宮藤官九郎脚本、阿部サダヲ主演で2024年に放送され、その年の流行語大賞にも選ばれた「ふてほど」ことドラマ『不適切にもほどがある!』。
昭和からタイムスリップした主人公がコンプライアンスに縛られた令和の世に懐かしむのが90年代の深夜番組『トゥナイト』および『トゥナイト2』だった。
お色気、政治、流行、スポーツ、社会情勢なんでもあり、まだスマホもSNSもない時代にさまざまな情報の発信地だった同番組でナレーター&リポーターとして活躍していたのが、当時40代と脂の乗っていた乱一世(74歳)である。
しかし、人気絶頂の1997年、CM前に言った「トイレに行きたいという方がいらっしゃったら行っても構いません」という自らの発言によって突然番組を去り、300万もあった月収を一瞬で失う。改めて当該発言と時代背景を振り返るとともに、その芸名の通り波乱に満ちた半生に迫った。
◆伝説的ロックバンドの全国ツアーを率いて300万円の赤字に
ーーそもそも乱さんのキャリアのスタートはいつ頃ですか?
乱一世(以下、乱):話すと長いんですけど(笑)、大学時代、キャロル(※矢沢永吉が率いた伝説のロックバンド)のローディー(※バンド周りの雑用係)をやっていたことがあって。
ーーえ? そうなんですか?
乱:なんでそんなことになったのかというと、ロックが好きで、在学中からプロデュースめいたことをやっていて、キャロルがでてきたとき「こいつらを引っ提げて全国ツアーをやりたい」と思ったんです。
でも、とにかく金がない。そんなとき、当時ジャニーズ系の呼び屋(※プロモーター)をやっていた知り合いの社長から紹介された会社を訪ねたら、あまり社会的に立場のよろしくない事務所で。
ーーそれでどうしたんですか。
乱:ここまで来ちゃったものはしょうがないから、とりあえずお金を借りて、北海道から九州までツアーを打つことはできたのですが、やっぱり全然回収できなくて300万円の赤字になって。事務所に謝りに行ったら「いいけど、どうすんだよ」と。
ーー淡々と語ってますけど、けっこう怖い話ですよね。
乱:「しばらくうちで働くか」ってことになって「あぁ、このまま俺はこの世界に沈んでいくのか……」と思っていたら、ある日、その事務所の幹部の人たちが不祥事でほとんどいなくなって。「これだ!」と思ってキャロルのプロダクションに電話をかけたら、ローディーとして拾ってもらったんです。
◆25歳で日本武道館を貸し切ってディスコに
ーー運が良かったですね。
乱:とは言っても持ち出し(※多くかかった分の費用は自分が負担すること)だったので、程なくして尻に火がついて。
そんなとき、知人から東京で「カンタベリー・ハウス」(※新宿で隆盛を誇ったディスコチェーン)やレストランを15、6軒やってる社長が人を欲しがっているから行ってみない?と誘われて。そこの本社の芸能部に入ったんですが、要はフィリピンバンドの世話係でした。
当時の大箱のディスコはフィリピンと日本のバンドが交互に生演奏するシステムが主流でしたが、素行不良だったりドタキャンしたりが当たり前のようにあった。
そこで僕は会社に「効率が悪いからレコードにしましょう」と提案し、その流れがやがて六本木、赤坂と広がって行ったんです。
ーー当時のディスコのシステムを乱さんが変えたんですか?
乱:そんな大袈裟なものではないですよ。バンドからレコードへ変わるのは極めて自然な流れだったと思います。
おかげでフィリピンバンドの呼び屋さんからは相当なプレッシャーをかけられましたけど。それでちょっといい気になって(笑)、次の年に日本武道館を貸し切って巨大なディスコにしたこともありました。1975年、25歳くらいのことです。
◆素人がいきなり“ラジオの帯番組”を任された
ーーそこから次はどの道へ?
乱:結局その会社も1年ほどで辞めて、イベントを通じて知り合ったニッポン放送の仲のいい営業から「暇なら遊びに来てください」と言われて。
行ったら上野修というプロデューサーがいて「これからどうするの?」「趣味は?」なんて聞かれるままに話してたら「来月からうちでしゃべって」と。
ーーいきなりですね。しかもノリが軽い。
乱:それが平凡パンチ提供の『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』という番組です。
上野さんは伝説のプロデューサーで、夜な夜なヒッピーが集まって酒を飲んでいた新宿アルタ前に行って、ロングヘアーのカツラをわざわざ被って彼らと仲間になりに行くような人で。
ーーその番組は週1回の出演とか?
乱:いえ、月〜金の帯(笑)。15分番組のうち、曲やCMを除くとしゃべりはだいたい7分くらい。でも、夜の7時にラジオ局に入って収録を始めて、でてくるのが朝の4時とか。
ーーどうしてそんなに時間がかかるんですか。
乱:まず「みなさん、こんばんわ」って言ったら、すぐさま上野さんが「はいダメ」と。でも答えを教えてくれない。自分で探せ、と。困っていると「ラジオは『みなさん』で聴くか?『あなた』なんだよ」と。そういう教育を現場で受けましたね。
◆ラジオで学んだインタビューの作法は「相手を怒らせろ」
ーー直接、叩き込まれたわけですね。
乱:その一方で「誰か会いたい人いる?」って聞かれて僕が答えると、上野さんはだいたい叶えてくれました。
インタビューの作法というかやり方は『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』の4年間で培ったと今でも思っています。
ただ、ホント厳しかったですね。「じゃあなんで俺を呼んだの?」って叫びたくなるくらい。あとで聞いた話ですが、僕が断っていたら松山千春がやってたかもしれないと。千春はやらなくて良かったと思います(笑)。
ーーそこで教わったインタビューの作法がすごく気になります。
乱:「お休みの日は何してるんですか」とか「好きな食べ物は何ですか」みたいな通りいっぺんの質問は一切ダメ。できれば相手を怒らせろ、とにかく相手をアツくさせろと。
あるとき、冒険家の植村直己さんがゲストでいらっしゃったんですが、僕は自然とか全然興味なくて。そこで「いくら儲かるんですか?」「どこから金がでるんですか?」「結局はネームバリューを上げたいために北極とか南極に行くんですか?」って聞いたんです。
ーーなかなか怖いもの知らずですね。
乱:そしたら植村さんがおもむろに立ち上がって「今日はこれで失礼します」。ディレクターをはじめスタッフは慌てて植村さんを引き留めながら、彼に見えないところで僕に向かって親指を立ててました(笑)。
ーーそのあと、植村さんは……。
乱:戻ってきて話してくれました。さすがですね。今思えば、同じことを聞くにしても聞き方ってあるじゃないですか。そこは自分も未熟だったと思います。
ーーそのほかに学んだことは?
乱:ウォーミングアップ。本題に入る前に、関係ない日常の出来事をさらっと話すんです。
「さっきロビーで松田聖子ちゃんと松本伊代ちゃんがいたんですけど、どっちがタイプですか? 僕は松田聖子ちゃんですけど」みたいな。特にそれは『トゥナイト』のとき役に立ちましたね。
ほとんどが素人さん相手の取材だったので、最初に的外れなところから入って空気を和らげるというテクニックです。
◆芸名の由来と秋元康から言われた言葉
ーー「乱一世」という芸名はどういう経緯でついたのですか。
乱:僕、本名が「石瀬」って言うんです。で、子どもの頃から「いっせい」って呼ばれていて。
そしたら上野さんが「『いっせい』は残そう」と。ちょうど『ルパン三世』も流行っていたし、「ジョージ一世」とか「ルイ一世」とか、それこそ「三遊亭一世」とかいろいろな候補が挙がって。
最終的に「波乱一世」に落ち着いたところで、飲みに行くかってなったとき、ディレクターの一人が「すみません、この後、歯を抜かないといけなくて」って言い出して。
それを聞いた上野さんが「そんなもの痛くなる前に抜いとくんだよ!歯なんて!……歯を抜く?よし『波』取るか。乱一世だ!」って。実話です。
ーー最初に話された事務所の件といい、どんな流れもいったん受け入れる乱さんの受容力がすごいです。
乱:たぶん、昔から何に対しても俯瞰で見て面白がる性格なんでしょうね。
ちなみに『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』の台本を書いていたのが、当時まだ学生だった秋元康なんですけど、何年か経って一緒に仕事をしたとき「一世さんはプロデューサーの目を持ちすぎだ。もっと自分が前に出たほうがいい」と言われて。
こないだ会ったときにその話をしたら「そんな生意気なこと言いましたか」って彼は言ってましたけど、僕は的を得ていると思いましたね。
◆二つ返事で引き受けたナレーションの仕事で賞を取った
ーーそこからどうやって『トゥナイト』につながっていくんですか?
乱:『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のレギュラー出演が終わったとき、上野さんから「おまえもそろそろタレントやっていくならフリーだとマズいから」と、大橋巨泉事務所を紹介されたんです。
タレントになんかなるつもりなかったし、「あの巨泉さんですか?俺が最も嫌いなタイプの人間ですよ?」って(笑)。
結局、事務所に入ったんですが、当時はイベントが一年を通じて花盛りで、晴海で開催されたオーディオフェアではクラリオンという会社のブースでトークをしたりしてました。
ーークラリオンガールは烏丸せつこや蓮舫などを輩出して一世を風靡しましたよね。
乱:そこの課長さんに「君、ナレーションできるでしょ?」って聞かれ、こういう性格なものだから「できますできます」と二つ返事で引き受けて。
「カラコルム山脈にちょんまげを結った日本人のルーツがいた」というドキュメンタリー番組のナレーションを生まれて初めてやったら、その番組がフジテレビの社内賞を取って。
◆与えられた仕事を投げ出す気力がなかっただけ
ーーナレーターの才能がそこで開花したと。
乱:もともと僕はテレビに向いてないなとは思っていたんですよ。いろいろな人の話を聞いても好きなことしゃべれないし、せんだみつおさんのように開き直って自分をさらけ出さないと売れないんだろうなって思っていたし。
そんなとき、別のラジオのレギュラーが終了したタイミングで、焦ったマネージャーがテレ朝に駆け込んで仕事を取ってきてくれて。
それが『トゥナイト』。最初はナレーターとして入ったんです。そのうち頼まれてリポーターをやるようになりましたけど、相続税や土地税制のリポートとか固いテーマのリポートを主に担当してました。
38、39歳の頃でしたね。『トゥナイト』では「誰に面白がってもらうか」というより、目の前の題材に肩の力を抜いて自分なりに向き合えばいいんだ、ということを教わりました。
ーーそういう意味では真面目だったんですね。
乱:真面目というか、与えられた仕事を投げ出してまで別のことをする気力がなかっただけですよ(笑)。
言ってみれば、あっちのラーメン屋の皿洗いよりこっちの牛丼屋の皿洗いのほうが時給が高いし、キレイなお姉ちゃんも来るし、みたいな。自分にとっては単にそれだけのことだったんです。
<取材・文/中村裕一 撮影/山川修一>
【乱一世】
’50年、東京都生まれ。ラジオ番組『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』でデビュー。伝説の深夜番組『トゥナイト』『トゥナイト2』のリポーターとして一世を風靡しただけでなく、『噂の!東京マガジン』『愛の貧乏脱出大作戦』『東京フレンドパーク』『なないろ日和!』など、さまざまな人気番組のナレーションを担当
【中村裕一】
株式会社ラーニャ代表取締役。ドラマや映画の執筆を行うライター。Twitter⇒@Yuichitter