阪神大震災に自衛隊は延べ約220万人を投入し、人命救助や被災者支援を行った。それまでにない規模で、「災害派遣の原点」とも呼ばれる。課題もあったが、これを教訓に自衛隊は即応性を強化し、体制を刷新。元幹部は「不備を乗り越えて今の自衛隊がある」と話す。
「もっとできたのではないか。悔いが残って今でも夢に見る」。兵庫県伊丹市に司令部を置く陸上自衛隊第3師団の元師団長で、発生直後に指揮を執った浅井輝久氏(86)はそう振り返る。
発生は早朝だったが、自衛隊の本格出動は午前10時すぎ。第1陣が神戸市内に入ったのは午後で、「遅い」と批判を浴びた。県庁と連絡がつかず、出動に必要な知事の災害派遣要請が得られなかったためで、出た後も激しい渋滞で到着に時間を要した。自主的にできたのは駐屯地周辺での限られた活動だけ。浅井氏は「今より制約が強く、世間の目も厳しい。動きようがなかった」と語る。
それまで県と自衛隊は防災訓練もしておらず、一からの体制構築。警察や消防とも連携は不十分で、活動地域の調整や情報共有も難航した。初動段階の状況把握や、ヘリコプター運用にも課題を残したという。
こうした反省から災害対策基本法が改正され、都道府県の機能がまひした場合は市町村長が被災状況を防衛相らに直接通知できるよう規定した。自衛隊の権限も強まり、救助の妨げとなる車両の移動などが可能になった。
各機関との連携も進み、行政や警察、消防、民間との防災訓練を全国で実施。危機管理担当として元自衛官を採用する自治体は珍しくない。
24時間体制で待機する初動部隊「ファスト・フォース」も整備した。陸自隊員約4000人が命令後1時間以内に出動でき、海自、空自も航空機が最短15分で被害確認に出られるほか、被害状況は映像で共有される。
陸海空の統合運用で柔軟性も増した。能登半島地震では海自艦艇をヘリポート代わりにして合同で物資を空輸し、国土交通省の職員や民間業者を自衛隊機で運んだ。
浅井氏は「阪神大震災、新潟県中越地震、東日本大震災とホップ・ステップ・ジャンプで自衛隊は変わった。訓練を怠らず次に備えてほしい」と期待を込めた。
陸上自衛隊第3師団長として災害対応を指揮した当時を振り返る元陸将の浅井輝久氏=2024年12月、東京都内
阪神大震災の被災地にヘリコプターで救援物資を運ぶ自衛隊員=1995年1月19日、神戸市灘区