
大谷翔平とマイケル・ジョーダン 前編
現在のMLBにおける大谷翔平とNBAのカリスマ、マイケル・ジョーダン。1990年代からアメリカのプロスポーツシーンを取材し続けてきた筆者の目には、ジョーダンが歩んだ道は、大谷がMLBで歩み続ける道と重なってくる。
野球とバスケットボールという異なる競技だが、それぞれのフィールドでの存在感、そしてメンタル的なアプローチ。ともにチームスポーツゆえ、一人だけで勝つことはできないなか、自身のパフォーマンスや存在感によってチームに勝利をもたらすのみならず、リーグ自体のステイタスを引き上げている。
【ベテラン記者の指摘する大谷&ドジャースの歴史的潜在価値】
オフの間、ロサンゼルス・ドジャースは圧倒的な資金力を武器に積極的な補強を続け、1月には佐々木朗希まで獲得。これに対し、他球団のファンからは「悪の帝国」と揶揄する声が全米各地で広がった。しかし、スポーツ専門サイト『ジ・アスレチック』のケン・ローゼンタール記者は1月のコラムで、こう指摘している。
「Ohtani and Co. elevate the game the way Michael Jordan and Co. once did in the NBA with the Chicago Bulls/大谷翔平と仲間たちは、かつてシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンらがNBAにもたらしたように、野球の価値を高めている」
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だからこそ、ドジャースを悪役扱いするのではなく、贔屓チームにも真剣に競い合うよう、背中を押すべきではないか−−。
この一文は、筆者の心に深く刻まれた。筆者はローゼンタール記者と同世代で、1990年代にはNBAの取材もしていた。当時、マイケル・ジョーダンはバスケットボール界を超え、アメリカ社会全体で特別な存在だった。そんなジョーダンと肩を並べる形で、日本人アスリートが語られる日が来るとは、当時の自分には想像すらできなかった。だが、今のMLBで最も信頼される記者のひとりであるローゼンタールがそう書くのなら、1994年7月5日生まれの大谷は30年の時を経て、まさにその域に達したのだろう。
ジョーダンはNBAで6度の優勝、6度のファイナルMVP、5度のシーズンMVPに輝き、その存在がリーグの地位を押し上げた。優勝1度、シーズンMVP3度の大谷もまた、MLB関係者から同じような働きを期待されている。
ふたりには少なからず共通点がある。
向上心が強く、最強の選手になるために誰よりも練習し、己を高める努力を惜しまない。大谷はFAになるのを待たず、日本で5年プレーしただけでMLB挑戦。ジョーダンも大学のコーチに勧められ、4年目のシーズンを待たずに1年早くNBA入り、ドラフトで1巡目3位に指名された。
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【ジョーダンが打ち破った既成概念と残した功績】
ジョーダンが入団した当時のブルズは、弱小チームだった。先輩選手たちはパーティに明け暮れ、ドラッグやアルコールに溺れ、女性を追いかけていた。しかし、ジョーダンはそんな環境に流されることなく、バスケットに集中。寝て、起きて、バスケットをプレーする。ただそれだけのシンプルな生活を送り、驚異的なスピードで進化していった。
バスケットボールの世界では、身長が重視される(7フィート=213cmに近い選手が高さの基準になっていた)。プロ入り時、「198cmの選手(ジョーダン)がチームを変えられるはずがない」と決めつける声もあった。実際、彼より上位で指名されたふたりは、いずれもより背の高いセンターの選手だった。だがジョーダンは、「お前には無理だ」と言われるほど、それが誤りだと証明しようと奮起するタイプだった。
そしてすぐに、自らが唯一無二の存在であることを示してみせる。
2年目のシーズン、ブルズは30勝52敗と低迷したものの、第8シードでプレーオフに進出。第1シードのボストン・セルティックスに挑んだ。シリーズ第2戦、ジョーダンは相手の徹底マークをものともせず、次々とシュートを沈め、プレーオフ史上最多の63得点を記録。この試合を目の当たりにしたセルティックスのエース、ラリー・バードは「あんなプレーができる者は誰もいない、彼はマイケル・ジョーダンの姿をした"神"だ」と有名な台詞を残している。
ジョーダンは大谷と同じく、プロ7年目で初優勝を果たした。ただし、大谷がドジャースに移籍する必要があったのと異なり、ジョーダンは入団当初のブルズを自らの力で強豪へと押し上げた。この違いは、両者がプレーするスポーツの構造によるものだろう。
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バスケットボールは、コートに立つのは5人。そして、勝負どころではベストプレーヤーにボールが集められる。ジョーダンにとって、スコッティ・ピッペンやホーレス・グラントといった相棒が成長することで、優勝する環境は整った。一方、野球はまったく異なる。打順がある以上、どれほど優れた打者でも毎打席打つことはできず、先発投手もローテーション制で登板数が限られる。ロサンゼルス・エンゼルスにはマイク・トラウトと大谷というふたりの超一流選手がいたにもかかわらず、チームは勝ち越すことさえできず、ポストシーズン進出も叶わなかった。野球において、ひとりの力でできることには限界がある。
筆者がアメリカに住み始めた1990年代前半は、ちょうどジョーダンがブルズを強豪へと導き、最初の3連覇を達成した時期だった。その人気はまさに圧倒的だった。テレビをつければ、ジョーダンが出演するCMが流れていた。ナイキ、マクドナルド、ゲータレード......。
ゲータレードのCMでは、「Be Like Mike(マイクのようになろう)」というフレーズが繰り返し歌われ、子どもから大人までが彼に憧れた。ナイキは1984年、ジョーダンのプロ1年目から「エアジョーダン」シリーズを発売。1年で1億2600万ドルを売り上げる大ヒットとなった。その後も毎年デザインを変えて新作を発表し、子どもたちはこぞって小遣いを貯め、競い合うように「エアジョーダン」を手に入れた。
1992年、ジョーダンはNBAファイナル2連覇を達成すると、わずか2カ月後にはバルセロナ五輪に「ドリームチーム」の一員として出場。圧倒的な強さで金メダルを獲得し、NBAの人気を世界へと押し広げた。ジョーダンは、世界で最も有名なスポーツ選手となり、彼のユニフォームやシューズは世界中で飛ぶように売れた。アスリートがグローバルブランドとして確立される時代の先駆けとなり、スポーツマーケティングの世界でも頂点を極めたのである。
つづく