6歳の歌姫、ののちゃんこと村方乃々佳のYouTubeチャンネルが登録者数50万人突破の記念に、妹の「ひーちゃん」とお寿司を食べる動画がアップされたところ、まさかの大炎上しています。
◆「妹がののちゃんの髪を引っ張った時点で止めるべき」「毒親」と批判
問題のシーンは、妹・ひーちゃんがののちゃんの髪を引っ張ったのに対して、ののちゃんが引っ張り返した場面。
ひーちゃんが大泣きすると、一部始終を撮影していた母親が「(ののちゃんは)なんで怒ってたの? ひーちゃん、髪の毛2本抜けちゃったよ、かわいそうに」と諭(さと)し、ののちゃんが妹に謝罪するというものでした。これを見たネットユーザーから批判的な声が多く上がっているのです。
“一番かわいそうなのはののちゃん。妹がののちゃんの髪を引っ張った時点で止めるべき”とか、“ののちゃんを悪役にして再生回数を稼ぐなんてとんでもない毒親”と辛辣なコメントもありました。
◆「子供」を大人がもてあそぶなら遅かれ早かれ起きた炎上
筆者も同じ感想です。うがった見方をすると、どちらかが大泣きするか癇癪(かんしゃく)をおこすかといった、おいしいシーンが撮れるまで子どもたちを泳がせておいたような印象を抱きました。いわゆる撮れ高を気にしていたのではないか、と。
今回の炎上で、ののちゃん姉妹への影響を心配する声が高まっていますが、筆者は遅かれ早かれこうなることを想定していました。
2021年に3歳のののちゃんがあいみょんを歌うナンセンスを指摘した記事以来、計3度にわたってののちゃんの歌や振る舞いについて書いてきましたが、問題の根っこは何一つ変わっていないからです。それは、「子供」という記号を大人がもてあそぶ罪です。
◆“子供らしさ”を大人が用意した世界での小道具として消費
たとえば、歌手、村方乃々佳が世に出るきっかけとなった「いぬのおまわりさん」を思い出してみましょう。
<まいごのまいごのこねこちゃん>のオーバーなアクセントと、どこか口をすぼめてデフォルメされた発音には、すでにののちゃんが自分に託(たく)された“子供らしさ”を必死に演じている気配がうかがえます。自然ではつらつとしたものではなく、一定のトーンで隙(すき)を見せないテクニックによって加工された“子供らしさ”なのですね。
ののちゃんの歌うあいみょんに違和感を覚えたのも、まさにこの部分でした。若者の恋愛感情など全く理解しようもない幼児にそのような曲を歌わせるおかしさを見世物にする。
どういうことかというと、歌詞の内容をくり抜いて空っぽにして、大人っぽい言葉の形だけが残ったものを、ののちゃんが機械的になぞるということです。
つまり、大人が用意した書き割りの世界の小道具のひとつとして、「子供」が消費されているだけなのではないか、と感じるのです。
◆“プロの子供”という衣装を脱げない圧迫感
さらにここには二重の歪(ゆが)みが生じてきます。まだ子供であるののちゃんが、大人の目線が作り出した記号としての「子供」を演じなければならない苦しみです。
つまり、実人格で子供でありながら、同時に“プロの子供”という仕事をこなす大人のタスクが課せられているのです。
2歳、4歳、6歳のときの歌をチェックしてきましたが、この脱ぎ着できない衣装を常にまとわされている圧迫感が、村方乃々佳の芸風の本質なのではないかと思います。
◆6歳でリアリティーショー的なことを私生活でさせられている現実
そして、今回の姉妹喧嘩の動画では、この村方乃々佳がこなさなければならない仕事の領域が、私生活にまで及んでしまった。だからこそ、ここまで一方的に批判を受けることになったのです。
それまでは、歌やバラエティ番組での絡(から)みなどで「子供」を演じていれば良かっただけのものが、とうとう一線を越えてしまった。6歳にしてリアリティーショーみたいなことをさせられている現実に、ついに世間の厳しい目が向けられたのです。
確かに、ののちゃんとひーちゃんをどう育てるかについて、外部の人間がとやかく言うことではありません。しかしながら、社会が子供を守る役割も担っているのだとすれば、やはりこの大きな違和感は無視すべきではないのでしょう。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4