広岡達朗が語った渡邉恒雄との知られざる縁 「ナベツネの最大の功績は...」

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2025年02月10日 19:10  webスポルティーバ

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「巨星墜つ」という言葉が、これほどふさわしい人物もいないだろう。

 昨年12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆、読売巨人軍元取締役最高顧問として各界で辣腕を振るった渡邉恒雄が、98歳で肺炎のため都内の病院で逝去した。

 戦後の政治と流通の仕組みを近代社会に適応させた読売の首領だけに、各界から悼む声が相次いだのは記憶に新しい。そんな渡邉氏と、野球界最後の名将として生きる伝説の巨人軍OB・広岡達朗には、あまり知られていないが深い縁があった。

【手紙でやりとりする仲だった】

 広岡が生前の渡邉について、静かに語り始めた。

「ナベツネ(渡邉恒雄)とは、手紙のやりとりをしていた時期があった。1988年に巨人の監督だったワンちゃん(王貞治)が、5年目のシーズンを終えて辞任した。そのシーズン中、早稲田大の先輩である岩本堯さんが巨人のフロントにいて、オレのところに監督就任の打診をしに来たんだ。でも、すぐに断ったよ。その時に『優勝できないからといって、球界の至宝であるワンちゃんを切ってはならない。優秀なヘッドコーチをつければ勝てる』と言ったんだが、結局、事実上の解任となった。その頃、ナベツネは(読売新聞社の)副社長だったかな。

 その後、社長になって、しばらくしてから手紙が届いた。『あの時、私はまだ若く、力及ばずでしたが、もしあなたを巨人の監督に迎えていれば、歴史は変わっていたでしょう』と直筆で書かれていたよ」

 1984年、王貞治が巨人の監督に就任し、4年目の1987年にリーグ優勝を果たすも、日本シリーズで西武に敗退。そして迎えた88年は「東京ドーム元年」ということもあり、なんとしても優勝を果たしたかったが、中日に12ゲーム差をつけられ2位に終わった。そのシーズン中から、次期監督候補として広岡の名前が挙がっていた。

「ワンちゃんのあとになんのためらいもなく、監督に就けると思ったら大間違いだ。だから、すぐに断った」

 かつて、長嶋茂雄が1980年オフに監督を辞任した際、日本中に激震が走った。建前上は辞任だが、実際は事実上の解任とみなされ、巨人はファンから猛反発を受けた。だからこそ広岡は、「繰り返してはならない」と監督要請を固辞した。

 当時、巨人軍のオーナーは正力亨、読売新聞社の社長は小林與三次だったが、読売グループの最高実力者は名誉会長の務臺光雄(むたい・みつお)だった。務臺は絶対的権力者であり、1980年の長嶋解任を決めた張本人でもあった。一方、渡邉は社長の小林の下におり、上層部を押しのけようとするたびに務臺に睨まれていた。

「務臺さんは"反長嶋"と言われていたが、別に嫌いだったわけじゃない。ただ監督として長嶋ではダメだと思ったから、川上(哲治)さんを支持しただけ。オレは務臺さんとはほぼ交流がなかった」

 1991年に務臺が死去したあと、渡邉は読売新聞社の社長となり"ナベツネ"時代が到来する。

【ナベツネの最大の功績】

 そもそも超インテリの渡邉は、学生時代からカントやヘーゲルの哲学書を貪り読み、真剣に哲学者を志していた。1945年に東京帝国大学(現・東京大学)に入学するも、すぐに学徒動員で徴兵され、戦争を体験。戦後の混乱期に共産党へ入党するが、肌が合わずすぐに脱党。

 その後、読売新聞社に入社し、26歳で政治記者として永田町に足を踏み入れることとなる。彼は深い洞察力と知識を生かし、政治家とのコネクションを築きながら、マスコミの権力を背景に政界への影響力を強め、キングメーカーへと成長していった。

 一方で、マスメディアの経営者でありながら、自民党や官僚など財界と一体となり、権力側に回った独裁者とも揶揄された。それでも渡邉のように政府と協力しながら是正策を講じる存在も、時には必要とされた。

 1996年、渡邉は正力亨を名誉オーナーにし、自ら巨人軍オーナーに就任する。

「ナベツネからの手紙をきっかけにちょくちょくやりとりをし、毎年、盆と暮れには贈り物も届いていた。でもオレが、巨人批判やコミッショナーの機能不全について厳しく指摘すると、贈り物も来なくなったよ。

 でもナベツネの最大の功績は、1992年のオフに長嶋を巨人の監督に復帰させたことだ。Jリーグが発足し、プロ野球人気を考えての英断だった。務臺さんが存命の間は長嶋の復帰は絶望的だったから、ナベツネが読売新聞社の社長になったことで実現したというわけだ。巨人の監督は"読売新聞社の権力の鏡"とも言われていたから、ナベツネの影響力がいかに大きかったかがわかる」

 現役時代に三遊間を組んだ長嶋の監督復帰は、広岡にとっても大きな刺激となった。実際、長嶋の監督復帰の2年後、ロッテのGMに就任している。

「ひとつの大きな星が動けば、周りも動く」

 広岡はそう語りながら、遠くを見つめていた。

文中敬称略

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