罪の適用を認めた。一方で、B・C・Dの弁護人らは「暴行はしたものの死亡するとは思わなかった」と殺意を否定し、傷害致死罪を主張した。

 90年5月の論告・弁論で、検察側はAに無期懲役、Bに懲役13年、CとDに対しては懲役5年以上10年以下をそれぞれ求刑。

 同年7月に開かれた判決公判で東京地裁(松本光雄裁判長)は、Aに懲役17年、Bに懲役5年以上10年以下、Cに懲役4年以上6年以下、Dに懲役3年以上4年以下をそれぞれ言い渡した。

 その後、東京地検は「量刑不当」を理由に異例の控訴。91年7月、東京高裁(柳瀬隆次裁判長)は、本件は「稀に見る重大かつ凶悪な犯罪で、その残虐さ極悪非道さは、過去にも類例を見出だし難く、社会に与えた影響も極めて深刻であり、原判決は著しく軽過ぎて不当である」として、Aに懲役20年、Cを懲役5年以上9年以下、Dを懲役5年7年以下とした(Bは第一審判決を維持)。その後、Dは最高裁へ上告したものの棄却され、いずれも確定した。

◆現在の事件現場の様子は

 昨年2月、筆者は裁判資料をもとに、Eさんの誘拐現場である三郷市内の路上と、少年らの地元である足立区綾瀬周辺に出向き、少年らの足取りを巡った。

 少年らの地元である足立区綾瀬から北東に約5km。Eさんのバイト先があった八潮市から自宅のある三郷市まで続く、車一台が横切るのがやっとの抜け道。AとCに出くわした交差点から伸びる大通りとV字で分かれ、細い道となっている。

「事件のことはよく覚えています。当時よりかは街灯が増えたかもしれないですが、暗いのは変わらないですね。ただ、三郷市の南側に抜けるにはこの道が一番近いので、それで(Eさんが)選んでしまったのだと思います」(地元住民)

 地元住民によると、風景は当時とほとんど変わらないというが、Cによって落とされた側溝にはフタがされていた。

◆遺体の入ったドラム缶が発見された場所の現在

 筆者は別日に、少年らの地元である足立区綾瀬にも訪れた。

 夜の綾瀬駅周辺は、少年らがたむろしている様子もなく、いたって平穏だ。

 Cの家があった北綾瀬周辺は再開発が進み、当時の報道写真とは大きく変わっている箇所もあった。

「今の北綾瀬は、千代田線で代々木上原などに直通できるようになって、穴場な街として注目されているらしいです。ただ、環七(都道環状七号線)から一本入ると、当時と変わらない暗い感じの住宅地がそのままだったりしますが……」(地元住民)

 Cの家のすぐ近くで少年らがたむろしていた公園は、今もそのまま残っている。Cの家は、事件の数年後に取り壊され、今は別の所有者になっている。

 ただ、少年らがCの両親に気づかれないようにと電柱を登ってCの部屋のベランダへと行き来していたという、その電柱は当時から変わらないまま事件の面影を残していた。

◆裁判長が少年4人に残した言葉

 当時の報道で「我が国の少年犯罪史上最悪な事件」といわれた、この事件も風化は著しい。

 裁判で閉廷直前に、裁判長は少年4人に対して、「事件をそれぞれの人生の宿題として、考え続けてください」と説諭したというが、果たしてその言葉の重みを少年らは理解していたのだろうか。

文/学生傍聴人

【学生傍聴人】
2002年生まれ、都内某私立大に在籍中の現役学生。趣味は御神輿を担ぐこと。高校生の頃から裁判傍聴にハマり、傍聴歴6年、傍聴総数900件以上。有名事件から万引き事件、民事裁判など幅広く傍聴する雑食系マニア。その他、裁判記録の閲覧や行政文書の開示請求も行っている。

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  • 日本共産党家庭の子供が加害者、これを誤魔化す日本共産党の党員は信に値しない。
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