当時のことを回想する里奈さん2022年の厚生労働省の調査によると、日本における統合失調症の患者数は約63.9万人と推計されている。そのうち、75%にあたる48.5万人は通院治療を続けているが(厚生労働省 精神疾患を有する総患者数の推移 )、残りの15万人以上が適切な治療を受けられていない可能性がある。これは、精神科医療機関の地域偏在や、長期間の通院を支える社会資源の不足が背景にあると指摘されている。また、家族の理解や支援が得られないケースも多く、患者が孤立するリスクを高めている。
埼玉県に住む、里奈さん(仮名・28歳)も、そのうちの1人で、アルバイトをしながら実家で生活している。しかし、幻覚、妄想、思考障害、緊張症状、奇異な行動などが現れた頃は、思い出すのもつらいほど怖かったと振り返る。
◆生きづらさからリストカットにハマる
彼女が診断されたIQは88。境界知能と言われるIQ70〜84の人よりは高いが、時には福祉の支援が必要となるグレーゾーンの数値だ。小さい頃から、周囲の子と同じように整列できないなど、里奈さんは生きづらさを感じていた。両親と祖母、兄の5人家族に産まれ、両親は共働きで忙しく、彼女のつらさに気づいてくれなかったという。
「高校生になる頃には、リストカット(以下、リスカ)を繰り返していました。血が出ているのを見ると、『生きている』と感じられました。保健室登校をしていて、保険医の先生がリスカの跡に気づいてくれ、親にバレました。その時に精神科病院を受診し、重度のうつ病と診断されました」
彼女は、果物ナイフを常に携帯していて、つらくなるとトイレでリスカをした。
「痛みでストレスから解放されました。生きるためにはリスカするしかなく、跡が残るとか考えられなかったです」
そう振り返る彼女の腕には無数のリスカの跡があった。その時に、保健医だけが彼女の心の痛みを受け止めてくれ、臨床心理士のカウンセリングにも繋いでくれた。その心理士の元には今でも通院している。
両親に理解はなく、父は保健室登校する彼女の枕を蹴り「誰がお金を払っていると思っているんだ」と責め、母も祖母も「五体満足で産まれたのに何てことをするんだ」と怒った。
その後、担任の先生の理解もあり、最低限の授業にだけ出席し、里奈さんは高校を卒業した。
◆高校卒業後も就職先ではミスを繰り返しパワハラに
高校卒業後、事務関係の仕事に正社員として就職するが、自分が何を求められているか分からずに、何をするにもミスが多く、時間がかかった。そんな彼女は上司からのパワハラに遭う。
「漢字の間違いが多かったので、就業時間外に漢字の練習をさせられました。また、高校の通知表を見て、成績の低さを責められました。それまでアルバイトもしたことがなかったので、それが普通だと思っていました。食事も取れなくなり、嘔吐するようになりました」
耐えきれなくなった彼女は、両親に頼んで3か月で退職する。両親からは「これからどうするんだ?」と言われるも、焦るばかりだった。
3か月休んだ後、パン工場でパートをするが、上司と合わずに1か月で会社を辞めた。
「電話で辞めると伝えましたが、ものすごく怒鳴られました。怒鳴られながら辞めるのが普通なんだと思いました。どうしよう、働くのも生きるのも向いてないと絶望しました」
数か月後に大手コーヒー店にアルバイトとして勤務することになるが、仕事中に怒鳴られ泣く彼女に、店長の女性だけは優しかった。そのバイトは1年続いたが、店長が異動になり辞めた。だけど、里奈さんは珈琲の勉強をしたいと思い、誘ってくれた先輩男性に声をかけられ、20歳の時に、正社員として家族経営のコーヒーショップに転職した。
◆温かかったコーヒーショップの人間関係
コーヒーショップでは仕事に苦戦しアルバイト採用となったが、オーナーや温かい仲間のおかげで初めて人を信頼でき、リスカ癖も消えた。22歳で処方薬をやめ、カウンセリングのみで7年過ごした。しかし、26〜27歳で正社員に昇格し、リーダー職を担うと同時に1人暮らしを始め、ストレスがピークに達した。彼女の下には恋していた33歳の男性アルバイトがいたが、心身に変化が現れ始めた。
4月に正社員になった彼女は、5月に男性に告白したが振られた。しかし、お笑いライブのネタがきっかけで両思いと思い込み、妄想や幻覚(統合失調症の症状)が現れ始めた。爆発した恋心から大量のLINEを送り、隣人を彼と思い込んでラブレターを20〜30通投函し、さらには彼との子を想像妊娠までした。
◆「怖くて怖くて、ほとんど眠れませんでした」
2022年7月8日の安倍晋三銃撃事件の際、犯人が「旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への恨みから教団との関係が深い安倍を狙った」と供述したことで、旧統一教会が自分を狙っていると被害妄想に陥る。近所の駐車場で銃撃戦が行われていると思い込み、母が若い頃に旧統一教会の信者だったことを知ったこともあり、恐怖から1人暮らしのアパートを財布と携帯だけを持って出た。
仕事に行かなくなり、キャリーバッグを持って各地を借金しながら逃げ回った。だが、定期的に受けていたカウンセリングで心理士が異変に気付き、親に連絡。3週間の逃避行が終わり、精神科病院で治療を始めたが、薬が効くまでは旧統一教会に囲まれたと思い込み、親とも会えなかった。
「LINEは途中から、その彼にはブロックされていたようです。隣人にも迷惑をかけましたが、幸い、警察沙汰になることはありませんでした」
統合失調症は、自分が病だと自覚できない病識のない病だ。当時の彼女にとっては、全て現実に起こったことだと感じられたという。
「怖くて怖くて、ほとんど眠れませんでした。数時間置きに目が覚めてしまいました」
◆過去を思い出し死のうとしたことも
薬を服薬し、徐々に、自分がしたことを思い出した彼女は、ロープで首を吊ろうと思い詰めたこともある。
「私はこんなことをしてしまったと思うと、恥ずかしさから、ロープを購入しようと考えたこともあります。だけど、同時に、まだ生きたいと思いました」
自殺を踏みとどまった里奈さんは、逃亡中にできた100万円近い借金も、親に返してもらい実家に戻ることとなった。現在は、薬で症状を抑えつつ穏やかに暮らしている
同じような病を抱える人や周囲の人たちに伝えたいことを聞いた。
「私もこれだけおかしなことをやってしまったから、あなたも大丈夫。人生、何とかなる。だから、死ぬという選択をしないで。統合失調症は希望を持てない時もある病だけど、薬で管理できます。周囲の人には、病名だけで怖がらないであげて欲しいと思います」
周囲に恵まれていた彼女は、現在は元の職場でアルバイトとして働いている。オーナーの懇意で、現在は、週3日8時間はコーヒーショップで、週2日はピザ屋でアルバイトをするまでに回復した。だが、里奈さんのように理解ある支援者に巡り会えない人も多く、精神医療や家族教育の充実が求められている。
両親には理解してもらえなかった里奈さんだが、学校やアルバイト先の人など、他人に救われた彼女は、今も病気を抱えながら前向きに生きている。病気の回復に一番必要なのは、周囲の理解なのかもしれない。
<取材・文/田口ゆう>
【田口ゆう】
立教大学卒経済学部経営学科卒。「あいである広場」の編集長兼ライターとして、主に介護・障害福祉・医療・少数民族など、社会的マイノリティの当事者・支援者の取材記事を執筆。現在、介護・福祉メディアで連載や集英社オンラインに寄稿している。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1