能登半島地震から1年、日本一との評判も高かった七尾市和倉温泉の「加賀屋」も被害を受け、現在は休業を余儀なくされている。今回取材したのは、加賀屋に縁のあった4人の女性たち。専属レビューパフォーマー、勤続42年の営業部長、震災後に入社した新人社員……。それぞれが震災の恐怖や仕事場喪失といった冬に耐えながら、加賀屋と能登半島に春が訪れることを待ち望んでいた――。
雪の結晶をかたどった数十ものライトが、ステージをまぶしく照らす。館内にバイオリンの音色が響き、シャンソンの名曲『サン・トワ・マミー』を奏で始めると、パープルのタキシードをまとった長身の俳優が、ステージ中央へとさっそうと躍り出た。
金髪をリーゼントにまとめて、のびやかに歌い上げるのは“男役”の夏輝レオンさんだ。
次に、松たか子の『レット・イット・ゴー〜ありのままで〜』とともに白銀のきらびやかな和装の女性がスルリと舞台に登場。和傘をあやつり優雅に舞うのは“娘役”の、ゆふきれいさん。
2人はレビューパフォーマーの第一人者であり、この12月9日の舞台は「加賀屋レプラカン歌劇団」による東京・アトレ竹芝の劇場型コミュニティスペース「SHAKOBA」での最終公演だった。
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ピンクのラメ入りジャケット&パンツに早替えしたレオンさんは客席に下り、テーブルを回って拍手と歓声を浴びる。
「ようこそ、おいでくださいました。人生は歌って踊って、旅行して! 今日は大いに飲んで、楽しんでいきましょうね!」
アフターコロナの“社交場”として注目され始めた竹芝で、お酒を片手に本格ショーを堪能する。
そんな、JTB、アサヒビール後援の同歌劇団特別公演は、12月の4公演が完売するほどの人気だった。この日のフロアも、満員でぎっしり。師走の寒さはどこ吹く風で、館内の熱気は最高潮に。
レプラカン歌劇団はレオンさん、れいさんの2人が’99年に結成したレビューショーのデュオが端緒で、現在は総勢15人。
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“レプラカン”とはアイルランドの伝説で「つかまえると宝のありかを教えてくれる妖精」のこと。
レビューショーは、宝塚歌劇団や大衆演劇と同じように、旅館が所有する劇場や、ホール、クラブで行われる。だが大衆演劇と大きく違うのは、メンバー全員が女性であり、セリフのあるような人情劇は演じないこと。つまり、日本舞踊やダンスを修練した女性が、踊りと歌のパフォーマンスで魅せる舞台なのである。
ショーの後半で、レオンさんは観客にこう語りかけた。
「北陸復興支援のために3カ月にわたった本公演も千秋楽を迎えることができました。
ただ……、今年は元日から『どうなっちゃうんだろう』と途方に暮れました。私たちは1月1日、ホームグラウンドである石川県七尾市『和倉温泉・加賀屋』で、お正月口上の練習中、能登半島地震に見舞われました……」
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■「“笑顔で気働き”が加賀屋のモットー。お客さまへの心配りを教育されています」
’24年の元日、夜8時45分からの正月公演の挨拶口上を、メンバーで練習している最中だった。ゴーッと地響きが聞こえたかと思うと、加賀屋の劇場のステージが揺れだした。
レオンさんが振り返る。
「すぐにものすごく大きな揺れになって、上から照明のフィルターがバサバサッと落ちてきました。みんなに『とにかく頭を守って!』と、声がけしたのです」
れいさんは、座員の美里はる香さんに指導していた。
「ミラーボールが落ちて破片が刺さったら大変だ! と思いました。そこで、はる香ちゃんを守らなきゃと、覆いかぶさったんです」
全員のスマホから緊急地震速報が、けたたましく響く。16時10分、石川県能登地方を中心に襲ったマグニチュード7.6の大地震は最大震度7を観測(’24年11月現在、死者462人、不明3人)。本震直後から余震も続き、劇場の入り口の鉄扉が外れて倒れた。
「飛んできたっていうほどバーンと倒れて、が舞ったんです。照明の赤と粉塵が重なって、炎と見間違えた私は、思わず『火事だ、逃げよう!』と叫んでいました」(レオンさん)
気温6度。コートを着て外に出ると、大津波警報が……。加賀屋は海に面しており、和倉町一帯の避難場所のひとつは旅館から300メートルほどの高台にある寺院。
れいさんは500段ある石段を上がる途中、高齢の女性の足元がフラついているのを目にした。
「彼女に手を貸して、一緒に石段をのぼり切りました」
地震発生10分足らずでメンバー全員がたどり着いたが、警報はやまない。長期戦に備えるため、寺から100mほどの寮から布団や食料、水などを持ってきた。
真っ暗な境内で懐中電灯の明かりのみで、毛布にくるまって待機。
「冷蔵庫から持ってきた、おせちのかまぼこが、格別の味に思えました。ちょっとでもポジティブになればと、『森のくまさん』を歌い始めたのですが、誰もついてきてくれなくて……」(れいさん)
そこでリーダーのレオンさんが正月公演の口上を吟じ始めた。
「新年の、ご挨拶をさせていただきとぉ、ございます。夏輝レオンで、ございます!」
ようやくみんなから「よ〜っ、なつき!」「レオン!」と声がかかった──。
加賀屋は創業118年の歴史を持ち、昭和天皇・香淳皇后、上皇ご夫妻、天皇皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻らが宿泊された由緒ある旅館だ。グループとして、県内に旅館5施設、全国にレストラン8店舗を構えるが、震災の被害で4施設1店舗が現在も休業状態にある。
加賀屋第二営業部長で勤続42年の森浩子さん(61)が、加賀屋の「おもてなし精神」を語る。
「先代女将・小田孝の信条『笑顔で気働き』が加賀屋のモットー。『お客さまが何をしてほしいか、言われる前にわかるよう、笑顔の会話を通じて気づく』心配りを、全スタッフが徹底して教育されています」
森さんは’24年元日夕方、姉妹館「あえの風」で、お客の出迎えの最中に地震に遭った。
同館には322人が宿泊しており、安全確認しながら、駐車場に避難誘導した。だが2人の負傷者が出て「病院に連れて行ってほしい」との要望もあり、車で高台の病院を目指すことにしたという。
「ところが、通行不可や大渋滞で、病院に着いたのは17時過ぎ。もうすっかり暗くなっていました」
22時過ぎに事務所に戻って仮眠しようとしたが、余震が続いて休まらない。翌朝、電車が不通のため、車で来館した人以外の約220人を、バスやワゴン車など計11台に分乗してもらい、見送った。
「次いつお会いできるか、わかりませんでしたから、なじみのお客さまとは、泣きながら抱き合って、お別れしたんです」
震災から3カ月後の4月に加賀屋グループへ入社した24人を代表して、辞令交付式で挨拶したのが、小坂雪乃さん(23)だった。
現在は金沢市の料理旅館「金沢茶屋」のフロントスタッフとして働く彼女は、震災当時は穴水町にある母の実家に帰省していた。
「夕刻、すごい揺れがあったとき、私は居間にいました。一緒にいた祖母をかばいながら、揺れが収まるのを待ちました」
電気もガスも止まり、ようやく映った車載テレビを見ると大津波警報が。
「家族全員で高台に避難する途中、近所の人たちが『家がつぶれた』『誰々が生き埋めになった』と叫ぶ声が聞こえました」
車中泊になったが、「漠然とした不安」で眠れなかった。
「なにもできず、毛布にくるまって、ただ夜明けを待ちました。でも見上げた星空が、すごく明るくて、美しくて、泣きそうになったのを覚えています」
加賀屋の女性たちは、それぞれの場所で不安に耐えていたのだ。
【後編】名門旅館・加賀屋専属「レプラカン歌劇団」被災地で慰問、東京でショー…「また能登で公演する日のため」奮闘の日々へ続く
(取材・文:鈴木利宗)
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