週刊文春が「中居・フジ問題」で誤報!強行報道の末に見えた綻び

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2025年02月13日 13:51  サイゾーオンライン

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サイゾーオンライン

 ネット社会である。情報は瞬く間に拡散され、毀誉褒貶が生まれ、それが既成事実となり、デジタルタトゥーとして残る。一度汚名を着せられると、それを回復するのは容易ではない時代。だからこそ、メディアが人の評価に関わるニュースを報じる際には、丁寧な取材が必要ではないのか。

“ドン”日枝久氏は何を思う?

 ここ最近、ジャニーズ問題にしても松本人志問題にしても、週刊文春が世間を揺るがしているのは、誰の目にも明らかだろう。だからといって少しばかり傲慢になってはいないか。私も週刊誌でも仕事をしているので、テレビや新聞といういわゆるオールドメディアと比して、週刊誌がバカにされたり、ネット媒体が軽んじられたりすると、いい気はしない。「内心では舐めやがって…」と感じることだってある。それは、週刊誌やネット媒体で働く者ならば誰でも持つ感情ではないだろうか。

 だからこそ記事化するには、丁寧な裏取りが欠かせない。しかしながら昨今の文春はどうであっただろうか。ターゲットが少しでも意に沿わない態度を取れば、ムキになっていなかったか。今回の中居正広問題の訂正の件は、そのツケが回ってきたと言われても、仕方がないのではないか。

メディアの責任と取材の基本

 報道には「一方を聞いて沙汰するな」という原理原則がある。すなわち片側の人間に肩入れして、もう一方の話を聞かずに記事にしてはならないという意味だ。そして記者たるもの公平公正でなくてはならないのだ。これが取材のイロハのイだ。それを中居問題では、ハナから中居正広氏が悪だと決めつけて記事化しようとしていなかったか。

 さまざまな人間が何度も口にしているし、フジテレビ幹部も記者会見で口にしていたが、中居氏と被害者女性の間には示談が成立していたのだ。それで免罪されるという話ではない。事実確認をしているのである。示談が成立している以上、一方の当事者である中居氏が取材に応えられないという態度を取ることは責められたことではない。司法の場ではない。メディア側に話させる権限などはない。もし取材に応えさせて、守秘義務が破られれば、それに伴う責任をとれるのだろうか。被害者女性には、その禁すらも破らせているのだ。

 そして、中居氏が応えないことを良いことに、被害者女性の言い分のみで記事化が進められて、この女性は問題が起こった当日、フジ編成幹部A氏に誘われて会食に行ったという記述がさもファクトであるかのように報じられ、世間をざわつかせ、フジ糾弾の起点となったのは承知の通りである。

 ここまでのことをしておいて、「間違っていました。訂正します」で本当に済むと思っているのだろうか。松本人志問題でもそうだったが、客観性が担保されない一方の当事者の声、いわば心の声が事実関係を裏付ける根拠となるのであれば、なんだって記事にもできるし、悪意にも変換できる。

 誰にだって間違いはある。過ちはある。しかし、そこを徹底的に責めたててきたのが文春でなかったのか。女性が自分の意志で中居氏の自宅に行ったことと、フジ社員に誘われて、騙し討ちのようになったとでは事実関係が明らかに違う。責任の所在も大きく異なる。申し訳ないが、心の声はどうだって良い。核心部分である事実関係の話をしているのだ。

 先日の会見でフジ幹部も、中居氏と女性、双方の認識が違った旨を話し、すぐに発言を撤回したが、そこが大きな論点であったのは明白だ。平たくいえば、被害者側は無理矢理だと主張し、中居氏はその認識を持っていなかったと話しているのだろう。もちろん真相はわからない。当事者の認識すら食い違っているのだ。わかるはずがない。わかるはずのないことを、片側の意見だけで記事化するのは危険ではなかったのか。

 フジテレビサイドは文春の記事を元に、わざわざ編成幹部A氏の当日のやり取りについても調べているのだ。そこでも何一つ、A氏が会食に関与したという証拠が出てこないのだ。本当によい迷惑ではないか。突然、身に覚えのない疑いをかけられたフジ社員も迷惑だろうし、あたかもそれが事実かのように広まってしまったことでどれだけの人間に迷惑をかけ、損害を被らせたと思っているのだ。

誤報の代償と報道の倫理

 これが特定の記者による署名記事だったら、どうなっていたか想像してみればよい。その個人は、ただでは済まされないだろう。それこそ、社会的に抹殺されてしまうかもしれない。

 そもそも、司法機関でもない週刊誌が、疑惑を持たれた著名人を罪人のように扱い、社会的に抹殺してよいのだろうか。ジャニーズ問題でも、松本人志問題でも、まるで犯罪者のごとく毎週毎週、ターゲットを責め続けたが、それで誰かが逮捕されたり、起訴されたりしたか。はっきり言って、中居氏の問題を記事化するにしても、個人が特定できないレベルでの表現に留めておくべきだったろう。片側の言い分のみに依拠するには、あまりにもリスキーだからだ。

 今回の問題、情報のリーク元は大したことはない。フジ関係者から漏れていた。しかも、私が信頼を寄せている筋に確認したが、一つのルートからではなかった。複数の固いルートから、中居氏が女性問題でトラブルになっていると漏れてきていたのだ。ただ、いたずらに飛びついてはいけない状況だった。繰り返すが、すでに示談が成立したのだ。

 原理原則では、2次被害の可能性も含めて、守秘義務があることを考えれば、当事者に話させることは、記者がやるべきことではない。是が非でも許せない、守秘義務違反によるリスクも自身で負うという覚悟を持って当事者から持ち込まれきた案件ならまだしも、今回はそうではなかったのだ。そもそも、仮に当事者からの持ち込みであっても、迂闊に飛びつくことはできない。書き手は取材協力者を是が非でも守る責務があるからだ。記事にすることで取材協力者に何かしらの被害を被る可能性があるならば、記事化を見送ることを選択しなければならない。目先の功名心に惑わされてはならない。それが記者としての分別というものである。

 ここまで述べれば、どれだけフジの記者会見で騒いでいた一部の記者たちが無能であるかわかるはずではないのか。事実誤認のある記事を錦の御旗に、あたかも正義のようにフジ幹部を責め立てたのだ。そこには、当たり前になくてはならない、相手方への敬意というものがなかった。

 大事なことを教えておこう。記者たる者、どのような相手であっても、取材対象者には敬意を払わなくてはならないのだ。それが司法とは違うジャーナリズムなのだ。たとえ記者風情がと蔑まれるようなことがあっても、ペンを握る者の矜持だけは忘れてはならないのだ。

 恥ずかしくはないのだろうか。フジ社員があたかも問題の事案に関与したかのように、フジ幹部に対して大演説を打ち、説教までしたのだ。その模様はテレビで流されていたのだ。普段ならば、口も聞けないような大メディア幹部に対して、舌鋒鋭くまくし立て、さぞ気持ちがよかったかもしれないが、結果として醜態を晒しただけの記者も少なくないだろう。自分ではろく取材もせず、裏取りをしてこないから、文春の記事に振り回されるのだ。そんなことは、プロの記者として失格ではないか。

 フジの上層部も、そろそろ怒りをあらわにしていいのではないだろうか。第三者委員会を通して、事実関係や自らの責任を明らかにしていくとのことだが、今回の問題でフジが糾弾される最大の根拠のひとつだった文春の記述は誤報だったのだ。黙っている必要はない。時には、汚名を返上し、泥を払うことは、自ら行わなくてはならないこともある。それが今ではないだろうか。

(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)

フリー記者の質の悪さに憤り

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  • ドンではなくガンだろw 末期がんか進行性のスキルスちゃう???w 司馬:このクランケ君ならどう判断する?石川:かなりステージの進んだガンだ、だれのですか?峰:司馬先生〜〜。司馬:どいてろ。石川:誰のだ〜〜。
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